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益田安良の視点

(下記は筆者が某雑誌・新聞に寄稿した匿名コラムや未発表のメモをベースに気ままに記したエッセイであり、記名で著した諸論文・書籍とは性格が異なります。しかし、一応著作権は筆者に帰属しますので、無断転用はご遠慮ください。転用される場合は、著者名・URLを明示ください。
また、タイトルのみ記し「省略」とあるコラムをお読みになりたい方は、、下記アドレスまでご請求下さい。)

 <ご意見・ご連絡は masuda_y@toyo.jp  までお願い致します。>

★2015年8月15日『人民元の為替制度変更;柔軟化は素直に歓迎すべき
     −切り下げ競争よりも中国経済そのものが心配−

 8月11-12日、中国人民銀行が人民元の対ドル為替レートの基準値を2日連続で切り下げ、世界の為替市場や株式市場に激震が走った。8月11日に対ドルレートの基準値を前日比約2%、12日にも1.6%切り下げた。

これを受け、両大戦間期のブロック経済時代を想起してか、「為替レート切り下げ競争の再来か」といった声まで高まった。また、「なりふり構わず、時代遅れの為替レート切り下げに走るとは、そこまで中国経済は深刻なのか」という懸念も広まった。

果たして、今回の人民元の為替制度の変更は、そのような不吉な意味を持つのであろうか?

(1)基準値の設定方式の変更の意味

今回の人民元の為替制度の変更は、正確には、毎朝中国人民銀行が発表する対ドル為替レートの基準値を、「前日の終値」を参考に設置する方式に変えるものである。中国では、銀行は基準値の上下2%以内のレートでしか人民元を売買できない為、人民元の為替レートは基準値の設定によってほぼ完全に管理されることになる。その基準値が、中国人民銀行が恣意的に決める方式から、前日の実勢レートの動きを反映する方式に変わったのである。

これは、見方を変えれば、従来から欧米諸国やIMF(国際通貨基金)が中国に求めてきた「為替制度の柔軟性」に向けての一歩であろう。実際、中国の高官は、今回の措置を、あくまで「為替制度の柔軟性の為」と繰り返している。

もし実勢為替レートが下落(あるいは上昇)の傾向にあれば、中国人民銀行もそれをむげに無視できなくなる。そうした実勢レートの変動が続けば、一定期間内にはある程度の為替レート変動も可能になる。ただし、変動幅の上限は毎日2%までであるため、1週間で10%程度が限界ではあるが。

中国政府(人民銀行)が人民元為替レートを操作したければ、今後は為替介入や金融政策(政策金利の変動)しか方法がない。中国人民元の資本取引は規制されているため、為替介入は相応の効果を持ち続けるであろうが、それでも為替レートが市場の実態に左右される度合いは高まるであろう。まさに「柔軟性」が増すことになる。


(2)人民元切り下げの意図はあるが
 もちろん、中国政府は人民元為替レートを切り下げたかったのであろう。実際、11-12日に人民元の対ドル為替レートは合計4%近く下落した。おそらく中国政府は、人民元の実勢為替レートに下げ圧力にあることを狙って、今回の為替制度(基準値設定方式)の変更を実施したのであろう。「為替レート柔軟化」という欧米の要望を充たしつつ、ていよく人民元為替レートの切り下げを行ったのは、巧妙である。
 しかし、中国政府もこの方式により為替レートの切り下げを続けられるとは思っていなかったであろう。実勢レートにあわせて基準値を設定するのであるから、市中での人民元上げ圧力があれば、むしろ人民元為替レートは上昇してしまう。それを覚悟した上での制度変更であろう。実際、8月14日には基準値は前日比0.05%上昇した。これは中国政府が為替レートの切り上げを図ったというよりも、為替制度の変更の意味が浸透し、実勢の人民元為替市場において人民元下落圧力が減ったことを反映している。やはり実勢を反映せざるを得ないのである。
 中国政府が、今回の8月11日以降の基準値設定方式を変えない限り、今後は為替市場の実勢に合わせて人民元為替レートは、下がることもあるが上がることもあるであろう。

(3)ドル・ペッグをやめた事の意義は大きい
 また、世界の通貨制度選択の観点からも、人民元の為替制度の柔軟化は歓迎すべきである。
 中国人民元は、2005年7月以降は、ドル・円・ユーロなどから構成される通貨バスケットとの為替レートの安定を図り、若干の為替レート変動を認めつつ管理する方式となっていた。しかしその目標や管理の詳細は不明であり、実態的には中国政府の方針に完全に沿う管理為替制度であった。
 そしてリーマン・ショックの2008年から2010年頃までは、ほぼドル・ペッグ制(米国ドルに為替レートを固定する制度)を採っていた。
 こうした実態的なドル・ペッグの中で、2012年以降ドル高が進行し、人民元にも上昇圧力がかかった。これを受け中国政府は、人民元の対ドル為替レートを下落させる方向で管理してきたが、従来の基準値の方式ではそれも限界となった。
 ドル・ペッグの下でドル高が進むと、その国の第3国(日本など)に対する国際競争力はダメージを受ける。これは、1997年に東南アジア諸国の多くが通貨危機に陥った大きな原因となった。このため、中国は名実ともにドル・ペッグから脱する為に人民元為替制度の柔軟化の方向での変更を打ち出したのではないか。
 いずれにせよ、ドルなどの単一通貨に固定(ペッグ)する為替制度は危険である。完全フロート(変動相場)制に向けて柔軟化を図るか、せめて適切な通貨バスケットへの緩やかなリンクとするか、といったことが求められる。今回の人民元の為替制度変更は、国際金融市場の安定に資する国際通貨制度に近付くものであり、この点でも歓迎すべきである。

(4)心配なのは中国経済
 上記のとおり、中国政府は為替レートの大幅切り下げを狙っている訳ではないが、それでも人民元安への誘導を願っていることは否めない。その理由は、言うまでもなく経済の減速である。
 為替レート下落は、必ずしも経済に好材料とは言えないが、短期的には輸出環境改善などを通じて経済を刺激することは間違いない。中国の場合、他の新興国・発展途上国と同様、政府や企業が外貨建て(とくにドル建て)での債務を大量に抱えている。このため、人民元の対ドル為替レートの低下は、政府や企業の債務負担増加に直結する。それでも人民元為替レートの低下を望むということは、それだけ国内経済に暗雲が垂れ込めているからであろう。
 中国経済が減速すれば、これは中国だけでなく世界経済に大きなダメージを与える。とくに貿易や直接投資での関係が深い日本への悪影響は計り知れない。
 心配すべきは、中国が為替レートの切り下げ競争の口火を切ったかどうかではなく、中国経済の成長力そのものではなかろうか。 (了)


★2015年5月31日『起業・ベンチャー企業活性化の鍵は「情報流通」
    /シリコンバレー誘致より国内のクラウド・ファンディングの拡充を

(1)安倍首相のシリコンバレー誘致の怪

安倍晋三首相は、4月末の訪米の際、カリフォルニア州での講演の中で、「技術を持つ日本の中小企業200社をシリコンバレーに送り込む」という方針を打ち上げた。これは、日本の中小企業を、シリコンバレーという秀逸のベンチャー集積地に誘導する方針として、一般的には好感されている。おそらく、多くの人が日本の高校野球で育った野球選手が、しばらく後に大リーグで大活躍するような構図を想起したのであろう。
 しかし、何かおかしくはないか? シリコンバレーは、確かに起業、ベンチャー企業発展の為の最適の地であろう。技術力のある企業自身が、起業・ベンチャー企業発展の為の様々な条件が整い、ベンチャー企業とファンド等のサポート機能が集積するシリコンバレーで躍進を図ることは大変結構である。実際、既に相当数の日本企業がシリコンバレーに活動の場を移しており、また最初からシリコンバレーで起業する日本人も少なくない。
しかし、そんなことは首相に言われなくても、各企業、起業者は既に十分知っている。また、日本政府(首相)が目指すべきは、日本での起業活発化とベンチャー企業の躍進によって日本の国内生産(GDP)を増やすことであり、カリフォルニアの発展ではない。政府が目指すべきは、「シリコンバレーに日本企業を送り込む」ことではなく、「シリコンバレーに対抗しうるベンチャー企業の孵化器(インキュベーター)」をいかにして日本国内に作り上げるかである。シリコンバレーに学び、シリコンバレーを羨望してもよいが、彼の地に日本企業を誘致する理由はない。

