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 [121]死後と輪廻の問題
森 章司 
4/2(Sat) 22:42 
 以前に予告してありました、小生の論文「死後と輪廻はあるか−−「無記」「十二縁起」「無我」の再考−−」を掲載した『東洋学論叢』(東洋大学文学部紀要 インド哲学科篇・第30号)が刊行されました。
 どこででも手に取って見られるという種類の雑誌ではありませんが、念のため。
 [122]Re:死後と輪廻の問題
arara 
4/12(Tue) 17:37 
先生の諸論文がウェブサイト上に掲載されたらどんなにありがたいことが!

 [115]縁起に関して
無宗だ 
10/9(Sat) 9:18 
前回は、多くの丁寧な解説等ありがとうございました。
あの後、書籍を求め、

ブッダのことば -スッタニパータ- 中村元訳
真理のことば 感興のことば 中村元訳
(阿含経典による)仏教の根本聖典 増谷文雄 大蔵出版

を読んでみました。

 私のような初学者でも『仏教の根本聖典』は結構楽しく読めました。
さて、『仏教の根本聖典』の中に、
『分別縁起』
南伝 相応部経典 12,2 分別
漢訳 雑阿含経 12、16
というのがあり、縁起を分析して説いています。

無明-行-識-名色-六処-触-受-愛-取-有-生-老死
といった縁起、縁滅関係があるそうですが、これに関して教えて頂けないでしょうか?

生によって老死があるとか、「六処-触-受-愛-取」は何となくわかるのですが、「名色」と「有」が、特によくわかりません。
縁起に関しては定説のようなものがあるのでしょうか?
名色の説明ででてくる「受、想、思、触、作意」はそれぞれ、なんなのか?
この「受」「触」は、縁起の中の「受」「触」と同じなのか、違うのか?
取の説明ででてくる「欲、見、戒、我」のそれぞれの意味、違いは何か?

縁起を次のように理解してみたのですが、次の解釈はいかがなものでしょうか?
「惜しい!」といってもらえるレベルなのか、箸にも棒にもかからないレベルなのか?
よろしく、お願いいたします。

無明-行:無知ゆえに人はあがく
行-識 :あがくことにより経験を積むことになる。経験は五感の経験と意の経験に分類できる。
識-名色:経験にしたがって、世の中(世間)は三次元的な実体と人の営みから成り立つことがわかる。
名色-六処:己が世間とかかわり存在するためには、世間を認識する器官、六処(眼、耳、鼻、舌、身、意)が必要である。
六処-触:六処があれば、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、思ったりすることができる。
触-受 :見たり聞いたりすれば、網膜に像を結んだり、鼓膜が振動し、その信号を脳で認識される。
受-愛 :脳で認識したものは、良いもの悪いもの分類され、良いと判断したものを渇愛するようになる
愛-取 :渇愛すれば、それに対する執着、我がものにしたいという欲求が生まれる。
取-有 :人の持つ執着、欲求により己の三界(欲界、色界、無色界)における居場所が決まる。
有-生 :三界における居場所を持つということが、すなわち生きるということである。
生-老死:生あるものは、やがて老い、死する。

「名色」と「有」以外は、個人のことを言っているのに対して、
「名色」と「有」は環境というか世界全体を指しているような印象を持ったのです。


以下、『分別縁起』より要約

◆無明
・苦における無知
・苦の因における無知
・苦の滅における無知
・苦の滅にいたる道においての無知

◆行
・身における行
・口における行
・心における行

◆識
・眼の識
・耳の識
・鼻の識
・舌の識
・身の識
・意の識

◆名色
名 受、想、思、触、作意
色 地、水、火、風の四大およびそれらによってなるもの

◆六処
眼、耳、鼻、舌、身、意

◆触
・眼による接触
・耳による接触
・鼻による接触
・舌による接触
・身による接触
・意による接触

◆受
・眼の触によりて生ずる感覚
・耳の触によりて生ずる感覚
・鼻の触によりて生ずる感覚
・舌の触によりて生ずる感覚
・身の触によりて生ずる感覚
・意の触によりて生ずる感覚

◆愛
・色に対する渇愛
・声に対する渇愛
・香に対する渇愛
・味に対する渇愛
・触に対する渇愛
・法に対する渇愛

◆取
・欲に対する執着
・見に対する執着
・戒に対する執着
・我に対する執着

◆有
・欲界における生存
・色界における生存
・無色界における生存

◆生
生きとし生けるものが、生まれて、身体の各部あらわれ、その処を得たる

◆老死
老 老いおとろえ、齢かたむきたる
死 いのち終わり、遺骸(むくろ)となりて、棄てられたる

以上
 [116]Re:縁起に関して
無宗だ 
10/9(Sat) 9:59 
実は、『仏教の根本聖典』(2002/7/10 新訂3版)では、識の説明(p97)で、

六つの識がある。
といいつつ、
・舌の識
が抜けていたのですが、これは単純にこの書籍のまちがいと考えていいのでしょうか?
 [117]Re:縁起に関して
森 章司 
10/12(Tue) 12:19 
 このところ忙しくて返事が書けなくて申し訳ありません。
 取りあえず私の解釈は、国書刊行会から刊行されている『仏教的ものの見方−−仏教の原点を探る』の82頁から84頁を参照していただけたらと思います。
 「舌識」については確認はしていませんが、明らかに単純ミスではないでしょうか。
 [118]Re:縁起に関して
無宗だ 
10/14(Thr) 22:46 
レスありがとうございました。

> 取りあえず私の解釈は、国書刊行会から刊行されている『仏教的ものの見方−−仏教の原点を探る』の82頁から84頁を参照していただけたらと思います。
BK1で発注いたしました。
読み終わりましたら、また書き込みさせていただこうとおもいます。
よろしくお願いいたします。

PS:
BK1で発注した後で気付いたのですが、
http://www.kokusho.co.jp/order/index.html
国書刊行会の国書刊行会オンラインショップで頼んだ方が
圧倒的に早く手に入ったのですね。
 [119]Re:縁起に関して
スターダスト 
10/18(Mon) 19:25 
無宗ださん、はじめまして、十二因縁について私なりに考えてみました。
**************************************
@無明=因果を知らない。空を知らない。唯物論という無知。
A行=無知のままの行為。(因果を知らないから悪を行う)
B識=過去世の生活の行為一切が識に記憶される。
C名色=その記憶が『夢幻』となって「この世・肉体・心」を造る。
D六入=肉体が出来ると眼耳鼻舌身意の五官と心が具わる。
E触=五官と心は外界を認識する。(外界に触れる)
F受=外界を認識すれば一切のものを苦と楽に分別する。
G愛=外界の楽の事物に愛着を起こす。
H取=愛着を起こした事物(欲望・唯物論・自我・戒律)を取る。
I有=以上の過去の行いから、性格・環境などの存在が決定する。
J生=有で決定した環境に決定した性格の者として生まれる。
K老死=この世の色々な苦しみに遭遇する。(生老病死憂悲悩苦)
**************************************
 [120]Re:縁起に関して
無宗だ 
10/24(Sun) 12:58 
> スターダストさん
レスありがとうございます。
基本的には、(1)-(3)過去世、 (5)-(9)現世、 (11)-(12)来世 という考え方ですね?
参考にさせていただきます。

> 森先生

『仏教的ものの見方』、大変楽しくませて頂きました。
三法印、四法印は結果であって、その前に仏教的ものの見方としてとして、
「あるがまま」を「あるがまま」に見る
という姿勢があるとのご指摘は大変新鮮でした。

あるサイトで『大乗仏教の経典は、後世の創作である』ことを聞き、
大乗仏典に対し、少し不信感を持っていたのですが、
二十一世紀の日本には、それに相応した『仏説新世紀経』といった経典が作られるべき
といった話を読み、心得違いを気付かせて頂きました。ありがとうございます。

肝心の縁起の解釈に関して、わかったようでわからない状況なのですが、
有に関して、中有、誕生の三条件といったものがあるとの記述は興味深かったです。

 [95]釈尊は魂の存在を認めているのか?
無宗だ 
7/19(Mon) 4:27 
はじめまして。無宗だと申します。
仏教というと、極楽、地獄、輪廻転生、神通力というイメージがあります。
しかし、最近、次のような記述が原始仏典にあることを知りました。

