2011年3月11日 東日本大震災
東北の深刻な被害がわかってくるにつれて,下記のメモは気楽なように感じられて,なかなかHPには載せられなかった.
でも,やはり忘れないように載せておこうと思う.忘れてはいけない出来事だから.
◆3月11日(金) 当日
修論発表も終わって修士の学生の研究をまとめていた.学会もあるし,忙しいシーズンだった.
当日は午後1時から,翌週の日本機械学会関東支部で発表する学生達の発表練習を行った.
終わったのが14:15頃.その後,実験室(古めの四階建てビルの四階)で学生達と話をしていた.
「あれ,地震だ」(座っている学生1名)
「え〜,そう?揺れてる?」(立っている私,他4名)
と言った後,揺れが大きくなり始める.地震だ.この時点では実験装置が落ちると嫌だと考えるくらいの状況.
2mほど歩いて遠隔操作実験で用いている30インチくらいの大きなディスプレイをおさえる.
遠隔操作の実験装置自体は頑丈な実験テーブルに複数のボルトで固定されているから落ちる心配はない.
このあたりまでは普通の地震だと思っていた.
揺れがさらに大きくなり始める.
「あ,大きいっ」
「わ〜」
となかなか収まらない長い揺れに動揺し始める.いや,マズイ.もしかしてこれ以上ひどくなったら...この建物って古いんだよな?と心配になる.
そういえば,以前,総務課が「古い建物なので耐震設計のチェックをします.場合によっては補強します」と調査していた.
その後,大丈夫ですって報告を聞いたが...とりあえず,棚からは何も落ちてこないから大丈夫?
「あ,落ちた!」(棚から紙のファイルボックスが一つだけ落ちた)
しばらくして揺れが収まる.よ,よかった.落ちたのはファイルボックス一つ...建物の揺れがおさまってから,ちょっと手が震えだす.怖かった.
ところで,震源どこ?揺れ始めから本揺れまでに時間があったから,遠い.東京か?まさか東海地震?(←実家)
「震源,宮城みたいです」(学生がすぐにインターネットで調べた)
「避難,するのかなぁ...」(はじめての大きな地震に動揺中)
「とりあえず,戸を開けましょう」(そう言って,入口を開けに行く院生.おぉ,さすが!)
その間に部屋の壁に固定してある棚を見て回る.
ケースや本を奥に向かって押してみたが動かない.ということは,棚の中のものはほとんどずれていないようだ.
この整理の仕方で,これくらい大きな地震まで耐えられることが分かった.
5分くらいすると,「グランドへ避難してください」という構内放送がかかる.
外に出ると,複数の校舎からぞろぞろと人が出てくる.教職員も出てくる.さすがにあれだけの地震だったので,皆,避難指示に従っている.
学生達は実家と連絡を取ったり,携帯電話でワンセグを見て情報収集したりしている.
「大津波警報が出ています.」
「埼玉には海はないからなぁ.海がなくてよかったな.」(この時点でどんな被害が出るかなど全く想像しておらず,比較的気楽)
「あ〜,関東の鉄道,全線止まっているみたいです.帰れません.」
ワンセグって便利だなぁ....って,私の携帯電話でもワンセグ見れるんだった.あ,携帯電話はいつものように居室に置いてきた!
一時間ほどして,とりあえず,校舎内に戻る.
居室(新しめの4階建てビルの4階)...あ〜,落ちてる.散乱してる.古い学生のレポートが,トナーの紙箱が,PCの空箱が.
見た目はすごかったが,棚の上に置いてあった軽いものが落ちただけなので,10分で片付いた.本棚の本は全く動いていない.他の部屋はPCが倒れたり,水漏れした部屋もあって,大変だったようだ.
その後,7号館(最も新しいビル)の1階に集まれとの構内放送.しかし,集合場所には小さいテレビが一つあるだけだったので,ほとんど情報がないまま,車で5時半頃帰宅することに.
大渋滞だった.深夜なら15分で帰れる距離を2時間かけて帰った.どうやら国道の信号機が停電していたらしい.
車内で久しぶりにラジオを聞いた.津波の被害がすごいらしい.海に近づくなと盛んに呼びかけていた.
ちょうどガソリンが切れかけていたのでヒーターを切った.とても寒かった.
帰宅して,テレビを見た.ひどい被害を受けた地域があることがやっと分かった.
が,まだ,津波の被害がどれほどのものか,全く理解していなかった.
夜中に2回,携帯電話の緊急地震速報が鳴った.
◆3月12日(土) 翌日
締切り間際の仕事をするためにガソリンを入れてから車で出勤.余震が起きるし,人があまりいなくて怖い.が,仕事をする.
大学にテレビはないので,ときどきwebでラジオを聞く.何だか原発がやばいらしいと友人からメールが来た.