(2)起業活発化の5つの条件
 では、なぜ日本では起業が少なく、ベンチャー企業の発展が思わしくないのか? 日本の起業率(年間企業設立数/企業総数)は先進国中最低である。起業した人・起業を計画する人の成人人口に占める比率に至っては、先進国・新興国全体の中で最下位である(Global Entrepreneurship Monitor調べ)。日本では、既存の大企業が高い技術力と強い競争力を持ち、新規参入が困難であることが起業・ベンチャー企業の成功を阻んできたが、そうした状況も緩んできている。それなのに、なぜ起業が少ないのか。
 一般に、起業が活発である為には、@規制が厳しくない事、A潤沢な資金を得やすいこと、B経営者(起業者)が豊富であること、Cベンチャー企業をサポートするコンサルタントやベンチャー・ファンドの質・量が十分であること、DIPO(株式公開)市場が整っている事、といった条件があげられる。
 このうち、@は既に90年代以降の規制緩和で整っている。Aの資金も、国内民間部門の巨額の資金余剰を背景に、ベンチャー・ファンドや銀行はベンチャー企業に投融資したくて仕方がない状況である。日本独特の公的金融による創業支援も、ベンチャー企業の強い味方である。Bは日本では確かに障害となっていたが、最近は大学生が起業したり、大企業から若手社員がスピンアウトしたりする例も増えてきている。むしろ起業が増えれば、大企業の優秀な人材等のベンチャー企業への流出も増えるであろう。CのVC、コンサルタントは、質はともかく数だけは既に十分に多い。DのIPO市場は、90年代末からのマザーズなどの新興株式市場の創設により一挙に整備され、既に定着している。
 起業の活発化やベンチャー企業の育成は、日本にとって経済の成長力が下方屈折した90年代からの課題であり、この為に政府や金融機関はあらゆる側面から条件整備を図ってきたのである。このため、今や日本の起業・ベンチャー企業を取り巻く制度環境に、決定的な障害はない。

(3)育ち始めたクラウド・マネー
 筆者は、起業が活発化するには、もう一つあまり指摘されない重要な条件があると考える。それは「プロジェクト情報」の流通である。「貸し手は借り手のことを借り手ほど知らない」という情報の非対称性が大きいと、マネーは効率よく回らない。資金仲介金融機関が間に入る間接金融では、金融機関が調査・審査・モニタリングなどの情報生産機能を果たし、企業のプロジェクト情報を収集する。しかし、ベンチャー企業のファイナンスは、投資家やファンドが直接、資金を投資する直接金融が中心であり、情報生産の担い手がない。結局、資金の出し手の投資家が情報収集に努めるか、取り手のベンチャー企業が積極的に情報発信するしかない。
 シリコンバレーでは、起業家が情報発信する場が日常的にあり、そこに投資家・VC・エンジェルが集うことで、豊富な多様なベンチャー情報が円滑に流れ、情報の非対称性が縮減される。シリコンバレーでは、カフェなどで起業を目指す青年、VC、エンジェルが新ビジネスの話をしているのを見かけるが、これはまさに情報伝達の場である。シリコンバレーとのname valueと集積の成せる業である。
 日本でも一時、渋谷に「ビット・バレー」と称するベンチャー企業の集積が見られたが、シリコンバレーに追いつくことはおろか、日本での総本尊の地位も確立できずに現在に至っている。
 そうした中で、ベンチャー企業のプロジェクトの魅力を広範に広げる仕組みが台頭している。「クラウド・ファンディング」である。クラウド・ファンディングの最大の強みは、「情報先にありき」である点である。クラウド・ファンディングでは、まず起業者・ベンチャー企業・中小企業が誇る技術、アイデアや強みなどがインターネット上で公開される。そして、それらの情報に接した小口投資家やファンドなどが、企業の成長性や事業の社会的意義に賛同して資金を供出する。両者をつなぐ鍵は「情報」しかない。
 情報がクラウド・ファンディングの肝なのであれば、情報の質・量がクラウド・ファンディングの命運を握る。仲介サイトの管理者、あるいはその外部監督者が、クラウド・ファンディングを通じて流れる情報の質を吟味しないと、そのサイトは信頼を失う。まさに粉飾決算が、銀行取引上の障害となるのと同じである。あるいは証券取引所において上場基準、諸規制や取引監視が重要なのと同様である。ベンチャー・ファイナンスを拡充する為には、クラウド・ファンディングを巡る情報の信頼性を担保する仕組みが不可欠である。政府は、育ち始めたクラウド・ファンディングの信頼性を維持する為の制度インフラの整備に力を注ぐ必要がある。「日本企業をシリコンバレーに誘致する」などといった暇はないはずである。 (了)


★2015年1月13日『逆オイルショック;悪影響はロシアなど一部産油国のみ、
             日欧は憂うる必要なし』

「逆オイルショック」という言葉をよく聞くが、どうも違和感がある。「逆オイルショック」とは、言うまでもなく1970年代の石油価格高騰による石油危機のアナロジーである。ショックと言う語は通常ネガティブな意味で用いるのであるから、どうやら昨今の原油価格下落の悪影響を心配する声が高まっていることになる。原油価格低下は、産油国、とくにロシア等にとっては大打撃だが、資源輸入国にとって、さらには世界経済全体にとっては福音となるはずだが・・・。

(1)産油国と資源輸入国の非対称性
 原油価格が低下すると、産油国は石油輸出金額が減少し、国際収支面では経常収支が悪化し、輸出業者の生産者余剰の減少を通じてその国の総余剰(社会的余剰)の減少、すなわちGDPの減少につながる。いずれの側面から見ても、産油国にとって原油価格低下は好ましくない。
 逆に石油等のエネルギー資源を輸入する国にとっては、原油価格低下は恵みの雨である。経常収支改善要因となり、消費者余剰の拡大を通じてその国の総余剰(社会的余剰)の増加につながる。すなわち、輸出価格を輸入価格で除した「交易条件」が改善し、これは国民所得・GDPの増加要因となる。どの側面から見ても非産油国にとっては、原油価格低下は好ましい。
 石油価格下落の影響は、産油国と輸入国で正反対となるという、このシンプルな構図を忘れてはならない。「世界中にショックが及ぶ」かのような見方はおかしい。

(2)産出コストの高い産油国にダメージ
 原油価格下落の悪影響は、産油国(石油等輸出国)すべてが被るが、その程度は国によって大きく異なる。
 例えば、中東産油国は、原油価格低下により輸出が減るものの、石油を産出し輸出し続けることにより引き続き巨額の利益を享受できる。現状の原油価格(1/12、NY原油先物WTI)の46ドル/バレルは、2014年6月半ばの108ドル/バレルの半分以下だが、中東諸国の採掘コストの10?20 ドル/バレルよりははるかに高い。また、中東産油国は、長年に亘る石油収入の蓄積に基づく巨額の対外資産を有しており、少々の輸出金額減少、財政収入の減少が生じても信用危機には発展し難い。
 他方で、ロシア等の採掘コストがより高い産油国では、石油採掘に係る採算が悪化し、石油産業の存立が揺らぐ可能性がある。ロシアの場合は、昨年央までの原油価格高を背景に過剰な外国資金が流入し、国内経済にもバブルの要素があった。ロシアは、通貨バスケットにリンクする管理為替相場制を敷く中で割高のルーブル為替レートを無理して維持してきたが、原油安と米国マネーの縮小などによりルーブル為替レートの維持ができなくなり、2014年11月10日には変動相場制に移行した。その後、ルーブル為替レートは急速に低下している。こうした中で、ロシアの信用危機が深刻化している。ロシアの信用危機は、ウクライナ問題に端を発する経済政策の影響と相まって、深刻である。
 また、米国のシェールオイル(ガス)産出業者も、大きなダメージを受けるであろう。単に利益が圧縮されるだけでなく、操業停止になる可能性すらある。米国産シェールオイルの採掘コストは約50ドル/バレルと言われており、既に採算割れである。そもそも、中東諸国が2014年11月のOPEC(石油輸出国機構)総会で減産を見送ったのは、石油価格を下げてシェールオイル・ガスを操業停止に追い込むことが狙いであるとの見方が一般的である。まさに「肉を切らせて骨を断つ」豪胆な戦略である。