「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。
マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ。」以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。
(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473〜478頁)

また、大乗仏教の経典は、後世の創作であることを聞き及び大変びっくりいたしました。

>[5]クッダカ・ニカーヤ(Khuddaka-nikAya)
http://www2.toyo.ac.jp/~morimori/kn.html
を拝見させていただくと、過去生の話なども原始聖典にはたくさん含まれているようですね。

根本仏教では、魂や輪廻転生、過去生といった霊的なものに関して、釈尊は何か言及しているのでしょうか?
釈尊は過去生の存在を肯定しているのでしょうか?
よろしくお願いいたします。
 [96]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
kata 
7/19(Mon) 9:35 
>根本仏教では、魂や輪廻転生、過去生といった霊的なも
>のに関して、釈尊は何か言及しているのでしょうか?
>釈尊は過去生の存在を肯定しているのでしょうか?
>よろしくお願いいたします。

”過去生の存在”についての上座部仏教における釈尊のお考えは、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックの「沙門果経」をお読みになれば、お分かりになると思います。

ただ、輪廻転生する”魂”についての上座部仏教における釋尊のお考えは、一般的に考えられているものとは少々異なりますので要注意です。
 [97]上座部仏教における釋尊のお考え
無宗だ 
7/20(Tue) 23:06 
kataさん、レスありがとうございます。

> ”過去生の存在”についての上座部仏教における釈尊のお考えは、
> 長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックの「沙門果経」をお読みになれば、
> お分かりになると思います。
kataさんは、
”過去生の存在”についての上座部仏教における釈尊のお考えは、
根本仏教における”過去生の存在”についての考えと同じであると考えられているわけですね。

実は、「毒矢のたとえ」の引用はあるサイトからの転記で私自身は当該書籍を持っていないのですぐには確認できません。
釈迦は霊魂の有無、死後の世界という経験も論証も不可能な問題は、「無記」として退けたと聞いたので”過去生の存在”、輪廻転生する”魂”については、論ずることに意味はないという立場を取り、『過去生の話は、根本仏教では扱われなかった』という回答を期待したのですが、上座部仏教においては、なんらかの言及がされているということですね?

なんとか見つけて読んでみようと思いますが、現在入手可能な書籍、サイト等で、参考になるものを教えていただければありがたいです。

回答、ありがとうございました。
 [98]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
森 章司 
7/21(Wed) 18:19 
 しばらく開けていなかったので、こんな重大な書き込みがあることに気がつきませんでした。ごめんなさい。
 仏教は原始仏教であれ、大乗仏教であれ、上座仏教であれ、日本仏教であれ、死後の生や輪廻転生を認めないものはありません。
 たしかに仏教学者の中にはそれは一般向けの俗説であって、釈尊の真意ではないという意見もあります。今問題とされているような経があるからです。
 しかしこの中に解答が用意されています。「世界は常住であると見るとも、あるいは世界は無常であると見るとも、生はあり、老はあり、死はある。わたしはそれを征服することを教える」とされていますが、ここに述べられている「生」は輪廻転生を前提とした「生」であるからです。もし今ここに生れてきていて再び生まれ変わらなければ、もう「生」を征服する必要はないわけですから。
 死後の生はないという誤解のもとになっているのは、ここに述べられているように「人間の死後があるか、ないか」ということにお釈迦さまは無言によって答えられたとすることです。しかし原文では人間に当たる言葉はタターガタで、これは普通は「如来」と訳される言葉です。もちろん阿弥陀仏を阿弥陀如来と言うように、「仏」と同じ意味を表します。すなわち輪廻転生を解脱した人のことです。
 しかし不思議なことに、この部分の「如来」は「人間」を表すという解釈が広くひろまってしまっているようです。例えば『岩波・仏教辞典』(1989年12月 p.781左)は「無記」の項の解説で「釈尊が他の思想家たちから世界の常・無常、有限・無限、霊魂と身体との同異、死後の生存の有無など14の形而上学的質問を受け、論争を挑まれたが、沈黙を守って答えなかったことを言う」とし、『新版・仏教学辞典』(1995年4月 法蔵館 p.438中)は「無記」の項の解説でもっと明確に、「如来(ここでは衆生を意味する)は死後に有であるか、無であるか、有にして無であるか、有でも無でもないか」としています。
 しかしこれは間違いで、あくまでも「如来」は「如来」と解釈しなければならないことを、ついこのあいだ私が書いた「死後(輪廻)はあるか」という論文で論証しておきました。『葬制・墓制にみる日本の死生観』という科学研究補助金の研究成果報告書(研究代表者 高城功夫東洋大学文学部教授 平成16年3月30日刋)に載せたもので、これは国立国会図書館に行けばご覧になれると思います。しかしこれでは不便極まりありませんから、来年の3月に発行される予定の『東洋大学文学部紀要インド哲学科篇 第58集 東洋学論叢第30号』に再録する予定ですので、もうしばらくお待ち下さい。
 しかしだからといって仏教が魂の存在を認めているわけではありません。これについてもこの論文をご参照下さい。念のため。
 [99]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
無宗だ 
7/23(Fri) 5:38 
森先生、私のようなつい最近原始仏教に興味を持ち始めたばかりの浅学な者に対し、丁寧な回答を頂き大変感謝いたします。
ネットでちょっと調べただけで、『無我というのは、輪廻転生するアートマン(我=魂)を否定したもの』で、釈迦自体は、魂、輪廻転生、過去生といった形而上の概念は一切説かなかったと信じ込み、森先生のゼミでいうところの根本仏教( http://www2.toyo.ac.jp/~morimori/naani.html )、すなわち釈尊金口の教えをわかった気になっておりました。

>仏教で、死後の生や輪廻転生を認めないものはありません。
>仏教が魂の存在を認めているわけではありません。
魂の存在を認めていないのに、輪廻転生を認めているというのは私の理解を超えております。
釈尊は自分の教えは難しいと言ったとどこかで読んだ気がしますが、たしかに、そのようですね。
ようやく自分でも原典(もちろん日本語訳に限りますが)を読んでみようかという気になりました。

どうも、ありがとうございました。
 [100]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
池田慈水 
7/29(Thr) 14:28 
釈迦の創始した仏教は、修行すれば、輪廻転生が止まる。したがって、来世が消える。修行者の来世が消えている事を判定し、阿羅漢になったと見ぬく。
見ぬく指導者は、来世を判断する天眼通の神通力者である。
これらは論理的に正しい推理である。
 [101]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
阿含 
8/7(Sat) 8:34 
はじめまして。

>>魂の存在を認めていないのに、輪廻転生を認めている
>>というのは私の理解を超えております。

阿含経では魂を認めているようです。「神魂」あるいは「識神」と呼ばれているようです。
 [102]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
kata 
8/8(Sun) 14:15 
>阿含経では魂を認めているようです。「神魂」あるいは>「識神」と呼ばれているようです


1)阿含経とは?具体的な経典名を挙げて頂けますか?

2)その経典の中で魂(神魂、識神atta/atmanの漢訳?)が"どのように”認められているのですか?
 [103]魂神・識神
阿含 
8/8(Sun) 16:00 
魂神=長阿含 巻の第四遊行経 第二後

