カシミール

 12月27日午後1時、イスラマバードを出発し、コサールが活動するカットケール村へと向かう。途中、有名な避暑地であるマリーを通っていく。このあたりまでは、地震の影響はほとんど感じられず交通量も多い。パンジャーブとカシミールの境であるコハラから支道に入ったとたん道が悪くなるが、これはもともとの整備状況がよくないためである。このあたりから壊れた家屋が散見されるようになる。さらに支道の支道に入ると舗装がかなりはげているし、穴も開いている。地震の影響で崩れた所もある。

 午後7時、ようやくカットケール村に到着。さらに夜道を20分ほど歩いて、テントに通される。地面もカバーするタイプで、さらに下にマットが敷いてあるので寝心地はよい。

 12月28日7時半に起床。テントの隣には再建された家がある。3人兄弟の家族計12人がここで寝起きしている。電気はついたり消えたりである。しかし雪が積もれば線が切れてしまい、例年2、3ヶ月は停電するという。電話線はないが、震災後SCOMという会社の携帯電話が配られた。6軒に1台くらいの割合で配布されている勘定だという。かけられるのはカシミール内のみだが、外からの電話を受けることはできる。

 カットケール村周辺の景観(2005年12月28日)。

 

 このあたりは、ゆるやかな丘陵部が延々と続く地形となっている。平地が限られているので、村といっても家と家はかなり離れて建っている。散村である。家屋は遠目には大丈夫そうに見えても、近づいてみると例外なく壊れている。まともな形で残っている家は、この村にはない。わずかではあるが、昨夜泊まったテントの隣のように再建された家がある。もちろんその数は限られているし、昨夜宿泊したような上質のテントでさえも、この村ではあまり見かけない。布を張り合わせたような「テント」を使っている人もいる。標高1500メートルを越えるこの地方では、多い年は2メートル近く雪が積もるというのに、その対策はほとんど進んでいない。

 シャプラニールは、緊急支援の第1段階として、10月21日、この村の100世帯を対象に約1ヶ月分の食料を配布した。そして第2段階として、35戸の仮設住宅建設を決定している。本来ならば、私の仕事は、この仮設住宅を見てくることになるはずだった。しかし、11月25日になされた送金が、1ヶ月たったこの時点でもまだ引き出せていなかったため、作業は始まってすらいなかった(後日、その理由は「銀行の職員が病気だったから」と判明した)。

 最初の晩に泊まったテント。このようなしっかりしたテントの数は少ない(2005年12月28日)。

 

 どこに行っても「家をなんとかしてほしい」との訴えを聞く。後日、イスラマバードで意見交換したコサール副代表のアラファトさんによれば、カットケール村だけで、70から80世帯が自力では家を建てられないとのことだった。男手を失った世帯も多い。周りに似たような状況の村が数限りなく広がっていることに目をつぶっても、「誰を支援するか」というのはかりの難問である。「貧しく困っている人」の数は、設置できるシェルター数を大きく上回る。

 その後、車で周囲の村、ヘリポート、WFP(World Food Programme)の配給所などを見て回る。被害の程度はカットケール村同様ひどい。ヘリポートには軍人が15人ほどいるが、主たる任務は物資配給の際の見守りである。WFPの倉庫にはビスケット、小麦、油、豆、塩などが保管されている。少し崩れた家を倉庫として使っている。危険な状態だが、ほかに置き場所がないという(コサールはWFPの委託を受けて、カットケール村と周辺の村々への食料配布を担当している)。この夜は、地面の部分がむき出しのテントで寝る。下からの冷気のためほぼ一睡もできない。気温の低下に加え、構造の違いが大きい。

 多くの村人は、家の跡地にありあわせの布をつぎたしてテントにしており、家の再建は進んでいない(2005年12月28日)。

 

 12月29日朝7時の気温は0度。夜中はマイナスだったに違いない。帰りはチカール、ムザファラバード経由で、イスラマバードへ帰ることとする。観察している「点」を「線」に広げるよい機会である。ジープで出発して二時間ほどでチカールに到着。被害のひどい町であり、道路の片側に並んでいた何件もの店が一挙に崖下に崩れ落ちたバザールは、かなり衝撃的である。ここには軍のキャンプがあり、診療所には各国から来た医師がいる。

 1時過ぎにチカールを出発し、ムザファラバードへ向かう。チカールから先は、舗装されており道幅も広い。途中、ジェーラム川沿いに何ヶ所もキャンプを見かける。ジャパン・プラットフォームのものもある。これに比べると、やはり支道を入り込んだ先に広がっている山村への支援は、かなり手薄であると言わざるを得ない。今回、パキスタンのNGOは相当がんばっており、「NGO」という言葉もこの2、3ヶ月で完全に定着した。「今までNGOなんて言葉は聞いたこともなかった。今回、最初に助けに来てくれたのがNGOだった。今はその言葉の意味を理解している」というカットケールの村人の言葉は、NGOの働きぶりを評価するものとして受け止めることができるだろう。しかしながら、カットケールで恒常的な活動をおこなっているのはコサールのみであり、他団体の活動は散発的なものにとどまっている。

 チカールの軍キャンプ内に設置されたクリニック。世界各地からやってきた医師・看護士たちが精力的に働いている(2005年12月29日)。

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