(3)ユーロ圏にとってデフレは福音?
 原油価格下落は、資源輸入国であるユーロ圏、日本にも悪影響を及ぼすとの見方がある。デフレに突入する、あるいは物価上昇率目標が達成できない、といったことが理由らしい。どうも解せない。
 ユーロ圏は、確かにデフレに入りつつある。しかし、それがそれほど深刻なことであろうか? デフレの明示的なマイナス効果は、名目金利がマイナスとならないため実質金利が高止まることぐらいである。しかし、ユーロ圏のPIIGS諸国は、信用不安をかかえ、国債金利はリスクプレミアムを上乗せして高めである。もしデフレが進行して、最上級(AAA)のドイツ長期国債の利回りが下限のゼロ%に近づき下げ止まった時にも、PIIGS諸国の国債の金利はさらに下がり続けるであろう。すなわち、ユーロ圏でのデフレは、リスクプレミアムの縮小をもたらす。
 ユーロ圏にとってのデフレは、最優等国のドイツ等にとっては確かに日本の17年に亘るデフレの悪夢を想起させるかもしれないが、ユーロ圏の大多数の中等国、劣等国にとっては好都合であろう。さらに、信用不安を引きずるユーロ圏全体にとっても、むしろ好ましい。
 なお、ギリシャがユーロから離脱する“Grexit(グレグジット)”の動きがあり、これをもって「ユーロ、あるいはEU統合が崩壊過程にある」かのごとく語られることがしばしばある。これはどうした論理なのであろうか?もともとユーロ(通貨統合)参加には、高いハードルがあり、ギリシャやイタリアは数値をごまかしてぎりぎりでユーロに参加した。その背景に、政治的配慮、歴史的な位置づけの観点があったことは否めない。経済面だけからすれば、ギリシャがユーロ圏に入っていることがおかしく、ギリシャやキプロスがユーロを離脱するのが、ギリシャ・キプロス以外の欧州にとって好ましい。欧州はしたたかである。ギーギーと軋み音を立てながら、寄り道しながら、100年の計で統合をゆっくりと進めている。そうした欧州のしつこさを頭に置かねば、世界情勢を見誤る。

(4)何も2%も物価が上がる必要はない
 日本が原油価格下落をリスクと考えるのは、さらに奇異である。日本は、紛れもない資源輸入国である。2011年の東日本大震災以降は、原子力発電を利用できず、高い石油・ガスを火力発電用に輸入せざるを得なかった為、貿易収支は4年連続で赤字となった。今般の原油価格低下により、過去6年間の重しが外れる。貿易収支は黒字に戻る可能性があり、交易条件改善による所得拡大も期待できる。
 原油価格低下により物価上昇率は低下した。デフレに逆戻りする可能性は低いが、日本銀行が掲げた消費者物価上昇率「2%」の目標の達成は、絶望的である。しかし、それがなぜ悪いのか。確かに、実質金利高止まり効果を考えるとデフレより物価上昇率がわずかに+であるのが好ましい。しかし、何も2%も物価が上昇する必要は無い。2014年は、物価が3.5%も上昇したため実質所得が大きく目減りし、これが家計を圧迫した。物価は、本来は0%を少し上回る程度でよく、糊代を考えても前年比1%程度の上昇率でよい。日銀は物価上昇率目標を引き下げるべきである。
 日本にとって、原油価格低下を憂うる理由は見当たらない。我々にとって重要なのは、「物価上昇率目標の2%」の達成ではなく、所得(GDP)の向上である。そうであれば、「原油安、万歳!」である。 (了)


★2015年1月1日元旦『日本経済は無意味なアベノミクス継続により低迷へ』
 あけましておめでとうございます。新年早々、辛気臭い話で恐縮ながら、新年の日本経済には暗雲が垂れ込める。昨年末の総選挙は、真に空しかった。そもそも選挙をする意味が分からないからだけでなく、争点が的外れであったからであろう。与党(自公)はアベノミクスの成果を誇り、民主党・維新の党など野党は「アベノミクスは失敗だ」と主張し、これが経済面での最大の争点となった。しかし筆者のように、元々アベノミクスが的外れと考える者にとっては、この争点はどうでもよい。効果が乏しいのだから、成果も弊害もない。
 むしろ選挙に勝った安倍政権が、自信をもってこの空虚なアベノミクスを推し進めることが問題である。本当に必要な構造改革が進まず、日本経済が長期的に衰退する原因となるからである。

(1)量的金融緩和しか実施できていない
 では、アベノミクスのどこが的外れなのか。アベノミクスは3本の矢と言いながら、結局は1本目の量的金融緩和しか実施されていない。財政出動は最初に補正予算で発動したきり息切れ、成長戦略の名を借りた規制緩和も一向に実行に移されない。
 頼みの綱の金融政策についても、評価が分かれる。当事者の日銀や安倍政権に近いリフレ派は、マネタリーベースの拡大が物価上昇や名目GDPの増加をもたらすと見る。これに対し、筆者を始めるとする反リフレ派は、日銀が国債等の証券を大量に購入しても、銀行の日銀預け金が増加するだけで、これが銀行貸出等の増加につながらない限りマネーストックは増えず、物価や成長率に影響を及ぼすはずがないと考える。もしそうなら、アベノミクスは全く実態を伴わない空っぽとなる。

(2)まず真摯な財政再建目標の再設定を
 では、本当に必要な政策・改革は何か。
 まず第1は、財政再建である。安倍首相は、国際会議では財政再建に奮闘していると述べるが、実際にはほとんど顧みない。
 消費税率の10%への引き上げ先送りに際しても、代替財源を捜した形跡もない。自民党幹部の多くは、「自然増収が予想以上に上がればそれは自由に使ってよい」と考えているようであるが、これはおかしい。財政再建を本当に進めたいのであれば、予想以上の税収増があれば、それは真っ先に国債の償還に充てるべきである。
 自民党の衆議院・政権公約(11月25日)には、「2020年度までに国・地方の基礎的財政収支(PB)を黒字にする」という従来からの目標を再度掲げた。政府の以前の試算では、消費税率を2015年10月に予定通り10%に引き上げても、2020年度に11兆円のPB赤字が残る計算であった(名目成長率年率3%の最も楽観的なシナリオの場合)。ただでさえ目標達成が危ぶまれる中で、命綱の消費税増税を先延ばししたのである。消費税増税の先送りで、2015年度に1.5兆円、平年度ベースで4兆円(GDP比0.8%)の税収が失われ、その分目標はさらに遠のく。首相は「目標を達成する」と威勢が良いが、勝算は乏しい。
 そもそも「2020年度までにPBを黒字化」というのは、政府債務が発散しない為の最低条件である。この最低限の目標すら達成できないとわかった時には、国債金利がどの程度跳ね上がるか察しがつかない。それぐらい海外は、日本の財政を厳しく見ている。
 また、2015年度予算には、法人税の実効税率の20%台への引き下げ、子育て負担の軽減策、保育体制の強化、医療・介護の充実策等、減税と歳出増が少なからず盛り込まれている。いずれも国民からは歓迎されるが、財政赤字拡大要因となることは間違いない。
 「法人税減税は、景気刺激と税収増を通じて、財政収支を改善させる」という『上げ潮戦略』なる珍説がまた流布されているが、これは簡単な計算をすればすぐにウソであることが分かる。1980年代に、ラッファー教授の珍説を信じて大減税をしてアメリカの財政を一挙に悪化させたレーガン大統領と同じ轍を踏んではならない。これらの減税・歳出増の財源はこれから探す」とのことである。極めて無責任である。
 消費増税を先送りした今、真っ先にやるべきは、謙虚に財政再建目標を下方修正し、代替財源を捻り出すことである。政権公約では、「来夏までに新たな財政再建目標を示す」としているが、これもおかしい。真に財政再建に真面目に取り組む気があるのなら、今回の消費税率引き上げの延期の「前」に、新たな謙虚な修正目標を示すべきであった。
 辛気臭いが、もう一度財政再建への真剣な姿勢を見せねばならない。

(3)事業転換・国内回帰促進により供給面の再構築を
 
第2は、産業の再構築である。円安になっても貿易収支が黒字に戻らないのは、2012年までの80円/$の円高水準で製造業などが海外に生産をシフトしたからである。
 安倍政権発足直後の景気対策による若干の公共投資増により、すぐに建設業などでボトルネックが生じる一方で、潜在成長率は1%以下に低下しているという。これは経済の供給面、すなわち産業構造にミスマッチが生じている証拠であり、これを根本から直すしかない。潜在需要を掘り起こすような産業にシフトすることにより、潜在成長率を高めるしか方法は無い。そうした観点では、従来から主張している企業の「事業転換」が重要であり、最近これを政策面からサポートする動きが出てきているのは好ましい。また過去2年程で乱立した地域ファンド・再生ファンドが真の力を発揮することにも期待したい。
 また、120円/$近くの円安になった現在、製造業などの日本回帰や外国企業の日本進出増加が期待される。こうした為替環境の恩恵を、日本の産業基盤強化につなげるべく政策面でのサポートが必要である。そうすれば、地方も自ずと創生に向かう