識神=雑阿含 (跋迦梨経)
増壱阿含 巻第四十 十一
  (国訳一切経 阿含部より)
にあります。
 [104]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
森 章司 
8/9(Mon) 12:11 
 おっしゃる通り、仏教経典の中にも「魂神」とか「識神」という言葉が出てきます。単に「こころ」とか「精神」という意味である場合もありますが、確かに「魂」というような意味で使われていることもあるようです。しかしそれはいわば通俗的な意味であって、教理的な意味ではないといってよいと思います。
 中村元先生は『原始仏教の思想氈x(中村元選集[決定版]第15巻 1993年8月 春秋社 p.652以下)のなかで、経蔵の末期においては、積極的に輪廻の主体を想定する思想が、仏教徒の主張として表明されている、とされています。その典拠として使われているのが、DN.23の「パーヤーシ・スッタンタ」と長阿含経7の「弊宿経」です。しかしよく読めば、これをもって仏教が霊魂(jIva)を輪廻の主体であると認めていたと解釈するのは無理があるように思います。
 原始仏教の主張は、私たちは色・受・想・行・識という5つの要素(五蘊とか五陰といいます)から成り立っていて、この外にアートマンとか霊魂というものはない、というものです。だから生老病死を自由に操ることもできないし、輪廻を如何ともしがたいというのです。要するに原始仏教は5つの要素が和合しながら、昨日から今日そして明日へと生を続けていく、それと同じように前世から今世に生れてきて、解脱しないかぎり来世に生れていくという言うわけです。南方上座仏教では中陰(中有)を認めませんから、死んだら次の瞬間に五蘊を持った別の「私」に生れることになります。日本では中陰を認めて49日間の喪に服しますが、これは次の生に生れるまで49日間、中陰という形の生存があるという考え方によっています。そしてこの中陰も5つの要素から成り立っていて、ここに霊魂というものを認めていません。要するに今の生に霊魂を認める必要がなければ、輪廻にも霊魂を必要としないということになります。
 確かに昨日の私と今日の私は、五蘊が消滅しながら連続しているとしても理解しやすいのですが、生前の私と死後の私の連続性を五蘊で納得するのは難しいと思います。だから「無我輪廻」は仏教の永遠のテーマであり続けると思いますが、しかし原始仏教は上記のように考えていた、といってよいと思います。
 
 [105]毒矢のたとえについて。
阿含 
8/9(Mon) 13:22 
>>人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しな
>>いいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はあ
>>る。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。

私は漢訳の阿含経しか読んでいないので、よくわかりませんが、阿含経の「二百二十一、箭喩経第十」のことではないかと思います。漢訳には死後の世界の有無ではなく、次のように説かれています。

**************************************
世常有りと、この見有るが故に我に従ひて梵行を学せざらんは、この事然らず。是の如く世常有る無し、世底有り、世底無し、命即ちこれ身なり、命異り身異ると為す、如来終る、如来終らず、如来終り終らず、如来亦終るに非ず亦終らざるに非ずやとする、この見有るが故に我に従ひて梵行を学せざらんは、この事然らず。
**************************************
この世は常恒なのか。この世に終わりがあるかどうか。命は身体にあるのか。如来に終わりがあるのかないのか。という意味ではないでしょうか。
 [106]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
阿含 
8/12(Thr) 20:56 
>>人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間
>>は死後存在しないいう考え方があろうと、

阿含経では死後の世界を説いていますよ。
だから、六道を輪廻していると言われているのではないですか。その六道からの離脱が解脱ではないかと思うのですが。
 [107]Re:毒矢のたとえについて。
ねこ 
8/13(Fri) 14:55 
”阿含”さんへ

無宗ださんの引用された「毒矢のたとえ」自体は、パーリ経典の中部第六十三経「小マールンキャ(Cula-Malunkyovada Sutta )」経の日本語訳からの抜粋です。
 [114]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
阿含 
9/16(Thr) 19:41 
>>根本仏教では、魂や輪廻転生、過去生といった霊的な
>>ものに関して、釈尊は何か言及しているのでしょう
>>か?

輪廻からの解脱が修行の目的となっています。
もちろん、輪廻を認めているので、過去世にも言及して
います。

>>釈尊は過去生の存在を肯定しているのでしょうか?
>>よろしくお願いいたします。

釈尊自身、ご自分の過去世を説いています。
釈尊が阿修羅であったとき、阿難は釈尊の子供であった
という記述もあり、この世での釈尊の過去世も説かれて
います。




 [113]Re:無記と「タターガタ」
電波男Ψ(´д`)Ψ [Mail
9/12(Sun) 19:21 
森先生はじめ皆様、お初にお目にかかります。

私は原始仏教から初期大乗までを仏教思想史として研究しておりました。森先生に少し疑問に感じるところを申し訳ございませんが述べさせていただきたく存じます。

1 論文引用ではなく紹介と言う形だけで論を進める。古い論文を根拠にされるのはいいが、後の展開を視野においておられるのか
2 輪廻について、生理学的な視点のみであり、別解釈をしない
3 相応部経典から釈尊を推し量るのは乱暴である
4 三枝先生を存知上げておりますが、インド仏教を専門とされる方が氏を援用されるのは解せない

