五十嵐さんの講義


五十嵐さんの講義

報告 斉藤藍

・五十嵐さんの紹介
五十嵐 理奈
専門 文化人類学・アジアの近現代美術
(福岡アジア美術館/一橋大学大学院社会学研究科)
1994年に初めてバングラデシュを訪れてから、何度もバングラデシュを訪れる。1999〜2000年の間は、ノクシ・カンタ(バングラデシュの刺繍布製品)を通してバングラデシュの文化を調査するため、バングラデシュに1年間滞在する。
以前は在日バングラデシュ人について研究していたが、昔から絵などの視覚表現、また人がどのように自己表現するのかに興味があり、バングラデシュの国や伝統を表わすモノとしてノクシ・カンタの研究をはじめる。そこから現在はアジアの近現代美術まで研究分野を広めている。

「手工芸品とナショナリズム」―バングラデシュの刺繍布カンタの再発見と商品化―

【テーマ】ある国家の成立に伴って、
1.あるモノが、その国の「文化的アイデンティティ」を象徴するものとなる
2.また、そのモノが文化的に価値づけられたことにより、さらに商品として大量に生産されるようになる

・日用品としてのカンタ
 カンタはバングラデシュとインドの西ベンガル州を含むベンガル地方で作られている刺し子の布である。衣服として着用していた古い布を用いて、再び異なる形と役割を与えるリサイクルの思想によるものである。カンタの文様部分は、古い色つきサリーの端をほぐして取った色糸を用いて鮮やかに刺繍されていた。また、モチーフには、当時の女性たちが日常生活で目にする生活用品、動物、植物、人間などが描かれていた。これらのカンタは売買されることはなく、基本的に家族が私的に使用したり、親戚に贈与したりするものであった。社会的機能として良い嫁を判断する指標としての機能も持っていた。

・民俗芸術としてのカンタの再発見
 1947年にイギリスの植民地支配からインドとパキスタンが分離独立し、カンタの作られていたベンガル地域は、東パキスタンとインドの西ベンガル州とになった。イスラームを国家のアイデンティティとして独立した当時のパキスタンには、地理的に離れた東パキスタン(現バングラデシュ)と西パキスタン(現パキスタン)とが含まれていた。当時、圧倒的な政治経済力を持っていた西パキスタンは、ヒンドゥー的要素を多分に含む東パキスタンのイスラーム不純性を嫌った。これをひとつの理由として、その特徴を持つカンタなどは徐々に衰退していった。この状況を憂いたベンガル知識人であるトファイル・アフメッドやバングラデシュの芸術の父といわれる国立ダッカ大学芸術学部設立者のザイヌル・アベディンらが、カンタをはじめとする民俗芸術の重要性を強く訴えるようになった。
 この一連の動きは、独立運動の動員力とはならなかったものの、バングラデシュ独立後さらに発展し、カンタは全国手工芸品展覧会や博物館で展示されるようになり、1970年代にはカンタは民俗芸術として保護される対象となった。このようにカンタを含む民俗芸術の再発見とそれを「文化的アイデンティティ」のよりどころとして、国民統合の求心力とする動きとは関連していたのである。

・商品としてのノクシ・カンタ
 カンタが民俗芸術として再発見されたことを前提として、さらにカンタを商品化する動きが本格的に展開されていった。NGOなどの働きかけにより、現金収入を必要とするバングラデシュの農村女性の賃金労働により製作される商品としてのノクシ・カンタへと変貌していったのである。
 商品としてのノクシ・カンタが、カンタとは異なる大きな点は、絵として壁に飾って鑑賞する種類のものが登場したことである。そのためイスラームを国教とするバングラデシュにおいては、カンタの持っていたヒンドゥーの宗教的な意味は薄くなり、絵画的表現としてのデザインが重視されるようになった。

 このようにして開発援助の担い手であったNGOは、商品を生産する効率的なシステムを導入し、現在の時代に合ったデザインを取り入れることにより、民俗芸術の商品化を成功させた。また同時に、NGOは貧困女性の現金収入を確保し、社会的地位向上の手助けをし、開発援助団体としての役割を果たした。さらに、フェアトレード商品としても国際的に広く知られるようになり、ノクシ・カンタをバングラデシュ文化の代表に仕立て上げたのである。

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