(4)痛みを伴う社会保障支出削減に理解を
 第3は、真に信頼できる社会保障制度の構築である。安倍政権は、この2年間、社会保障に全く手を付けていない。医療・年金・介護とも待ったなしの厳しい財政状況にあるにもかかわらず、これを放置する鈍感力はたいしたものである。
 先述の財政再建には、聖域の社会保障費にメスを入れることが不可欠である。国民に不評の年金のマクロ経済スライドや、高所得者の医療保険料負担の引き上げ等を清々と実施して欲しい。社会保障関係では、支出増は貧困への対応などの緊急を要する分野以外は認めるべきではない。消費税率引き上げ延期に伴って停止するはずであった低所得者が支払う介護保険料の軽減措置も2015年度から拡大する方針のようだが、これなど言語道断である。「ポピュリストも極まれり」である。野党は、信念を大切にして、こうしたばらまき財政は批判すべきである。
 *****
 アベノミクスが続く限り、上記の本当に重要な構造改革は後回しとなる。その帰結は経済衰退である。安倍政権の勝利は、長期的な日本経済の停滞であり、長期的な株価低迷である。何とも暗い正月である。


★2014年11月1
日『ゼロ金利の壁:なおも格闘する日銀・ECBと、見限ったFRBの差

 世界の金融政策が前人未到の領域を模索しつつ、その方向は大きく乖離してきた。日本銀行と欧州のECBは、ゼロ金利の壁を超えて更なる金融緩和を模索する中で、米国FRBは10月29日に量的金融緩和(QE)を終了し来年にもゼロ金利から脱する構えである。金融緩和を加速するECBと日銀も、よく見るとその考え方と緩和手法が全く正反対である。
 日米欧の金融政策は三者三様であり、興味深い。果たして三者の誰が正解なのであろうか?

(1)ECB;マイナス金利
 ユーロ圏のECB(欧州中央銀行)は、2014年6月に政策金利の下限を形成する準備預金の金利(預金ファシリティー金利)を0%から▲0.1%に引き下げ、マイナス金利政策に踏み切った。従来から国債金利などでマイナス金利が生じていたが、下限金利とは言え政策金利をマイナスにしたのは前代未聞である。
 準備預金にペナルティとも言える手数料を取ることにより、ポートフォリオ・リバランス効果により金融機関が準備預金の滞留資金を金利の付く貸出などの資産に置き換えマネーストックの拡大する効果を期待している。
 その背景には、ゼロ金利に至り、金利政策が機能しなくなったことがある(詳細は2014年6月23日付け本コラム参照)。興味深いのは、日本銀行が準備預金に付利してまで準備預金の拡大を図っているのに対し、ECBは準備預金金利をマイナスにして準備預金、ひいてはマネタリーベースを減らそうとしていることである。昨今、日本では「ECBもいよいよ『量的金融緩和』に踏み出す」との観測が出ているが、ECBはマネタリーベースを拡大しようとは露程も思っていないのではなかろうか。日銀の政策とは正反対である。
 さて、ECBのマイナス金利の効果も今のところ判然としない。近代的な銀行は、貸出による収益とリスクとのバランスにより貸出採算をはじき、採算が採れない限り貸出は行わない。そもそも、企業の資金需要が増えなければダメである。いくら中央銀行が準備預金を通じてプレッシャーをかけても、貸出に反応するはずがない(詳細は拙著[2006]『中小企業金融のマクロ分析』)。

(2)日本銀行;バズーカ量的緩和MarkU
 日本銀行は、10月31日の金融政策決定会合にて、量的・質的金融緩和の拡大を決定した。マネタリーベースの年間増加額を80兆円(従来比+10〜20兆円)に、国債保有残高の年間増加額を80兆円(同+30兆円)に拡大し、かつ購入する国債の残存期間の上限を7年から10年に伸ばす。またETF(上場株式投資信託)とREIT(不動産投資信託)の年間購入額をそれぞれこれまでの3倍に拡大する。今回は「3」にこだわったようである。
 日銀は、2013年4月から異次元緩和を着実に実行し、日銀の国債保有残高は9月末に252兆円と、目標の270兆円に迫っていた。しかし直近では景気が停滞色を色濃くし、物価上昇率も低下し、株価が軟化し、そして米国FRBが量的緩和を終了したことに対応し、量的緩和のバージョンアップに踏み切ったのである。
 筆者は何度も述べているように、量的緩和は、金融機関の資産が国債等の証券から準備預金に振り代わるだけであり、マネーストック、さらには物価やGDPに影響を及ぼすはずがないと考える。とくに、準備預金に付利するようになり、マネタリーベースは増えやすくなったが、金融機関のポートフォリオ・リバランス効果は益々弱まっている。しかし、黒田総裁ほかの日銀政策委員は、マネタリーベースを増やすことが物価やGDPを刺激すると信じているようである。
 驚いたのは市場が大きく反応したことである。10月31日の日経平均株価は755円上昇し、円為替レートも112円/ドルの約7年ぶりの円安水準に至った。マネタリーベースの拡大が、金融機関の外貨資産保有を促すルートはありうるので、円安がもたらされるのはまだ理解できる。日銀の国債の買い増しにより、長期金利が下がることも理解できる。しかし実体経済を刺激するルートが見いだせないなかで、なぜ株価がこうも上がるのか。もちろんGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の日本株式と外貨証券の買い増し方針が発表されたことの影響もあろうが、株価上昇の何割かは今回の日銀の量的金融緩和MarkUによるものであろう。しかし、そのロジックがわからない。今回の株式市場の反応は、パブロフの犬、あるいはケインズの美人投票論によってしか説明できず、そうであれば過剰な期待によるバブルということになる。バブルは必ず崩れるため、今後数ヵ月は株価のユーフォリア剥落に警戒する必要がある。

(3)FRB;量的緩和に見切り
 米国FRB(連邦準備理事会)は、10月29日のFOMC(連邦公開市場委員会)において、「10月いっぱいでQE3による資産購入を終了する」ことを決定した。これはイエレン議長が従来から宣言していた規定路線であり、市場は大きな反応はしなかった。FOMC前後に株価が低下したが、これはむしろ来年にも予想される「ゼロ金利解除」の可能性が高まったことに反応したもののようである。
 FRBは、バーナンキ前議長の時代に、3段階の量的金融緩和を行ったが、これは長期金利上昇の防止と、金融機関への流動性供給を通じたプルーデンス政策の観点をより強く持っていたのではないだろうか。黒田日銀の、マネーストック増加を通じて物価やGDPを刺激することを主目的とした量的緩和とは、そもそも目的が違うように思う。故に、FRBはあっさりと量的緩和を終了したのであろう。
 他方で、イエレン議長は、ゼロ金利の解除、すなわち政策金利の引き上げには慎重であろう。これは妥当な考え方である。量的金融緩和のマネーストックへの影響経路は疑わしいが、金利の影響は厳然と残っているからである。
***
 こうして日米欧の金融政策を比べると、量的金融緩和がマネーストックを通じて実体経済に影響を及ぼすと純粋に考えているのは、どうやら日銀だけのようである。そして、日本の市場関係者は、過剰に量的金融緩和策そのものに反応する。黒田日銀総裁のプレゼンテーションの巧さによって、「量的緩和⇒株価上昇・円安」との思考経路が刷り込まれた結果であろう。
 ロジックはともかく、結果的に株価上昇と円安がもたらされるのなら必ずしも悪くはなく、黒田総裁の真の狙いも実はそこにあるかもしれない。しかし、影響経路が判然としない中での期待先行の市場の反応は、実体経済がついてこなければいずれ裏切られる。再びデフレ懸念が生じたり、景気が悪化したりする際にはこれまで量的金融緩和によって作られてきた期待が一挙に剥落する懸念がある。
 日本の市場関係者は、日銀がFRBとはもちろん、ECBとも異なる考え方で金融調節を行っていることを認識し、日銀の政策が本来意味を持つものかどうかを改めて考え直して欲しい。固定観念と期待だけに踊らされた結果の株価上昇や円安は、その後のしっぺ返しがかえって怖い。(了)