以上をもう少し熟慮されんことを。

 [108]無記と「タターガタ」
阿呆陀羅經 [Mail][HomePage
9/10(Fri) 19:56 
森先生、皆樣方はじめまして。
私は原始佛教に関心を寄せる初学者のズブの素人でございます。こちらで興味深い話題を拝見致しまして、浅学菲才の身も顧ず、雜駁な駄文を寄せさせて頂きますが、どうぞ御寛恕の程をお願い申し上げます。
さて、先頃から話題に上っております、パーリ『中部』所収の『小マールンクヤ經』の所説にこと寄せて取り上げられることの多い、ブッダが回答を拒んだという十乃至は十四の「形而上的命題」、所謂十(十四)難無記といわれるものの中の「タターガタの死後の有無」についての解釈をめぐって、で無宗ださんのカキコにあるように「人間一般の死後」についてであるとするものと森先生のご指摘にあるように「如来もしくは修行完成者の死後に限定」という理解の両者が混在し、判り難い状況ではあったと思います。ところがそうこうするうちに、故中村元博士の大著『原始仏教の思想T』p234に「佛教でもジャイナ教でも説くところの、このコンテクストにおけるタターガタとは『如来さま』のことではなくて、『たましい』のことである。タターガタは『衆生神我』と訳されていることがある。」という件りを発見し、その論拠を確認がてら調べてみると、『別訳雑阿含経』第10巻(196經)に
T02n0100_p0445a13║人不了。作是說耶。佛告犢子。我亦不作如是
T02n0100_p0445a14║說言。一切世界。非常非無常。非非常非非無
T02n0100_p0445a15║常。唯我能知餘人不解。犢子復問。世界有邊。
T02n0100_p0445a16║世界無邊。亦有邊亦無邊。非有邊。非無邊。
T02n0100_p0445a17║非非有邊。非非無邊。身即是命。命即是身。身
T02n0100_p0445a18║異命異。衆生神我。死此生彼。為有為無。亦有
T02n0100_p0445a19║亦無。非有非無。非非有。非非無。曇瞿。汝今
T02n0100_p0445a20║作是說耶。佛告犢子。我不作是見。不作是論。
とありました。タターガタの訳語と思われる語が「衆生神我」になっています。また、パーリニカーヤの註釈文献であるアッタカターでは無記の文脈における「タターガタ」(tathAgata)とは〈生けるもの〉(satta)またはその根底となる実体〈我〉(attA)を意味する」とあるようで、「如来」の意は見当たらないようです。漢訳では『中阿含経』の散逸した古訳の斷片ではないかといわれている『箭喩經』(『小マールンクヤ經』と共通内容)http://w3.cbeta.org/result/normal/T01/0094_001.htmと『邪見經』http://w3.cbeta.org/result/normal/T01/0093_001.htmに、ブッダを示すと思われる「如来」と、衆生一般を示すと思われる「如此」の語への訳し分けが見られるのが注目されるのではないかと考えています。もっといえばブッダ在世頃から「如来」といういわば神学的な語義解釈−ニルクティというのでしょうか−が既に確立されていたのか少なからず疑問に思ってもおります。ブッダが用いていた三人称による自称の語が、後世に神秘化超人化されたとも考えられないでしょうか。
 [109]Re:無記と「タターガタ」
阿呆陀羅經 [Mail][HomePage
9/11(Sat) 7:24 
自己レスです。したがって、新版・仏教学辞典』(1995年4月 法蔵館 p.438中)などの表記は上記のような文献的裏付けに基づいており、誤りとはいえないのではないかというのが私の見解です。加えてかなり昔の『南伝大蔵経』の『中部経典』所収『マールンクヤプッタ経』の干潟龍祥氏による訳注−手許にないので参照できませんが−では、「タターガタとは去来するもの、すなわち衆生有情(取意)」と記されてあったと記憶しております。これもパーリ註釈などに基づくものでしょうか・・・。「タターガタ」という語は元来こうした意味であり、ブッダもそれを踏まえて三人称の自称としてこれを用いていたのが、徐々にに宗教的意味が付与されて、「真理からやってきたもの、真理から生まれたもの=如来」などといったいわば「神学的聖化」が確立したのではないかと考えています。
 [110]Re:無記と「タターガタ」
森 章司 
9/12(Sun) 14:01 
 書き込みありがとうございます。
 無記説の中に使われているタターガタの語義については、水野弘元先生の「tathAgata(如来)の意義用法」(『印度学仏教学研究』5-1 昭和32年1月)という論文と、石上善応先生の「無記説とパリバージャカ」(『佐藤博士古稀記念 仏教思想論叢』山喜房仏書林 昭和47年10月9日)という論文を参照してみて下さい。
 前者にはタターガタの用例を綿密に検討されたうえで、「無記説におけるtathAgataも、仏教的な如来も、その起源は等しく、共に<生死輪廻を脱した完全者>の意味を含むものであったと思われる」と結論を下されています。
 また後者でも水野論文を参照したうえで、「仏教の中で、如来はブッダのみと理解し、当時、如来は外に存在しなかったとして、一般の有情(=人)と同義に解釈したことは、やはり無理があったとみなすべきであろう。ここで論じられている如来は完成された人を指している。いうならば、輪廻せざる完成者を意味しているものであろう」と結論されています。
 またサンユッタニカーヤの44(南伝大蔵経 第16巻上 pp.99〜136)は「無記相応」と名づけられた章です。ここを詳しく読んでみてください。タターガタが如来などの輪廻を超越した人をさすことが明らかになるはずです。
 それから10無記や14無記にはさまざまなヴァリエーションがありますが、その整理を三枝充悳先生が『初期仏教の思想』(1978年7月 東洋哲学研究所)という本のなかで綿密にやっておられます。やはりこの部分はタターガタで解釈すべきでしょう。
 [111]Re:無記と「タターガタ」
阿呆陀羅經 [Mail][HomePage
9/12(Sun) 15:21 
書き込みありがとうございます。
私ごとき一素人の取留めも無い書き込みに丁寧なご返事ありがとうございます。
 無記説の中に使われているタターガタの語義については、水野弘元先生の「tathAgata(如来)の意義用法」(『印度学仏教学研究』5-1 昭和32年1月)という論文と、石上善応先生の「無記説とパリバージャカ」(『佐藤博士古稀記念 仏教思想論叢』山喜房仏書林 昭和47年10月9日)という論文を参照してみて下さい。
 前者にはタターガタの用例を綿密に検討されたうえで、「無記説におけるtathAgataも、仏教的な如来も、その起源は等しく、共に<生死輪廻を脱した完全者>の意味を含むものであったと思われる」と結論を下されています。
 また後者でも水野論文を参照したうえで、「仏教の中で、如来はブッダのみと理解し、当時、如来は外に存在しなかったとして、一般の有情(=人)と同義に解釈したことは、やはり無理があったとみなすべきであろう。ここで論じられている如来は完成された人を指している。いうならば、輪廻せざる完成者を意味しているものであろう」と結論されています。両論とも未読です。この種の文献は手に入りにくく、何時も難儀いたしております。
 またサンユッタニカーヤの44(南伝大蔵経 第16巻上 pp.99〜136)は「無記相応」と名づけられた章です。ここを詳しく読んでみてください。タターガタが如来などの輪廻を超越した人をさすことが明らかになるはずです。
 それから10無記や14無記にはさまざまなヴァリエーションがありますが、その整理を三枝充悳先生が『初期仏教の思想』(1978年7月 東洋哲学研究所)という本のなかで綿密にやっておられます。やはりこの部分はタターガタで解釈すべきでしょう。 これは架蔵しておりますし、折に触れて取り出しておりますが、「タターガタ=如来・修行完成者」に関しては、その概念規定の根拠について何も触れられていないのが残念でした。ただ、同書のレグルス文庫版、第一卷p111註では、前回取り上げました中村元博士説が紹介されており、一連の調査のきっかけの一つとなったことをお知らせいたします。ちなみに「タターガタ=衆生・人」説を採用される方々としては前田惠學、赤沼智善・中村元(决定版著作集で転向?)などの各氏がおられます。また、パーリ註、漢訳共通して一致しているのも見迯せないと思いますし、今まで等閑にされがちであったこの問題に関して活発な議論が展開されればと願っております。私など到底參加は無理でしょうが(苦笑)。
 [112]蛇足です。
阿呆陀羅經 [Mail][HomePage
9/12(Sun) 16:15 
原始佛典の横綱格ともいえる『スッタニパータ』を読んでいて面白いところに出くわしました。第3章・9.ヴァーセッタ中です。「すなわち、かの師(バガヴァー)は、尊敬さるべき人・目ざめた人・明知と行いとを具えた人・幸せな人。世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。」と「如来十号」から如来を除いた呼称が羅列されています。これは経典編集時に如来という尊称がまだ確立されていなかったことを示しているのではないでしょうか。

 [91]仏教はどのようにして仏教になったか
森 章司 
6/6(Sun) 21:23 
 今度次のような要領で話をします。ぜひ聞きに来て下さい。
 題目は「仏教はどのようにして仏教になったか」です。
 この要旨は次の通りです。
「釈尊時代のインドの諸宗教はそれぞれがそれぞれのアイデンティティーを持たずに、渾沌とした状態にありました。しかし徐々にそれぞれの特徴を発揮し始め、ついには仏教は仏教たることを、バラモン教はバラモン教たることを確立しました。この過程を修行者の衣食住の生活方法を通じて探ってみたいと思います」
 日時は6月12日(土) 午後3時から
 場所は東洋大学白山校舎1号館2階 1205教室です。
 東洋大学講師の沼田一郎さんの「古典インドにおける酒の弊害」という話が、午後2時からあります。
 これも聞いて下さるとうれしいです。
 [92]Re:仏教はどのようにして仏教になったか
通りすがり 
6/22(Tue) 19:28 
残念ながら森先生の「仏教はどのようにして仏教になったか」を拝聴できませんでした。

どうしたら講義録や関連論文を読ませていただけるのでしょうか?
 [93]Re:仏教はどのようにして仏教になったか
森 章司 
6/26(Sat) 10:50 
 まだ活字にしておりません。
 「原始仏教聖典におけるバラモン修行者−−jaTila(螺髻梵志)とvAnaprastha(林住者)−−」という論文が基礎になっています。これは「中央学術研究所」モノグラフ篇No.7に載せたものです。このモノグラフの大きなタイトルは「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」です。
 これをご覧になって下さい。
 [94]Re:仏教はどのようにして仏教になったか
通りすがり 
6/28(Mon) 20:16 
森先生

ご多忙の中、ご返答ありがとう御座いました。

 [90]ゼミ、テーマ
武雄 
5/20(Thr) 12:03 
今日は図書館見学ということで、済みません、欠席します。

何か、タイのお坊さんどディベートできるテーマはないものかと、会社の同僚と話していたら、先輩(97年に5年生で東洋卒業?)の三田さんが、

「上座部の人って、戒律守ってさえいれば、覚れるっていう考えがあるんじゃないか? 覚るための妨げになるような行為を制限するために決められた戒律なのに、社会との環境と断絶したまま、二千年以上前の戒律をそのまま守っていれば覚れるという、まず戒律ありきという感覚に危機感無いのかなあ? 社会環境に応じて、新しく戒律をつくったり、有用性のない戒律は廃止したり、そういう事ってできないのか? 釈尊は、戒律をそういう流動的なものだと考えていたんじゃないの?」

などと話していました。おもしろいっす。

僕は、先行研究なども多く、やりやすいテーマとしては「仏教と自然」というテーマもなかなかと思います。

仏教は、反自然的なのではないか、という視点は、自然保護思想との相克とか、「人間は本能の壊れた猿」理論(岸田秀)とか、西行の自然観とか、自然の因縁は「無明→輪廻→苦諦」だとか、原始仏教という範囲をすこしはずれますが、考えるだにワクワクするテーマです。
自然との共存共生って感覚と仏教が結びつくのは大乗以降なのか、その萌芽が原始仏教時代にもあったのでしょうか。

釈尊時代の比丘の修行空間は、おそらく山林樹下という感じなので、東南アジア、中国、日本には伝播しやすかったのでしょう。

あるイ

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1/1(Thr) 9:00 
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 [121]死後と輪廻の問題
森 章司 
4/2(Sat) 22:42 
 以前に予告してありました、小生の論文「死後と輪廻はあるか−−「無記」「十二縁起」「無我」の再考−−」を掲載した『東洋学論叢』(東洋大学文学部紀要 インド哲学科篇・第30号)が刊行されました。
 どこででも手に取って見られるという種類の雑誌ではありませんが、念のため。
 [122]Re:死後と輪廻の問題
arara 
4/12(Tue) 17:37 
先生の諸論文がウェブサイト上に掲載されたらどんなにありがたいことが!