怖いと思い,福島と川越の距離を地図で測る.200kmか.チェルノブイリみたいに爆発したらやばい距離だ.
でも,仕事をして,終わらせる.深夜帰宅.
◆3月13日(日) 2日後
14日から予定されている精密工学会講演会の準備で都内の白山キャンパスに向かう.電車は動いている.
学会は,「原発事故で電力不足なので照明を減らす.震災直後なので懇親会や特別講演のイベントはすべてキャンセル.計画停電があった場合,その時間は講演会中止」とのこと.
準備を終えて夕方帰宅.
夜9時過ぎに,突然の計画停電発表...川越は4つくらいのグループに入っている.ほとんど一日停電?確認しようとネットを繋ぐと,東電HPパンク中.電車を止めるとか何とか.え,計画停電って,電車まで止まるの?
◆3月14日(月) 3日後
朝5時に起きる.テレビをつけると,電車の運休情報が流れていた.東武東上線,JRともに止まっている.学会スタッフのほぼ全員が白山キャンパスに行けない状況だ.
アルバイトをする予定の学生や実行委員長に連絡する.とりあえず,待機.学会HPには中止の文字はない.
連絡してから,待つこと3時間以上.9時少し前に開催中止の連絡あり.
名工大の先輩にメールを打つと,「今,とんぼ返りの新幹線の中ですっ」という返事が.
そう,JR東海新幹線は動いているから,名古屋から都内へは行けてしまったんだな.
ついで,週末の機械学会も中止のお知らせが.あ,一気に一週間の時間が空いた.しんどい3月にぽっかり休暇だ!
とりあえず,今日は久しぶりの休みだ.土日も働いていたので冷蔵庫の中が空だ.買い出しに行こう.ついでに市役所に書類を取りに行こう.
買い出しに行くと,インスタントラーメンの棚が空だった.おや?(買い占めの予兆だったようだ)
市役所に行くと,計画停電の問い合せ電話で忙しそうだった.
3日目にして,ようやくリアルタイムでテレビのニュースを見た.原発のニュースにドキドキした.
◆3月15日(火) 4日後
出勤すると,暖房とエレベータ使用禁止,学生は登校自粛との張り紙.
とりあえず,研究室の学生達にメールを書く.ほとんどの学生に13日の学会準備で会っているので大丈夫だが,安否確認.
事務仕事だけしてさっさと帰宅.
◆3月16日(水) 5日後
休み.家でメールはチェックする.すると,学生から23日の卒業パーティをどうするかという問い合せあり.
学生の登校自粛のため,準備が出来ない.震災の被害を考えるとパーティ自体自粛か?という話.メールで調整.
◆3月17日(木) 6日後
出勤して教学課にパーティの件を相談.
学生実験の部屋の引っ越し準備などをして,5時少し前に帰宅.帰宅途中,赤信号で止まったら,そのまま,信号機の灯りが消えた.計画停電だ!
途中,ガソリンスタンドは大渋滞だった.
◆3月18日(金) 7日後
卒業パーティは中止することにした.企画している院生達の意見.ただ,学科で集まって挨拶会だけは行うと.妥当な判断でしょう.
キャンセル連絡等を行う.新学期開始を遅らせた大学がいくつかあるらしい.東洋大はいつからになるのかなぁ.と思いながら,進級ガイダンスの準備をする.
◆3月23日(水) 12日後
卒業式.武道館での卒業式は中止.川越キャンパスで授与式のみ.何だか寂しい.
で,学生達と晩ご飯(焼き肉)を食べにいくことに.と,急に大粒のみぞれが降ってくる.異常気象?それでも食べに行きました.
◆3月25日(金) 14日後
大学から,やはり4月から通常通り授業をやるぞ,との宣言.発表も遅れていたし,新学期開始を延期するのではという噂が流れていただけに,驚き.
俄然,日常が戻ってきた.
◆そして,9月.もうすぐ半年が経つ
震災の被害が大きかった地域や住民の方には,日常はきっとまだ遠いのではないかと思う.
私の周囲に関して言えば,半年経って,ほとんど日常が戻ってきているように思う.
3,4月は余震が本当に多かったし,8月後半にも大きめの地震が何度かあった.
真夏の電力を節約するために,大学の定期試験の時期が早まったし,事務局の開室も節電モードになった.
それでも,半ばパニック的に始まった春の計画停電は2週間くらいで終わったし,
そのせいで起きた買い占めによる品不足も2週間くらいでおおよそ収束した.
あんなに騒いだ夏の電力不足も(もちろん一般人や企業の努力あってのことだが)緊迫した状況もなく,乗り越えられたようだ.
この半年の情報やそれにともなう行動,いろんなことを振り返ってみる時期なのかもな.
とりあえず,9月後半から太陽パネルで発電を開始する予定.