★2014年10月3日、【日本経済展望】
『正念場を迎える景気/安倍首相のジレンマと日銀の変節の下、元気のない日本経済へ』

 私は、普段はあまり景気の診断や展望は行わないが、それを行わなければいけない局面に来ているように思う。景気も株価も、上か下かどちらに向かうのか戸惑っている。そして景気動向が、来るべき財政・金融政策の判断に大きく影響する。久しぶりに、景気と市場、そして財政・金融政策を展望してみた。

(1)分岐点に至る日本の景気
 2014年4月の消費税率の3%の引き上げにより、1-3月に個人消費や住宅投資の駆け込みが生じ、4-6月が反動減で大幅に落ち込むことは既定路線であった。むしろ7-9月期の経済がどの程度正常に戻るか、例えば2013年10-12月に比べて14年7-9月期のGDP等の水準がどの程度となるかが注目される。
 2014年7-9月期の実質GDPが、2013年10-12月期に比べて平常時の成長率である年率1.5%拡大する為には、2014年7-9月期の実質GDPは4-6月期比1.5%、年率で6.2%も伸びなければいけない計算となる。年率1.5%の経済成長率は、2013暦年の実質GDPの前年比増加率であり、おそらく日本経済の潜在成長率もこの程度であると考えられる。
 昨今の鉱工業生産や個人消費の停滞をみると、7-9月期に年率で6%もの高成長を遂げているとはとても思えない。消費税率の3%引き上げによる攪乱を除いて、経済成長が潜在成長率を下回るということは、雇用や設備の過剰感が高まり、企業の在庫率が上がり利益が出にくい状況となることを意味し、経済停滞感、ひいては不況感が出ることになる。そうなれば、2013年からのアベノミクス・バブルも剥げることになり、株価にも悪影響が出るであろう。


(2)消費税率10%への引き上げ;ジレンマの安倍首相のの苦渋の決断
 7-9月期の経済成長率が、まず政策面で影響を及ぼすのは、消費税の後半の引き上げシナリオへの影響である。周知のとおり、消費税率を5%から8%に、そして2015年10月には8%から10%に引き上げることは、民主党政権下で自民党(当時の総裁は谷垣現幹事長)の合意を得て、既に法律で決まっている。ただし、10%への引き上げの判断は、2014年7-9月のGDPを見て決めることになっている。首相は、本年末までに決定すると公言している。11月17日発表の7-9月期GDPの1次速報、及び12月8日発表の2次速報を見て、12月中旬の平成27年度税制改正大綱の閣議決定までに滑り込みで間に合わすつもりなのであろう。
 安倍首相は、ジレンマに陥っていると推察される。景気の腰が盤石ではなく、前年比2%(除く消費税率上げ)の日本銀行の目標達成も難しい状況をみて、本音では消費税率の10%への引き上げは見送りたいのではないか。他方で、財務省の弁を借りるまでもなく、政府債務の増加には歯止めがかからず、財政再建は国際公約にもなっている。なにより、すでに法的には決まっている消費税率上げを見送る為には、「景気は大変悪い」「デフレ脱却も不明確」と宣言せねばならず、これは過去2年のアベノミクスの成果を全否定することになる。
 筆者は、安倍首相はアベノミクスの成果を主張し続けることを優先し、消費税率を予定通り2015年10月から10%に引き上げることになると予想する。その際には、責任を決定当時の民主党政権と、合意を結んだ谷垣幹事長に押し付けることになるではないか。
 筆者は、消費税率は予定通り10%に引き上げ、その後も毎年1%ずつ程度、15%程度まで引き上げるべきと考える。ゆえに上記の予想通り、安倍首相が税率引き上げを決断すればそれは歓迎する。しかし、市場では10%への引き上げは、賛成・反対が拮抗しているため、景気が思わしくない中で実際に引き上げがなされれば、株価は下落するであろう。ただし、その決断が景気自体に大きなダメージを与えるとは考えにくく、財政再建路線を評価して、長期金利には下げ圧力がかかるであろう。

(3)日銀の異常な政策の出口への道筋
 黒田東彦総裁の下での新しい日銀の異次元緩和が2013年4月に公表・実施されてから1年半が経過した。従来から述べている通り、筆者は異次元であろうがなかろうが、量的金融緩和がマネーストックの増加、ひいては景気・物価に影響を及ぼすはずがないと考えているので、量的金融緩和が出口に向かっても、実体経済への悪影響もないと考える。日銀の国債大量購入により、国債から付利された日銀預け金に振り替わっていた金融機関の資産が、再び国債に振り替わるだけのことだからである。
 しかし、驚きの量的緩和と明確なインフレ率ターゲットにより、デフレ脱却と経済成長に対する「1回限りの期待」が形成されたようであり、株価上昇と円安がもたらされたことも事実である。その期待が量的緩和の規模にリンクしているのであれば、出口戦略はまた「1回限りの期待剥落」をもたらし、株価は下落し円高にもなるかもしれない。
 しかし、何れは出口に向かわねばならない。日銀幹部は「出口の話はしない」と言っているが、彼らが考えていないはずがない。異次元の政策なのであれば、その出口を予め想定するのは当然である。日銀幹部は、FRBのバーナンキ前議長が早めにQEの出口を口にしたことを失敗と捉えているようだが、その後のイエレン議長のQE終了までの歩みにおいては、慎重にテーパリングを意識したこともあり、米国経済はもとより金融市場にも顕著なダメージはなかった。QEは今月末にも終了するが、この間、株価は上昇している。米国ではQEは、既に元々効果がないものとの認識が広がったようである。
 筆者は、消費税率の10%への引き上げの決断がなされれば、日銀は来春あたりから市場動向をみつつ量的金融緩和の出口を示し始めるのではないかと思う。税率上げは長期金利低下要因である。日銀の量的金融緩和の真の狙いは、国債の大量購入による国債価格のPKO(価格維持措置)、すなわち長期金利上昇防止であると考えられるため、財政再建がきちんとするのであれば量的金融緩和の使命も終わる。
 また、日銀は2015年春時点の消費者物価の前年比上昇率を2%とすることを目標に掲げるが、物価が実際に上がり始めると消費者などから悲鳴が高まっている。とくに、円安による輸入物価上昇を受け、輸入品扱い業者の打撃が喧伝される。現状の消費税率上げを除く消費者物価(除く生鮮食品)上昇率は1.4%程度とみられるが、なにも2%にこだわらず、この程度の物価上昇で十分なのではないかとの見方が広がってきている。

(4)2015年の景気、金融市場の展望
 これらの政策を前提に経済状況を展望しよう。景気は現在、明らかに頭打ち、あるいは分岐点にあり正念場である。2012年11月を谷(暫定)とする景気拡大も、現在約2年に至る。過去の景気循環からすると、あと1年程度は拡大が続きそうだが、その前の暫定的な景気後退が軽微、かつ短期であった為、これを除き2009年3月を谷とする景気拡大が、67か月続いていると見ることも可能である。日銀短観の業況判断DIや、景気動向指数のCI一致指数の推移をみると、2009年春以来、景気拡大が続いているとの見方の方が説得的に見える。そうであれば、現在の景気拡大は史上最長に近く、いつ山を付け後退に陥ってもおかしくない。
 需要面では、個人消費は、アベノミクスへの期待先行で上昇した株価が頭打ちとなる中で、物価上昇による実質可処分所得の低下に伴いじり貧となるのではないか。今後増加が期待されるのは、円安を追い風とする輸出と設備投資である。しかし、過去2年間の急速な円安にもかかわらず輸出に動意が見られないところをみると、それ以前の2008-2012年の超円高の水準を受け、日本産業(生産)が簡単には戻らないほど空洞化していることが伺える。とくに2010-12年には、それまで国内に留まっていた中小企業、部品産業も多くが生産の海外シフトに踏み切ったことが、日本の産業・貿易構造を「貿易赤字構造」に変えた可能性がある。2016年頃まで円安が続けばまた変化もあろうが、当分は現在の円安が輸出や輸出関連産業の設備投資を刺激し経済成長に寄与することは期待しにくい。
 経済成長率(2013年度2.3%)は、2014年度が消費税増税の増税により0.5%程度に低下し、2015年度は幾分持ち直したとしても1.5%程度ではないかと予測する。アベノミクスで「景気が良くなった」というイメージは広がったが、実は相変わらずの低成長である。自ずと、物価上昇率も1%程度で推移し、雇用の改善も終わるであろう。景気循環面では、当面はもたもたした景気拡大が続くであろうが、2015年に入ると、いつ山をつけてもおかしくない。
 その中で、株価も停滞気味となろう。まず年末に安倍首相が消費税率の10%への引き上げを確認した時点で、株価は少し下げるであろう。また、徐々に景気停滞・物価低迷の指標が発表されるにつて、株価は頭の重い状況になろう。長期金利は低位に安定し、金融市場は活発でもないが大きな混乱もないというつまらない状況になると予想する。
 他方、為替レートは、これ以上の円安は進まないが、さりとて100円/ドルを超える円高水準にもいかないであろう。もちろん焦点は米国金利である。FRBは、2015年半ばあたりにゼロ金利を脱するとみられるが、それは既に織り込みずみである。米国で物価上昇率が3%近くとなったり、失業率が5%を下回ったりしない限り、1ドル=110円を大きく超えて円安・ドル高が進むこともなかろう。すなわち、円レートも、1ドル=100円〜110円の間を往きつ戻りつする、これまたドラマチックでない状況となろう。(了)