 [115]縁起に関して
無宗だ 
10/9(Sat) 9:18 
前回は、多くの丁寧な解説等ありがとうございました。
あの後、書籍を求め、

ブッダのことば -スッタニパータ- 中村元訳
真理のことば 感興のことば 中村元訳
(阿含経典による)仏教の根本聖典 増谷文雄 大蔵出版

を読んでみました。

 私のような初学者でも『仏教の根本聖典』は結構楽しく読めました。
さて、『仏教の根本聖典』の中に、
『分別縁起』
南伝 相応部経典 12,2 分別
漢訳 雑阿含経 12、16
というのがあり、縁起を分析して説いています。

無明-行-識-名色-六処-触-受-愛-取-有-生-老死
といった縁起、縁滅関係があるそうですが、これに関して教えて頂けないでしょうか?

生によって老死があるとか、「六処-触-受-愛-取」は何となくわかるのですが、「名色」と「有」が、特によくわかりません。
縁起に関しては定説のようなものがあるのでしょうか?
名色の説明ででてくる「受、想、思、触、作意」はそれぞれ、なんなのか?
この「受」「触」は、縁起の中の「受」「触」と同じなのか、違うのか?
取の説明ででてくる「欲、見、戒、我」のそれぞれの意味、違いは何か?

縁起を次のように理解してみたのですが、次の解釈はいかがなものでしょうか?
「惜しい!」といってもらえるレベルなのか、箸にも棒にもかからないレベルなのか?
よろしく、お願いいたします。

無明-行:無知ゆえに人はあがく
行-識 :あがくことにより経験を積むことになる。経験は五感の経験と意の経験に分類できる。
識-名色:経験にしたがって、世の中(世間)は三次元的な実体と人の営みから成り立つことがわかる。
名色-六処:己が世間とかかわり存在するためには、世間を認識する器官、六処(眼、耳、鼻、舌、身、意)が必要である。
六処-触:六処があれば、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、思ったりすることができる。
触-受 :見たり聞いたりすれば、網膜に像を結んだり、鼓膜が振動し、その信号を脳で認識される。
受-愛 :脳で認識したものは、良いもの悪いもの分類され、良いと判断したものを渇愛するようになる
愛-取 :渇愛すれば、それに対する執着、我がものにしたいという欲求が生まれる。
取-有 :人の持つ執着、欲求により己の三界(欲界、色界、無色界)における居場所が決まる。
有-生 :三界における居場所を持つということが、すなわち生きるということである。
生-老死:生あるものは、やがて老い、死する。

「名色」と「有」以外は、個人のことを言っているのに対して、
「名色」と「有」は環境というか世界全体を指しているような印象を持ったのです。


以下、『分別縁起』より要約

◆無明
・苦における無知
・苦の因における無知
・苦の滅における無知
・苦の滅にいたる道においての無知

◆行
・身における行
・口における行
・心における行

◆識
・眼の識
・耳の識
・鼻の識
・舌の識
・身の識
・意の識

◆名色
名 受、想、思、触、作意
色 地、水、火、風の四大およびそれらによってなるもの

◆六処
眼、耳、鼻、舌、身、意

◆触
・眼による接触
・耳による接触
・鼻による接触
・舌による接触
・身による接触
・意による接触

◆受
・眼の触によりて生ずる感覚
・耳の触によりて生ずる感覚
・鼻の触によりて生ずる感覚
・舌の触によりて生ずる感覚
・身の触によりて生ずる感覚
・意の触によりて生ずる感覚

◆愛
・色に対する渇愛
・声に対する渇愛
・香に対する渇愛
・味に対する渇愛
・触に対する渇愛
・法に対する渇愛

◆取
・欲に対する執着
・見に対する執着
・戒に対する執着
・我に対する執着

◆有
・欲界における生存
・色界における生存
・無色界における生存

◆生
生きとし生けるものが、生まれて、身体の各部あらわれ、その処を得たる

◆老死
老 老いおとろえ、齢かたむきたる
死 いのち終わり、遺骸(むくろ)となりて、棄てられたる

以上
 [116]Re:縁起に関して
無宗だ 
10/9(Sat) 9:59 
実は、『仏教の根本聖典』(2002/7/10 新訂3版)では、識の説明(p97)で、

六つの識がある。
といいつつ、
・舌の識
が抜けていたのですが、これは単純にこの書籍のまちがいと考えていいのでしょうか?
 [117]Re:縁起に関して
森 章司 
10/12(Tue) 12:19 
 このところ忙しくて返事が書けなくて申し訳ありません。
 取りあえず私の解釈は、国書刊行会から刊行されている『仏教的ものの見方−−仏教の原点を探る』の82頁から84頁を参照していただけたらと思います。
 「舌識」については確認はしていませんが、明らかに単純ミスではないでしょうか。
 [118]Re:縁起に関して
無宗だ 
10/14(Thr) 22:46 
レスありがとうございました。

> 取りあえず私の解釈は、国書刊行会から刊行されている『仏教的ものの見方−−仏教の原点を探る』の82頁から84頁を参照していただけたらと思います。
BK1で発注いたしました。
読み終わりましたら、また書き込みさせていただこうとおもいます。
よろしくお願いいたします。

PS:
BK1で発注した後で気付いたのですが、
http://www.kokusho.co.jp/order/index.html
国書刊行会の国書刊行会オンラインショップで頼んだ方が
圧倒的に早く手に入ったのですね。
 [119]Re:縁起に関して
スターダスト 
10/18(Mon) 19:25 
無宗ださん、はじめまして、十二因縁について私なりに考えてみました。
**************************************
@無明=因果を知らない。空を知らない。唯物論という無知。
A行=無知のままの行為。(因果を知らないから悪を行う)
B識=過去世の生活の行為一切が識に記憶される。
C名色=その記憶が『夢幻』となって「この世・肉体・心」を造る。
D六入=肉体が出来ると眼耳鼻舌身意の五官と心が具わる。
E触=五官と心は外界を認識する。(外界に触れる)
F受=外界を認識すれば一切のものを苦と楽に分別する。
G愛=外界の楽の事物に愛着を起こす。
H取=愛着を起こした事物(欲望・唯物論・自我・戒律)を取る。
I有=以上の過去の行いから、性格・環境などの存在が決定する。
J生=有で決定した環境に決定した性格の者として生まれる。
K老死=この世の色々な苦しみに遭遇する。(生老病死憂悲悩苦)
**************************************
 [120]Re:縁起に関して
無宗だ 
10/24(Sun) 12:58 
> スターダストさん
レスありがとうございます。
基本的には、(1)-(3)過去世、 (5)-(9)現世、 (11)-(12)来世 という考え方ですね?
参考にさせていただきます。

> 森先生

『仏教的ものの見方』、大変楽しくませて頂きました。
三法印、四法印は結果であって、その前に仏教的ものの見方としてとして、
「あるがまま」を「あるがまま」に見る
という姿勢があるとのご指摘は大変新鮮でした。

あるサイトで『大乗仏教の経典は、後世の創作である』ことを聞き、
大乗仏典に対し、少し不信感を持っていたのですが、
二十一世紀の日本には、それに相応した『仏説新世紀経』といった経典が作られるべき
といった話を読み、心得違いを気付かせて頂きました。ありがとうございます。

肝心の縁起の解釈に関して、わかったようでわからない状況なのですが、
有に関して、中有、誕生の三条件といったものがあるとの記述は興味深かったです。

 [95]釈尊は魂の存在を認めているのか?
無宗だ 
7/19(Mon) 4:27 
はじめまして。無宗だと申します。
仏教というと、極楽、地獄、輪廻転生、神通力というイメージがあります。
しかし、最近、次のような記述が原始仏典にあることを知りました。

