TM As A Person 履歴


 紀元節2630年(イスラム暦1390年)3月10日生まれ

 身長 約5尺8寸、体重 約20貫

 父 相撲取り 母 看護婦

 ごらんの通り、当時はなかなか可愛かった。よく女の子と間違われ、道行く人々に「超カワイー!!」と黄色い悲鳴をあげさせた(らしい)。

 しかし現在、その才能は開花せず、かつてのキュートさはあとかたもなく消え去ってしまった。


 ここでちょっと家族の紹介。左は父です。もちろんホンモノです。ただし、結婚する前の、現役時代の写真です。似てます? 名門出羽ノ海部屋の十両の関取でした。父の影響で、いまでも時々、相撲業界用語を使うことがあります。食事後の「ごっさんでした」などです。2003年11月16日、67才で急逝しました。

 右は母です。一生涯、看護婦道をまっしぐら。絵にかいたような働き者。学生時代はずっと弁当を作ってもらいました。多謝。現在、老人ホームに勤務をしています。

 ふたりはお見合結婚で結ばれたみたいです。とにかく、世界で一番尊敬できる両親です。


 そして妹。妹さんは立派なのに・・・といつも比較され、肩身が狭いです。

 UCデイヴィスに留学した後、サイパンと香港のホテルでキャリアをつみ、現在はヴェトナム・ハノイのヒルトンでリッチなお客さんを相手にしています。右がその仕事姿。

 左の写真はシカゴ・カブスの試合を観戦した時のもの。

 自分の話に戻って、どっこい幼少期は、まだまだ可愛さを維持していたようです。大きなけがや病気もなく、人生は快調に進んでいました。当時は、かなり引っ込みじあんだったようです。甘えん坊で、「おねしょ」もよくしていました。

 小学校・中学校は墨田区の公立学校へ。とにかく遊んでばかり。小学生では、わんぱくで、いたずら坊主。母が近所中を謝ってまわったこともありました。あまりに遊んでばかりなので、父は「ワルになるのではないか」と将来を真剣に心配したといいます。

 墨田区は下町なので、100円握って、駄菓子屋やもんじゃ屋を毎日徘徊していました。


 高校は男子校へ。自由な校風の中でのびのび勉学と遊びにいそしみました。

 現在の性格の多くの部分は、この高校時代に培われたように思います。

 英語に興味を持ったのは、この頃から。生意気にも、英会話学校などに通ったりして。でも、今から思えば、それも決して無駄ではなかったと思います。

 修学旅行のない高校だったので、バイトをして友人と九州、東北、紀伊半島、富士五湖など、旅行してまわりました。


 そして大学へ。3年次に初めてアメリカに留学しました。テキサス州のベイラー大学。無謀にも、大学のキャンパス新聞の記者として働き、ここで、ジャーナリズムという学問分野があること、また大学院に進学するという道があることを知りました。これが人生を大きく狂わせた?

 ちなみに、日本の大学では教職科目を履修し、教育実習もしたので、中学・高校で教える資格を持っています。教科は英語。人生の中で唯一の自慢です。大学をクビになっても、附属高校で雇ってもらえるかも。

 左の写真は、テキサス州ダラスにあるJFK博物館の前で撮ったもの。ケネディー大統領が暗殺された場所のすぐ近くにあります。このビルの6階から、実行犯とされるオズワルドがライフルを発射したと言われています。この時、若干19才。



 左のへんてこりんな記事は、留学先の大学のキャンパス新聞に掲載された記者としてのデビュー作です。Takeya Mizunoのバイラインが光ってます。

 自分の書いた記事が新聞に載り、何千人もの人に読まれるというのは、大きな感動でした。この日の朝、大学寮のカフェテリアで朝食を食べながら、しみじみ、アメリカに来てよかったなあ、と思いました。

 そしてこの日から、自分はジャーナリストになってやる、と決心したのでした。しかし日本に帰国してみると、就職活動の時期は終わっていました。じゃあ、もう少しジャーナリズムそのものを勉強してみよう、と進路を変更したのです。



 で、就職活動をすっとばし、大学院へ進学。アメリカ・ジャーナリズム史研究に一直線。現在の自分があるのは、この時の指導教授の武市英雄先生のおかげです。

 修論は日本の大学院で終わらせ、念願のアメリカ再訪。あこがれだったミズーリ州立大学のスクール・オブ・ジャーナリズムに入学。

 右の写真は、渡米の日に成田で家族と撮ったもの。心の中は不安だらけでした。果たして自分が世界のエリートが集まる名門ミズーリで生き残れるのかどうか・・・。泣きべそかいて日本には戻れないし・・・どうしよう。

 もしダメだったら、寂しく帰国して学者・研究者の道をあきらめ、工事現場で働くつもりでした。体力には自信あったし。

 左上の写真はミズーリの友人宅で撮ったものです。チェスター(犬)と。


 しかし、現地に着くや、どっぷりとミズーリ生活に浸かってしまいました。まさに浦島太郎状態。

 そして一人暮らしデビュー。飢え死にするのではないかという周囲の不安(期待?)を裏切り、見事に完全自炊で自分で弁当も作ってました。左はキッチンでの勇士。

 ミズーリは何もないところなので、ランニング、研究、仕事、洗濯、飯、の繰り返し。丸5年!


 それにしても、卒業式でガウンを着た時は、うれしかったなあ。博士論文は本当に大変だった。たいしたものじゃないかもしれないけれど、一生の宝物です。

 写真は親友のボブのログハウスで。彼はその家を自分で組み立てて作りました。偉い、の一言に尽きます。

 ガウンや帽子一式は、大切に持って帰りました。卒業式に着ていくと、日本の学生には「ハロウィーンですか?」と聞かれるし、母はいまだに「マント」と呼んでいるし。まあ、いいけど。




 アメリカから帰国後、2002年4月に文教大学・情報学部に着任。2006年4月から東洋大学・社会学部で教えています。

 ほとんどの
学生は自分の大学生時代よりもよく勉強し、知識も多くて、感心を通り越して恥ずかしく思えるほどです。教員をしているけれど、こっちが教えられています。

 上の写真は妻・智江とのベスト・ショットです。あ、言い忘れた。メガネをかけていない方が妻です。



最後に、2009年4月2日に加入した水野家の新メンバーを紹介します。妹の長男・康佳(こうか)です。右の写真は妻とのツーショット。

 お父さんはベトナムのお医者さんなので、ベトナム名・Vu Tam Hoangもあります。Vuは名字で、Tamは「心」、Hoangは「威厳」を意味します。2つも名前があるなんて、うらやましい。

 その下の写真は妹一家の写真です。




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