★2014年9月3日『中小企業金融;長年の構造問題に改善の兆し』

(1)中小企業金融に芽生える変化
 中小企業の資金調達環境に、好ましい構造変化がみられる。バブル崩壊後、長期にわたり中小企業は資金繰り難、借り入れ難に苦しんできた。この為、中小企業金融をいかに活発化するかが、我が国の金融システムの大きな課題となってきた。
 片や、銀行や信用金庫・信用組合(以下銀行等)は、日銀の量的金融緩和の下で巨額の手元資金を得つつも、資金運用先に窮し、何れの業態でも預貸率は低下傾向にある。なぜ銀行等の貸出が伸びないかについては諸説あるが、筆者は利鞘縮小による貸出採算悪化が最大の要因と考えている(拙著『中小企業金融のマクロ経済分析』中央経済社、2006年参照)。
 こうした中、政府は中小企業向け貸出の拡大、あるいは維持に躍起になってきた。とくにリーマンショック後は節操のない貸出刺激策をばらまいてきた。2008年10月には、信用保証協会の100%保証の信用保証を復活させ、亀井静香元金融相のもとで2009年12月には金融機関に返済猶予を求める中小企業金融円滑化法が導入された。また政府系の日本政策金融公庫はもとより、民営化途上の日本政策投資銀行にも政策金融の役割を担わせてきた。
 筆者は、従来からこうした全額信用保証や中小企業金融円滑化法に反対論を唱えてきた(「金融円滑化法の終了とリレバンの幻想」『金融ジャーナル』2012年12月号、「中小企業金融円滑化法に潜む危険性」『金融財政事情』2009年11月9日号など)。こうしたモラルハザードを引き起こす過保護行政は、リーマンショック後の金融・経済の正常化を受け、さすがに縮小過程にある。2013年3月にはようやく中小企業金融円滑化法が終了し、信用保証も100%保証の適用対象を縮小して本来の80%の部分保証に戻す過程にある。こうした中小企業金融政策の正常化は、喜ぶべきである。
 中小企業向け信用供与はなおも低迷を続けており、いわば膠着状態にある。しかしよく見ると、長年の構造問題に改善の兆しがみられる。

(2)中小企業の転廃業促す為の金融支援
 第1の改善の動きは、銀行が、中小企業の転廃業を促す金融に力を入れ始めた事である。銀行等の企業向け貸出の採算悪化の背景には、オーバーバンキング(過剰融資)があり、その背景には経営不振の企業が多すぎることがある。そうした不振企業が、優遇政策や銀行等の継続的融資によって守られ、いつまでも淘汰されずゾンビ企業として存在することが、日本経済の生産性向上を阻むと同時に、日本の金融構造の弱点ともなってきた。
 こういう文脈からは、不振の中小企業は救済するのではなく、市場から退出してもらわねばならない。(もちろん、優良な中小企業はどしどし拡張してほしいが・・・)
 こうした考え方は、研究者の間では主流であったが、政策当事者や金融実務家、あるいは政治家からはなかなか理解が得られなかった。そうした中で、金融機関自体が不振企業の淘汰を促す方向に舵を切り始めた事の意味は深い。
 大手銀行や地方銀行が、政府系ファンドの地域経済活性化支援機構(旧企業再生支援機構)を用いて、中堅・中小企業の転廃業を支援し始めた。具体的には、債務超過でない業績低迷企業に対し、元本返済を一定期間猶予し、転業の為の設備投資資金や廃業して資産譲渡する際の資金を融資するといったスキームである。同時に地域支援機構も新株予約権付社債(WB)・転換社債(CB)を引き受ける。
 政府は、中小企業金融円滑化法を2013年3月で終了し、その後、1年あまりを経てようやく転廃業支援に舵を切り、その目的の為に地域経済活性化支援機構を用いる方針を2014年3月に表明していた。

(3)地域ファンド・成長分野ファンドの林立
 第1の改善の動きは、中小企業の資本性資金調達の拡大の土壌が形成されてきたことである。地域ファンド、および成長分野ファンドの林立である。
 例えば、日本政策投資銀行が東京都民銀行と再生ファンドのリサ・パートナーズと共同で、首都圏の中堅・中小企業に投資する30億円程度の規模の「とうきょう東京活性化基金」を設立することを発表した。動産担保融資(ABL)により運転資金を供給するとともに、軌道に乗った企業に優先株や劣後ローンにより成長資金を供給し、戦略的なM&Aも支援する。
 また、地方銀行が連携してファンドを設立し、医療・介護などの成長分野に出資したり、中小企業の再生・M&Aを支援したりする動きも目立つ。
 こうした地域ファンド・成長分野ファンドは、従来は再生ファンドが中心となっていたが、より成長を志向したファンドが増えている。またクラウドファンディングも件数は増加しており、その効果も早晩バカにならないものとなろう。
 前述のとおり、銀行等の中小企業向け融資は、貸出採算が改善しない限り拡大しない。一方で、日本の中小企業は従来から運転資金を銀行等からの借入のローリング(半永久的な借り換え)で賄う傾向があり、これは中小企業の資本性借入れ(擬似エクイティ融資)として問題視されてきた。銀行等の融資は、満期には完全に返済されることを想定しており、恒常的に必要な資金は、本来は株式で調達する(株主からの出資で賄う)べきである。すなわち中小企業金融の問題の根は、借入が困難なことよりも過小資本にある。
 中小企業が、擬似エクイティ融資を資本(株式調達)に切り替えるには、出資者が必要である。ベンチャー企業であればベンチャー・ファンドが担い手となろうが、既存の中小企業の場合、オーナーやその親戚くらいしか出資者は見当たらないだろう。そうした時、潤沢な資金を有する地方銀行などが地域ファンドに資金を提供し、これが中小企業に出資する構造を強めれば、中小企業金融の構造は一挙に改善する。地域ファンドの林立は、大変重要な意義を持つ。
 ただし、現実には地域ファンドの利用は十分でない。そこにはいくつか技術的な問題がある。例えば、中小基盤機構が出資したファンドでは、各地域の中小企業再生支援協議会との連携が必要であり、その際には債権者の全会一致が前提である。また、ファンドを利用することが、企業の危機を意味するとして悪評判につながる懸念を中小企業自体が持つケースも多いようだ。ファンド利用の要件を緩和し、ファンド利用は決して恥ずべきものでは無いという考え方を浸透させていかねばならない。

(4)今後の中小企業金融
 大企業の資金需要は増したが、中小企業向け貸出には動意は見られない。中小企業向け融資は、中小企業の収益力が顕著に改善し、ゼロ金利が解消し、銀行等の貸出採算が明らかにプラスにならない限り望めない。またその為には、供給過剰業種や事業の成長性が低迷している企業が、自ら進んで転廃業することが必要である。そうした状況が改善しない限り、いくら日銀がマネタリーベースを供給しても、政府が銀行等に融資を迫っても、一向に融資は伸びないであろう。
 むしろ今後は、中小企業の資金調達の増加分は、負債(借入れ)ではなく、資本(株式発行)でなされるべきと考えねばない。その為には、林立し始めた地域ファンド、クラウドファンディングをさらに拡充し、多様なものにする必要がある。金融機関も、融資からファンドへの出資に、中小企業金融ビジネスの中心を変える必要がある。そうしたファンドからの資金供給を見込めない企業は、残念ながら市場から撤退することになろう。
 中小企業金融の構造には改善の兆しが見えるが、その改善の過程の試練も小さくない。 (了)