「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。
マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ。」以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。
(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473〜478頁)

また、大乗仏教の経典は、後世の創作であることを聞き及び大変びっくりいたしました。

>[5]クッダカ・ニカーヤ(Khuddaka-nikAya)
http://www2.toyo.ac.jp/~morimori/kn.html
を拝見させていただくと、過去生の話なども原始聖典にはたくさん含まれているようですね。

根本仏教では、魂や輪廻転生、過去生といった霊的なものに関して、釈尊は何か言及しているのでしょうか?
釈尊は過去生の存在を肯定しているのでしょうか?
よろしくお願いいたします。
 [96]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
kata 
7/19(Mon) 9:35 
>根本仏教では、魂や輪廻転生、過去生といった霊的なも
>のに関して、釈尊は何か言及しているのでしょうか?
>釈尊は過去生の存在を肯定しているのでしょうか?
>よろしくお願いいたします。

”過去生の存在”についての上座部仏教における釈尊のお考えは、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックの「沙門果経」をお読みになれば、お分かりになると思います。

ただ、輪廻転生する”魂”についての上座部仏教における釋尊のお考えは、一般的に考えられているものとは少々異なりますので要注意です。
 [97]上座部仏教における釋尊のお考え
無宗だ 
7/20(Tue) 23:06 
kataさん、レスありがとうございます。

> ”過去生の存在”についての上座部仏教における釈尊のお考えは、
> 長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックの「沙門果経」をお読みになれば、
> お分かりになると思います。
kataさんは、
”過去生の存在”についての上座部仏教における釈尊のお考えは、
根本仏教における”過去生の存在”についての考えと同じであると考えられているわけですね。

実は、「毒矢のたとえ」の引用はあるサイトからの転記で私自身は当該書籍を持っていないのですぐには確認できません。
釈迦は霊魂の有無、死後の世界という経験も論証も不可能な問題は、「無記」として退けたと聞いたので”過去生の存在”、輪廻転生する”魂”については、論ずることに意味はないという立場を取り、『過去生の話は、根本仏教では扱われなかった』という回答を期待したのですが、上座部仏教においては、なんらかの言及がされているということですね?

なんとか見つけて読んでみようと思いますが、現在入手可能な書籍、サイト等で、参考になるものを教えていただければありがたいです。

回答、ありがとうございました。
 [98]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
森 章司 
7/21(Wed) 18:19 
 しばらく開けていなかったので、こんな重大な書き込みがあることに気がつきませんでした。ごめんなさい。
 仏教は原始仏教であれ、大乗仏教であれ、上座仏教であれ、日本仏教であれ、死後の生や輪廻転生を認めないものはありません。
 たしかに仏教学者の中にはそれは一般向けの俗説であって、釈尊の真意ではないという意見もあります。今問題とされているような経があるからです。
 しかしこの中に解答が用意されています。「世界は常住であると見るとも、あるいは世界は無常であると見るとも、生はあり、老はあり、死はある。わたしはそれを征服することを教える」とされていますが、ここに述べられている「生」は輪廻転生を前提とした「生」であるからです。もし今ここに生れてきていて再び生まれ変わらなければ、もう「生」を征服する必要はないわけですから。
 死後の生はないという誤解のもとになっているのは、ここに述べられているように「人間の死後があるか、ないか」ということにお釈迦さまは無言によって答えられたとすることです。しかし原文では人間に当たる言葉はタターガタで、これは普通は「如来」と訳される言葉です。もちろん阿弥陀仏を阿弥陀如来と言うように、「仏」と同じ意味を表します。すなわち輪廻転生を解脱した人のことです。
 しかし不思議なことに、この部分の「如来」は「人間」を表すという解釈が広くひろまってしまっているようです。例えば『岩波・仏教辞典』(1989年12月 p.781左)は「無記」の項の解説で「釈尊が他の思想家たちから世界の常・無常、有限・無限、霊魂と身体との同異、死後の生存の有無など14の形而上学的質問を受け、論争を挑まれたが、沈黙を守って答えなかったことを言う」とし、『新版・仏教学辞典』(1995年4月 法蔵館 p.438中)は「無記」の項の解説でもっと明確に、「如来(ここでは衆生を意味する)は死後に有であるか、無であるか、有にして無であるか、有でも無でもないか」としています。
 しかしこれは間違いで、あくまでも「如来」は「如来」と解釈しなければならないことを、ついこのあいだ私が書いた「死後(輪廻)はあるか」という論文で論証しておきました。『葬制・墓制にみる日本の死生観』という科学研究補助金の研究成果報告書(研究代表者 高城功夫東洋大学文学部教授 平成16年3月30日刋)に載せたもので、これは国立国会図書館に行けばご覧になれると思います。しかしこれでは不便極まりありませんから、来年の3月に発行される予定の『東洋大学文学部紀要インド哲学科篇 第58集 東洋学論叢第30号』に再録する予定ですので、もうしばらくお待ち下さい。
 しかしだからといって仏教が魂の存在を認めているわけではありません。これについてもこの論文をご参照下さい。念のため。
 [99]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
無宗だ 
7/23(Fri) 5:38 
森先生、私のようなつい最近原始仏教に興味を持ち始めたばかりの浅学な者に対し、丁寧な回答を頂き大変感謝いたします。
ネットでちょっと調べただけで、『無我というのは、輪廻転生するアートマン(我=魂)を否定したもの』で、釈迦自体は、魂、輪廻転生、過去生といった形而上の概念は一切説かなかったと信じ込み、森先生のゼミでいうところの根本仏教( http://www2.toyo.ac.jp/~morimori/naani.html )、すなわち釈尊金口の教えをわかった気になっておりました。

>仏教で、死後の生や輪廻転生を認めないものはありません。
>仏教が魂の存在を認めているわけではありません。
魂の存在を認めていないのに、輪廻転生を認めているというのは私の理解を超えております。
釈尊は自分の教えは難しいと言ったとどこかで読んだ気がしますが、たしかに、そのようですね。
ようやく自分でも原典(もちろん日本語訳に限りますが)を読んでみようかという気になりました。

どうも、ありがとうございました。
 [100]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
池田慈水 
7/29(Thr) 14:28 
釈迦の創始した仏教は、修行すれば、輪廻転生が止まる。したがって、来世が消える。修行者の来世が消えている事を判定し、阿羅漢になったと見ぬく。
見ぬく指導者は、来世を判断する天眼通の神通力者である。
これらは論理的に正しい推理である。
 [101]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
阿含 
8/7(Sat) 8:34 
はじめまして。

>>魂の存在を認めていないのに、輪廻転生を認めている
>>というのは私の理解を超えております。

阿含経では魂を認めているようです。「神魂」あるいは「識神」と呼ばれているようです。
 [102]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
kata 
8/8(Sun) 14:15 
>阿含経では魂を認めているようです。「神魂」あるいは>「識神」と呼ばれているようです


1)阿含経とは?具体的な経典名を挙げて頂けますか?

2)その経典の中で魂(神魂、識神atta/atmanの漢訳?)が"どのように”認められているのですか?
 [103]魂神・識神
阿含 
8/8(Sun) 16:00 
魂神=長阿含 巻の第四遊行経 第二後

