北西辺境州

 12月30日8時にイスラマバードを出発して、12時過ぎにバタグラムのアクションエイド・オフィスに到着。途中、アボッタバードやマンセーラといった町を通り過ぎるが、複数のテント村を目にする。バタグラムにも大規模なテント村があり、大小のNGOもオフィスを構えている。こういったところを歩くと、NGOの活躍ぶりがよくわかる(カシミールには55のテント村が設置され、約5万人が暮らしている。また、北西辺境州内には23のテント村が設置され、3万5000人が暮らしている)。

 アライへは、インダス川のタコット橋付近で右折し、山中のうねり道に入っていく。だんだんと高度が上がってくると、インダス対岸に大規模なテント・キャンプが見えてくる。余震が続いたアライから、住民の多くがここに避難している。2時間ほどで山を越えると、なだらかな谷の底に着く。この谷は、山に隠れていてインダス川流域からはまったく見えない。

 到着したオフィスとは、アクションエイドが建設を進めているシェルターであった。7.5メートル×5メートル、大人が立っても天井まで余裕があり、かなり広い。中に火の気はなかったが、ふとんにくるまっていれば寒さはしのげる。

 アクションエイドのバタグラム・オフィス。一軒家を借り切っている。停電が多く、パソコンもほとんど使用されていないようであった。寒く暗いなかでの作業は効率が悪くなってしまう(2005年12月30日)。 

 12月31日朝8時ころから何十人もの村人が集まってきて、「早くシェルター用のシートをくれ」と要求している。実は、アクションエイドは「住民参加型」の援助の一環として、住民自身が木材でシェルターの骨組みを作ること、そしてNGO側がトタンのシートを配給することを提案している。この提案に村人は納得し、すでにあちこちに何十という骨組みが出来上がっている。しかし、提供されるはずのシートが届かない。すでに11月に一度降雪を経験した村人にとって、この遅れは許せないものであった。抗議の声は、怒気を含んでいた。多くのNGOが入っていながら、この時期にいたっても計画的なシェルター建設がはかどっていないという事実が、団体間のコーディネーションの欠落を物語っている。村のリーダー役が「援助漬け」の状況を嘆くほどに、ここにはNGOが集まっている。彼が名前を挙げたものだけで15もあった。もちろん州政府や軍も入っているが、調整はなされていない。

 中央を流れるのがインダス川。左側の湾曲した部分に、アライ住民用のキャンプがある。アライは右側の山の奥にあり、インダス川沿いからは見えない(2005年12月31日)。

 

 ラシャンとビヤリの村を訪れる。この2つの村では、シャプラニールからのお金を使って、女性や子供たちに防寒具が配られているはずである。しかし、ラシャンでは、「インダス川沿いのキャンプへ移動してしまった」ということで、肝心の村人に会うことができない。しようがなくビヤリ村へ向かう。この村の被害は相当ひどい。死者60名を数えるという。カットケールと違い、家屋が密集している。それが軒並み倒壊しているので、衝撃度は大である(この点、家が散在しているカシミールの丘陵部は、確実に「損」をしている)。

 ここには村人がかなり残っており、アクションエイドから物資をもらったという男性を探し出す。配布されたジャンパーを着ている子供を何人か呼んでもらって写真を撮影する。女性からも話を聞きたいと要望したが、断られる。

 

 シェルター用のシートを要求する村人たち。雪の時期となり、やりとりには険悪な雰囲気が漂う(2005年12月31日)。

 このビヤリには、プリンス・ムハンマド・ナワーズが住んでいる。1971年まで、彼の父がこの谷の支配者として君臨していた。そのころまで「国家の中の国家」は、スワート、ディール、チトラールなどパキスタン各地に存在し、決して珍しい存在ではなかった。今でもこの一族が、国家とアライ地方をつなぐ政治権力を独占している。プリンスが長年国会議員を務め、そのほかにも一族で州議会議員や町長的存在のナーズィムのポストを握っている。

 この体制を支えるのが「ハーン」と呼ばれる地主階級である。ハーンのもとで小作人として働いているのが「グージャル」あるいは「グジュル」と呼ばれる人々である。彼らは牧畜により重きを置く生活を営んでおり、谷の平坦な部分ではなく、斜面の上部や、谷のより上流に住んでいる。今回、援助の集中するアライであるが、このグージャルには物資はほとんど回っていないようであった。ハーンとグージャルの双方に被害が生じたわけだが、援助はまずハーンのもとに届けられ、そこから先への流れを階級とも呼べる格差が押しとどめている格好である。

 倒壊したラシャンの学校。公共施設の脆弱ぶりが、今回の震災ではひときわ目につく(2005年12月31日)。

 昼過ぎにアライを出発し、バタグラムに戻る。夜、立派な造りの家にもかかわらず、全員外のテントで就寝。皆よほど地震が恐いのだろう。しかし雨と雪が降り出し、テントに水が流れ込んできた。私ともう一人のふとんはびしょぬれになってしまい、室内へ逃げ込む。

 1月1日朝、周囲の山を見渡すと一面雪に覆われている。ついに雪が降り出した。帰路は、雪で立ち往生したバスやトラックのため、数ヵ所で渋滞。このまま峠道に閉じ込められるのではないかという不安が頭をよぎるが、なんとか通り抜けることができた(このとき、イスラマバード〜カシミール間はマリーのあたりで不通になっていた)。

 ビヤリ村では、家屋が集中して建っている。このため被害の状況はことのほかひどく見える(2005年12月31日)。

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