★2014年6月23日『ECBマイナス金利導入の本当の意味/量的緩和期待の消滅』

 ECB(欧州中央銀行)は6月5日、民間銀行がECBに預ける準備預金の金利であり、政策金利の下限を意味する預金ファシリティー金利を0%から▲0.1%に引き下げた(短期市場介入リファイナンス金利;0.25%→0.15%)。マイナスの政策金利は、デンマークやスウェーデンで実例があるが、主要な中央銀行では初めてである。

(1)ECB;マイナス金利導入の背景
 マイナス金利となると、ユーロ圏の銀行がECBの準備預金に資金を預けると金利負担が生じる。なぜ、ECBはこのような前人未到の政策に踏み切ったのか。
 ユーロ圏の景気は低迷しており、債務危機の収拾も道半ばであり、消費者物価上昇率も0.5%(前年比、5月)とデフレ一歩手前である。物価上昇率低下、景気低迷、債務問題の深刻化に伴い2008年末から金利を引き下げ、2012年半ばからはリファイナンス金利を0.25%、預金ファシリティー金利をゼロ%と、最低水準にまで引き下げていた。
 インフレ率低下にともなって政策金利を引き下げるのは当然である。さもなくば、実質金利が高止まってしまう。しかし、常識的には金利の下限はゼロであり、デフレに突入すると実質金利はプラスが恒常化し、経済にブレーキをかける。そこで日銀は苦肉の策として、ゼロ金利下での量的金融緩和策を編み出し、欧米に先駆けて2001年から実施した。量的金融緩和策は、リーマンショック後米国、欧州に輸出され、実施された。
 今回、部分的ながらECBがマイナス金利政策に踏み切ったのは、ゼロ金利下での量的金融緩和の効果がおぼつかないとみているからであろう

(2)経済刺激への経路は;ECBの本音?
 「金利をマイナスにできないのか」という伝統的な議論に対する答えは、たいてい「非現実的」「逆効果」というものであろう。例えば、預金金利をマイナスとすると、資金供給者は預金ではなく現金や実物資産で資産を保有するであろう。そうすると、資金仲介機関を通じたマネーフローが弱り、信用創造機能が低下する。結果、信用乗数が低下しマネーストックの減少要因となる。金融緩和の為の マイナス金利は、かえって金融引き締め効果を持つ可能性がある。
 今回のECBのマイナス金利の経済へ影響経路は、上記の一般的な預金金利のマイナス金利とは異なるものが想定されている。中央銀行預け金の金利をマイナスにすることにより、民間銀行が中央銀行に資金を預けることを嫌い、資金を貸出等のリスク資産に振り向け、これが経済を刺激することが期待されている。これは一種の「ポートフォリオ・リバランス効果」である。
 しかし、準備預金の金利をマイナスとしても、民間銀行は貸出ではなく国債等の安全資産保有を増やすだけという見方も多い。民間銀行は、金利コストを払うよりは、低金利ながら安全性の高いドイツ国債等を保有する方がましであると考えるのは当然である。実際マイナス金利策発表後、ユーロ圏の国債利回りが低下している。
 そもそも、貸出が増えるには企業の資金需要が必要である。銀行は、また、0.1%程度の金利コストであれば企業向け貸出のリスクプレミアムに見合わず、銀行はそれだけで貸出のリスクを採ることになるまい。
 ただし、ユーロ建ての準備預金からドル建てや円建ての国債等の安全資産に資金がシフトすれば、ユーロ安が導かれ、この経路での景気刺激効果はありうる。
 ECBは、実は長期金利を引き下げ、ユーロ安を導く為にマイナス金利を導入したのではないか? 「貸出促進」というのはあくまで建前ではないか? との疑惑も生まれる。

(3)ポートフォリオ・リバランス効果を巡る矛盾
 ポートフォリオ・リバランス効果は、本来「量的金融緩和」に期待された効果である。銀行等の中央銀行預け金(準備預金)を中央銀行の国債等の購入増により増やし(量的金融緩和)、そこから溢れ出る形で貸出等の銀行の与信が増えることを期待するものである。民間銀行は、いくらゼロ・コストとはいえ準備預金に過剰準備を置いておいても意味がないため、その資金を何らかの形で運用したい。自ずと、企業などへの貸出に向かうであろうという、いわば楽観的・希望的観測である。
 他方で、今回のECBのマイナス金利は、いわば中央銀行預け金を「減らす」措置である。すなわち伝統的な量的金融緩和とは逆方向の措置である。いったい、ポートフォリオ・リバランス効果が発揮されるためには、中央銀行預け金は増やすべきなのか、減らすべきなのか。
 筆者のように、「もともと量的金融緩和による銀行の融資拡大効果、すなわちポートフォリオ・リバランス効果など幻想である」と考える者は、上記の問いに対しては「もともと、ゼロ金利下で準備預金を増やそうが減らそうが関係ない」とシンプルに答える。したがって、「今回のECBのマイナス金利導入も、民間銀行の貸出増加効果、マネーストック増加効果、ひいては名目GDP拡大効果を持たない」と考える。果たしてECBがポートフォリオ・リバランス効果を信じているのか、あるいは上述のとおり本音は別にあるかは、おそらく数年経たないとわからない。筆者は、おそらく後者であろうと思うが。

(4)米国FRBは出口に、取り残される日本市場
 他方で、米国は量的金融緩和(QE3)から脱しつつある。イエレンFRB議長の心は既に出口に向いている。直近の6月18日のFOMCでは、FRBの資産購入額を現行の月額450億ドルから7月以降は350億ドルに減らし、年末までにゼロ金利解除を含む出口戦略を明らかにすることを決めた。すなわち、FRBは、2015年春にも予想されるゼロ金利解除を前に国債購入額をゼロにしてQEを終了することが既定路線となっている。
 以前は、米国のQE終了の道筋(即ち出口)が示されれば、株価や経済活動にブレーキがかかると警戒されていたが、実際にやってみるとダメージはほとんどなかった。むしろ、直近の6月18日のFOMCにおいては量的金融緩和の終了は既定路線であり、焦点はむしろ利上げ、すなわちゼロ金利からの脱出時期であった。
 イエレン議長は、実は量的金融緩和の効果に懐疑的であり、市場もそうした見方に傾いているように思える。
 ECBも、量的金融緩和に見切りをつけた感がある。結局取り残されたのは日本だけではなかろうか。もはや、日本以外の金融市場は量的金融緩和に期待していない。日本の金融市場は、黒田日銀の第2弾の量的・質的金融緩和の有無ばかり話題にしている。株価も異次元緩和第2弾次第ともいわれる。しかし、そもそもそうしたロジック自体が間違っているのではないか? 市場は、ケインズ流の美人投票なのであれば、ロジックが間違っていようが間違っていまいが、テーマが「量的緩和」であればそれに注目すべきということになるが、そろそろ正しいロジックが市場にも浸透してくるかもしれない。「王様は裸だ」ならぬ、「量的金融緩和;そんなの関係ねえ!」という考え方が、そろそろ日本市場にも浸透してくるのではなかろうか。
 2013年には、一度限りの期待醸成により、株価上昇と円安を実現した。ロジックなき期待醸成により、もう2度と市場を騙すことはできない。そうであれば、日銀も「あれは幻想、騙しでした」とそろそろ白状してもよいかと思う。その方が出口戦略も描きやすくなるのでは? (了)


★2014年3月30日『経常収支赤字は良くも悪くもない、しかし財政赤字はそれ自体悪い』

 経常収支が赤字化しつつある。日本の経常収支は、1981年以降(年ベースで)巨額の黒字を計上し続け、米国などから黒字縮小を迫られてきた。しかし、2011年から経常収支の黒字は顕著に縮小し始めた。また、月次の経常収支(季節調整前)は、2013年10月〜2014年1月には4か月連続で赤字を計上し、かつ各月の赤字額は拡大しつつある。そうした中、俄かに「経常収支赤字化」の問題が声高に語られるようになった。
 果たして、経常収支黒字・赤字は良いのか悪いのか、何を問題視すべきなのか、この伝統的な議論について整理したい。