識神=雑阿含 (跋迦梨経)
増壱阿含 巻第四十 十一
  (国訳一切経 阿含部より)
にあります。
 [104]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
森 章司 
8/9(Mon) 12:11 
 おっしゃる通り、仏教経典の中にも「魂神」とか「識神」という言葉が出てきます。単に「こころ」とか「精神」という意味である場合もありますが、確かに「魂」というような意味で使われていることもあるようです。しかしそれはいわば通俗的な意味であって、教理的な意味ではないといってよいと思います。
 中村元先生は『原始仏教の思想氈x(中村元選集[決定版]第15巻 1993年8月 春秋社 p.652以下)のなかで、経蔵の末期においては、積極的に輪廻の主体を想定する思想が、仏教徒の主張として表明されている、とされています。その典拠として使われているのが、DN.23の「パーヤーシ・スッタンタ」と長阿含経7の「弊宿経」です。しかしよく読めば、これをもって仏教が霊魂(jIva)を輪廻の主体であると認めていたと解釈するのは無理があるように思います。
 原始仏教の主張は、私たちは色・受・想・行・識という5つの要素(五蘊とか五陰といいます)から成り立っていて、この外にアートマンとか霊魂というものはない、というものです。だから生老病死を自由に操ることもできないし、輪廻を如何ともしがたいというのです。要するに原始仏教は5つの要素が和合しながら、昨日から今日そして明日へと生を続けていく、それと同じように前世から今世に生れてきて、解脱しないかぎり来世に生れていくという言うわけです。南方上座仏教では中陰(中有)を認めませんから、死んだら次の瞬間に五蘊を持った別の「私」に生れることになります。日本では中陰を認めて49日間の喪に服しますが、これは次の生に生れるまで49日間、中陰という形の生存があるという考え方によっています。そしてこの中陰も5つの要素から成り立っていて、ここに霊魂というものを認めていません。要するに今の生に霊魂を認める必要がなければ、輪廻にも霊魂を必要としないということになります。
 確かに昨日の私と今日の私は、五蘊が消滅しながら連続しているとしても理解しやすいのですが、生前の私と死後の私の連続性を五蘊で納得するのは難しいと思います。だから「無我輪廻」は仏教の永遠のテーマであり続けると思いますが、しかし原始仏教は上記のように考えていた、といってよいと思います。
 
 [105]毒矢のたとえについて。
阿含 
8/9(Mon) 13:22 
>>人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しな
>>いいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はあ
>>る。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。

私は漢訳の阿含経しか読んでいないので、よくわかりませんが、阿含経の「二百二十一、箭喩経第十」のことではないかと思います。漢訳には死後の世界の有無ではなく、次のように説かれています。

**************************************
世常有りと、この見有るが故に我に従ひて梵行を学せざらんは、この事然らず。是の如く世常有る無し、世底有り、世底無し、命即ちこれ身なり、命異り身異ると為す、如来終る、如来終らず、如来終り終らず、如来亦終るに非ず亦終らざるに非ずやとする、この見有るが故に我に従ひて梵行を学せざらんは、この事然らず。
**************************************
この世は常恒なのか。この世に終わりがあるかどうか。命は身体にあるのか。如来に終わりがあるのかないのか。という意味ではないでしょうか。
 [106]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
阿含 
8/12(Thr) 20:56 
>>人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間
>>は死後存在しないいう考え方があろうと、

阿含経では死後の世界を説いていますよ。
だから、六道を輪廻していると言われているのではないですか。その六道からの離脱が解脱ではないかと思うのですが。
 [107]Re:毒矢のたとえについて。
ねこ 
8/13(Fri) 14:55 
”阿含”さんへ

無宗ださんの引用された「毒矢のたとえ」自体は、パーリ経典の中部第六十三経「小マールンキャ(Cula-Malunkyovada Sutta )」経の日本語訳からの抜粋です。
 [114]Re:釈尊は魂の存在を認めているのか?
阿含 
9/16(Thr) 19:41 
>>根本仏教では、魂や輪廻転生、過去生といった霊的な
>>ものに関して、釈尊は何か言及しているのでしょう
>>か?

輪廻からの解脱が修行の目的となっています。
もちろん、輪廻を認めているので、過去世にも言及して
います。

>>釈尊は過去生の存在を肯定しているのでしょうか?
>>よろしくお願いいたします。

釈尊自身、ご自分の過去世を説いています。
釈尊が阿修羅であったとき、阿難は釈尊の子供であった
という記述もあり、この世での釈尊の過去世も説かれて
います。




 [113]Re:無記と「タターガタ」
電波男Ψ(´д`)Ψ [Mail
9/12(Sun) 19:21 
森先生はじめ皆様、お初にお目にかかります。

私は原始仏教から初期大乗までを仏教思想史として研究しておりました。森先生に少し疑問に感じるところを申し訳ございませんが述べさせていただきたく存じます。

1 論文引用ではなく紹介と言う形だけで論を進める。古い論文を根拠にされるのはいいが、後の展開を視野においておられるのか
2 輪廻について、生理学的な視点のみであり、別解釈をしない
3 相応部経典から釈尊を推し量るのは乱暴である
4 三枝先生を存知上げておりますが、インド仏教を専門とされる方が氏を援用されるのは解せない

以上をもう少し熟慮されんことを。

 [108]無記と「タターガタ」
阿呆陀羅經 [Mail][HomePage
9/10(Fri) 19:56 
森先生、皆樣方はじめまして。
私は原始佛教に関心を寄せる初学者のズブの素人でございます。こちらで興味深い話題を拝見致しまして、浅学菲才の身も顧ず、雜駁な駄文を寄せさせて頂きますが、どうぞ御寛恕の程をお願い申し上げます。
さて、先頃から話題に上っております、パーリ『中部』所収の『小マールンクヤ經』の所説にこと寄せて取り上げられることの多い、ブッダが回答を拒んだという十乃至は十四の「形而上的命題」、所謂十(十四)難無記といわれるものの中の「タターガタの死後の有無」についての解釈をめぐって、で無宗ださんのカキコにあるように「人間一般の死後」についてであるとするものと森先生のご指摘にあるように「如来もしくは修行完成者の死後に限定」という理解の両者が混在し、判り難い状況ではあったと思います。ところがそうこうするうちに、故中村元博士の大著『原始仏教の思想T』p234に「佛教でもジャイナ教でも説くところの、このコンテクストにおけるタターガタとは『如来さま』のことではなくて、『たましい』のことである。タターガタは『衆生神我』と訳されていることがある。」という件りを発見し、その論拠を確認がてら調べてみると、『別訳雑阿含経』第10巻(196經)に
T02n0100_p0445a13║人不了。作是說耶。佛告犢子。我亦不作如是
T02n0100_p0445a14║說言。一切世界。非常非無常。非非常非非無
T02n0100_p0445a15║常。唯我能知餘人不解。犢子復問。世界有邊。
T02n0100_p0445a16║世界無邊。亦有邊亦無邊。非有邊。非無邊。
T02n0100_p0445a17║非非有邊。非非無邊。身即是命。命即是身。身
T02n0100_p0445a18║異命異。衆生神我。死此生彼。為有為無。亦有
T02n0100_p0445a19║亦無。非有非無。非非有。非非無。曇瞿。汝今
T02n0100_p0445a20║作是說耶。佛告犢子。我不作是見。不作是論。
とありました。タターガタの訳語と思われる語が「衆生神我」になっています。また、パーリニカーヤの註釈文献であるアッタカターでは無記の文脈における「タターガタ」(tathAgata)とは〈生けるもの〉(satta)またはその根底となる実体〈我〉(attA)を意味する」とあるようで、「如来」の意は見当たらないようです。漢訳では『中阿含経』の散逸した古訳の斷片ではないかといわれている『箭喩經』(『小マールンクヤ經』と共通内容)http://w3.cbeta.org/result/normal/T01/0094_001.htmと『邪見經』http://w3.cbeta.org/result/normal/T01/0093_001.htmに、ブッダを示すと思われる「如来」と、衆生一般を示すと思われる「如此」の語への訳し分けが見られるのが注目されるのではないかと考えています。もっといえばブッダ在世頃から「如来」といういわば神学的な語義解釈−ニルクティというのでしょうか−が既に確立されていたのか少なからず疑問に思ってもおります。ブッダが用いていた三人称による自称の語が、後世に神秘化超人化されたとも考えられないでしょうか。
 [109]Re:無記と「タターガタ」
阿呆陀羅經 [Mail][HomePage
9/11(Sat) 7:24 
自己レスです。したがって、新版・仏教学辞典』(1995年4月 法蔵館 p.438中)などの表記は上記のような文献的裏付けに基づいており、誤りとはいえないのではないかというのが私の見解です。加えてかなり昔の『南伝大蔵経』の『中部経典』所収『マールンクヤプッタ経』の干潟龍祥氏による訳注−手許にないので参照できませんが−では、「タターガタとは去来するもの、すなわち衆生有情(取意)」と記されてあったと記憶しております。これもパーリ註釈などに基づくものでしょうか・・・。「タターガタ」という語は元来こうした意味であり、ブッダもそれを踏まえて三人称の自称としてこれを用いていたのが、徐々にに宗教的意味が付与されて、「真理からやってきたもの、真理から生まれたもの=如来」などといったいわば「神学的聖化」が確立したのではないかと考えています。
 [110]Re:無記と「タターガタ」
森 章司 
9/12(Sun) 14:01 
 書き込みありがとうございます。
 無記説の中に使われているタターガタの語義については、水野弘元先生の「tathAgata(如来)の意義用法」(『印度学仏教学研究』5-1 昭和32年1月)という論文と、石上善応先生の「無記説とパリバージャカ」(『佐藤博士古稀記念 仏教思想論叢』山喜房仏書林 昭和47年10月9日)という論文を参照してみて下さい。
 前者にはタターガタの用例を綿密に検討されたうえで、「無記説におけるtathAgataも、仏教的な如来も、その起源は等しく、共に<生死輪廻を脱した完全者>の意味を含むものであったと思われる」と結論を下されています。
 また後者でも水野論文を参照したうえで、「仏教の中で、如来はブッダのみと理解し、当時、如来は外に存在しなかったとして、一般の有情(=人)と同義に解釈したことは、やはり無理があったとみなすべきであろう。ここで論じられている如来は完成された人を指している。いうならば、輪廻せざる完成者を意味しているものであろう」と結論されています。
 またサンユッタニカーヤの44(南伝大蔵経 第16巻上 pp.99〜136)は「無記相応」と名づけられた章です。ここを詳しく読んでみてください。タターガタが如来などの輪廻を超越した人をさすことが明らかになるはずです。
 それから10無記や14無記にはさまざまなヴァリエーションがありますが、その整理を三枝充悳先生が『初期仏教の思想』(1978年7月 東洋哲学研究所)という本のなかで綿密にやっておられます。やはりこの部分はタターガタで解釈すべきでしょう。
 [111]Re:無記と「タターガタ」
阿呆陀羅經 [Mail][HomePage
9/12(Sun) 15:21 
書き込みありがとうございます。
私ごとき一素人の取留めも無い書き込みに丁寧なご返事ありがとうございます。
 無記説の中に使われているタターガタの語義については、水野弘元先生の「tathAgata(如来)の意義用法」(『印度学仏教学研究』5-1 昭和32年1月)という論文と、石上善応先生の「無記説とパリバージャカ」(『佐藤博士古稀記念 仏教思想論叢』山喜房仏書林 昭和47年10月9日)という論文を参照してみて下さい。
 前者にはタターガタの用例を綿密に検討されたうえで、「無記説におけるtathAgataも、仏教的な如来も、その起源は等しく、共に<生死輪廻を脱した完全者>の意味を含むものであったと思われる」と結論を下されています。
 また後者でも水野論文を参照したうえで、「仏教の中で、如来はブッダのみと理解し、当時、如来は外に存在しなかったとして、一般の有情(=人)と同義に解釈したことは、やはり無理があったとみなすべきであろう。ここで論じられている如来は完成された人を指している。いうならば、輪廻せざる完成者を意味しているものであろう」と結論されています。両論とも未読です。この種の文献は手に入りにくく、何時も難儀いたしております。
 またサンユッタニカーヤの44(南伝大蔵経 第16巻上 pp.99〜136)は「無記相応」と名づけられた章です。ここを詳しく読んでみてください。タターガタが如来などの輪廻を超越した人をさすことが明らかになるはずです。
 それから10無記や14無記にはさまざまなヴァリエーションがありますが、その整理を三枝充悳先生が『初期仏教の思想』(1978年7月 東洋哲学研究所)という本のなかで綿密にやっておられます。やはりこの部分はタターガタで解釈すべきでしょう。 これは架蔵しておりますし、折に触れて取り出しておりますが、「タターガタ=如来・修行完成者」に関しては、その概念規定の根拠について何も触れられていないのが残念でした。ただ、同書のレグルス文庫版、第一卷p111註では、前回取り上げました中村元博士説が紹介されており、一連の調査のきっかけの一つとなったことをお知らせいたします。ちなみに「タターガタ=衆生・人」説を採用される方々としては前田惠學、赤沼智善・中村元(决定版著作集で転向?)などの各氏がおられます。また、パーリ註、漢訳共通して一致しているのも見迯せないと思いますし、今まで等閑にされがちであったこの問題に関して活発な議論が展開されればと願っております。私など到底參加は無理でしょうが(苦笑)。
 [112]蛇足です。
阿呆陀羅經 [Mail][HomePage
9/12(Sun) 16:15 
原始佛典の横綱格ともいえる『スッタニパータ』を読んでいて面白いところに出くわしました。第3章・9.ヴァーセッタ中です。「すなわち、かの師(バガヴァー)は、尊敬さるべき人・目ざめた人・明知と行いとを具えた人・幸せな人。世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。」と「如来十号」から如来を除いた呼称が羅列されています。これは経典編集時に如来という尊称がまだ確立されていなかったことを示しているのではないでしょうか。

 [91]仏教はどのようにして仏教になったか
森 章司 
6/6(Sun) 21:23 
 今度次のような要領で話をします。ぜひ聞きに来て下さい。
 題目は「仏教はどのようにして仏教になったか」です。
 この要旨は次の通りです。
「釈尊時代のインドの諸宗教はそれぞれがそれぞれのアイデンティティーを持たずに、渾沌とした状態にありました。しかし徐々にそれぞれの特徴を発揮し始め、ついには仏教は仏教たることを、バラモン教はバラモン教たることを確立しました。この過程を修行者の衣食住の生活方法を通じて探ってみたいと思います」
 日時は6月12日(土) 午後3時から
 場所は東洋大学白山校舎1号館2階 1205教室です。
 東洋大学講師の沼田一郎さんの「古典インドにおける酒の弊害」という話が、午後2時からあります。
 これも聞いて下さるとうれしいです。
 [92]Re:仏教はどのようにして仏教になったか
通りすがり 
6/22(Tue) 19:28 
残念ながら森先生の「仏教はどのようにして仏教になったか」を拝聴できませんでした。

どうしたら講義録や関連論文を読ませていただけるのでしょうか?
 [93]Re:仏教はどのようにして仏教になったか
森 章司 
6/26(Sat) 10:50 
 まだ活字にしておりません。
 「原始仏教聖典におけるバラモン修行者−−jaTila(螺髻梵志)とvAnaprastha(林住者)−−」という論文が基礎になっています。これは「中央学術研究所」モノグラフ篇No.7に載せたものです。このモノグラフの大きなタイトルは「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」です。
 これをご覧になって下さい。
 [94]Re:仏教はどのようにして仏教になったか
通りすがり 
6/28(Mon) 20:16 
森先生

ご多忙の中、ご返答ありがとう御座いました。

 [90]ゼミ、テーマ
武雄 
5/20(Thr) 12:03 
今日は図書館見学ということで、済みません、欠席します。

何か、タイのお坊さんどディベートできるテーマはないものかと、会社の同僚と話していたら、先輩(97年に5年生で東洋卒業?)の三田さんが、

「上座部の人って、戒律守ってさえいれば、覚れるっていう考えがあるんじゃないか? 覚るための妨げになるような行為を制限するために決められた戒律なのに、社会との環境と断絶したまま、二千年以上前の戒律をそのまま守っていれば覚れるという、まず戒律ありきという感覚に危機感無いのかなあ? 社会環境に応じて、新しく戒律をつくったり、有用性のない戒律は廃止したり、そういう事ってできないのか? 釈尊は、戒律をそういう流動的なものだと考えていたんじゃないの?」

などと話していました。おもしろいっす。

僕は、先行研究なども多く、やりやすいテーマとしては「仏教と自然」というテーマもなかなかと思います。

仏教は、反自然的なのではないか、という視点は、自然保護思想との相克とか、「人間は本能の壊れた猿」理論(岸田秀)とか、西行の自然観とか、自然の因縁は「無明→輪廻→苦諦」だとか、原始仏教という範囲をすこしはずれますが、考えるだにワクワクするテーマです。
自然との共存共生って感覚と仏教が結びつくのは大乗以降なのか、その萌芽が原始仏教時代にもあったのでしょうか。

釈尊時代の比丘の修行空間は、おそらく山林樹下という感じなので、東南アジア、中国、日本には伝播しやすかったのでしょう。

あるイ

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