(1)経常収支内訳からみた黒字縮小要因
 経常収支黒字は、2007年の24兆9,490億円をピークに縮小傾向にあり、2013年は3兆3,061億円となった(図表1)。
 黒字縮小の主因は、3年連続の貿易赤字である。東日本大震災時の原子力発電所事故に伴う火力発電用の液化天然ガス(LNG)の輸入急増と、その後の円高進行等による輸出減少により、日本の貿易収支は2011年に31年ぶりに赤字に転落した。2013年には円安が進行し、貿易収支は再び黒字に戻ることが期待されたが、2011-12年の円高期に加速した日本産業の海外生産シフトの影響が本格化し、貿易赤字額は過去最高の8.7兆円となった。
 また、元々赤字であるサービス収支(旅行、運輸、特許料など)は、円安による訪日外国人旅行者の増加等により赤字額が減少したものの、いぜん3.5兆円の赤字を計上している。その結果、貿易・サービス収支は12兆円と過去最大の赤字額を記録した。
 なお、余談ながら、国際収支の議論の際には、貿易収支よりも、貿易・サービス収支をより重視すべきであろう。経済のサービス化は著しく、モノとサービスの区分は徐々に曖昧になってきているからである。
 貿易・サービス収支の赤字を埋め合わせたのは、第1次所得収支(旧統計での所得収支)の黒字である。この黒字は、日本の巨額の対外純資産から生まれる配当や利子などの収益である。日本企業の海外現地法人からの利益還流(配当)、米国国債の利子などが含まれる。第1次所得収支の黒字も過去最大となったが、貿易・サービス収支の赤字がより速いペースで悪化したため、経常収支の黒字が急減したのである。国際収支の構造からみて、日本は既に発展段階説における「成熟債権国」に転じたといえよう。

  図表1 経常収支とその内訳

  (資料)財務省「国際収支統計」により作成。

(2)貯蓄・投資バランスからみた黒字縮小要因
 貿易・サービス収支、所得収支といった内訳でみた経常収支の動向は前述のとおりだが、経常収支変動の原因は、国内の貯蓄・投資(IS)バランスで考えるべきである。経常収支と国内の貯蓄投資バランス、そしてそれを裏返した部門別の資金過不足は、以下のような関係にある。
 
  経常収支=輸出等−輸入等
  =家計貯蓄超過+民間非金融法人企業貯蓄超過+一般政府貯蓄超過
  =家計資金余剰+民間非金融法人企業資金余剰+一般政府資金余剰
    (ここで貯蓄超過は貯蓄−投資、
    資金余剰は資金運用純増額−資金調達純増額、で示される)
 

 日本の部門別貯蓄超過を日本銀行の資金循環勘定でみると、図表2のとおりである。通常、家計は資金余剰、一般政府は資金不足(資金余剰のマイナス)であり、民間非金融法人企業は資金不足であることが多い。しかし日本では、1999年から非金融法人企業が大きな資金余剰を示しており、高貯蓄率を反映した家計の資金余剰と併せて、政府の資金不足(財政赤字)を補ってきた(図表2)。
こうした状態は変わっていないが、リーマンショック以降、政府の資金不足が高水準となり、人口高齢化による貯蓄率の低下を反映して家計の資金余剰が趨勢的に縮小した。これに、2013年には景況感の改善から民間企業部門の資金余剰が縮小し、これらを受けて海外部門の資金不足、すなわち経常収支黒字が顕著に縮小したのである。
今後も、家計の貯蓄率は低位に推移し、政府の赤字縮小もあまり見込めない。そうした中で、企業の投資意欲が本格化すれば、日本の経常収支が恒常的に赤字となる可能性は小さくない。

  図表2 日本の部門別資金過不足(GDP比、%)

  (出所)日本銀行『資金循環勘定:参考図表』2014年3月25日

(3)経常収支赤字は悪いのか
 では、経常収支の赤字は悪いことなのか。経済産業大臣は、「赤字よりも黒字の方が良いに決まっている」と言ったが、これは正しくない。こうした重商主義的な考えがはびこっていることが、経常収支を巡る議論の混乱を招く。
 結論を急げば、国の対外収支である経常収支は、赤字でも黒字でも、良くも悪くもない。企業は利益(すなわち黒字)を上げることが使命であり、赤字を続ければ存続不能となる。しかし、国民経済の目標は構成員である国民の所得向上であり、対外収支の改善ではない。そもそも、世界中の国々すべての経常収支の合計は必ずゼロになることからわかる通り、国際収支はゼロサム・ゲームである。そうした中で、ある国が経常収支黒字を求めれば、それは他国の赤字を必ずもたらす。そうした重商主義的な近隣窮乏化策がブロック経済の形成を経て、1930年代の大恐慌、そして世界大戦の原因となったことを忘れてはならない。そうした意味では「経常収支黒字は善でも悪でもないが、黒字を求めることは悪である」ということもできる。
 経常収支の赤字化は、国内総生産(総需要)、国民所得の観点では、純輸出がマイナスとなることを意味し、所得を減少要因となる。しかし、景気が良好で国内需要が拡大する際には、輸入等の増加により経常収支は悪化するのが当然である。国民経済の目標が所得増なのであれば、所得増によって経常収支が悪化すのは、むしろ喜ぶべきことである。実際、米国、英国、オ−ストラリア、カナダなどは、1980年代以降、経常収支赤字を続けながら高めの経済成長を続けた。
 ただし、外国資本に依存する信用力の低い国にとっては、経常収支の赤字は懸念材料である。経常収支赤字は、対外純債務の増加(あるいは純資産の減少)をもたらす。対外純債務国は、マクロ的には常に外資に依存しており、そうした国の経常収支が赤字になると、追加的な外資が必要となる。とくに、債務の大きい国は信用度の低下も懸念することになる。米国が世界最大の対外純債務を抱えながら、経常収支赤字を続けているのは、米国が実態的な基軸通貨ドルを自国通貨としているからである。米国は、対外債務が拡大してもそのファイナンスに痛痒を感じにくい例外的な国である。
 これに対し、新興国などその他の債務国では、経常収支の赤字は対外信用度の低下に直結する。この結果、リスクプレミアムの拡大から金利が上昇する可能性が高い。経常収支赤字国は、国内の資金不足があり、その点からも実質金利が上がりやすい状況になる。そうした金利上昇が、経済成長を阻害すれば、これは良くない。
 要するに、経常収支の赤字は、対外債務のファイナンスに不安のある国にとっては大きな負担となり、その負担度は金利上昇を通じて観測されるのである。
日本について考えると、世界最大の対外純資産を有しており対外ファイナンスに支障がないこと、経常収支黒字の急縮小の主因が国内需要の拡大によること、を考えると、経常収支赤字を憂うる必要は全くないと言えよう。

(4)問題視すべきは経常収支赤字より財政赤字
 経常収支赤字は、財政赤字と併せて「双子の赤字」と称される。先述のとおり、貯蓄・投資バランス(部門別資金過不足)を考えると、政府の資金不足(投資超過、財政赤字)は、経常収支赤字の原因である。とくに家計や企業部門の資金過不足に一定の歯止めがあるとすると、一国の経常収支赤字(黒字)の主因は財政赤字(黒字)にあることが多い。そうした意味で"Twin Deficit"(双子の赤字)という語が、1980年代の米国経済の不均衡問題を示す言葉として使われたのである。
 ここで大切なのは、財政赤字が経常収支赤字の原因となるのは明らかだが、経常収支赤字が財政赤字の原因となるのではないことである。世間では、「経常収支は双子の兄弟の財政赤字をもたらすから悪である」という議論が横行しているが、これは「双子」を取り違えた議論である。逆は真ではない。
 財政赤字は、それ自体好ましくない。世代間の不公平を生むし、政府債務の累増、実質金利の上昇を生みやすい。したがって、財政収支は均衡しないまでも、政府債務のGDP比が抑制される状態、すなわち基礎的財政収支(プライマリーバランス)の均衡程度はもとめたい。そうした節度ある財政状況は、経常収支が赤字であろうと黒字であろうと必要である。
 翻って日本を見ると、財政赤字、特に政府債務残高の増高は悲惨である。すでに政府債務は発散状態にあり、その収斂のめども立ってない。そうした中で金利が低位にあるのは、日本銀行が必死に国債を買っているからであるが、物価が明確に上昇し始めればそれも続けられない。日本は、常に、優先的に財政再建を進めねばならない。経常収支が黒字か赤字かは関係ない。(了)


★2014年3月8日 『ビットコインは通貨ではないが金融商品と捉えるべき

(1)ビットコインは貴金属と同じ?
 3月7日、政府はインターネット上の仮想通貨である「ビットコイン」について、「民法で規定する『貨幣』でも、金融商品取引法で規定する『金融商品』でもない」ことを明言した。むしろ、一般の商品、とくに貴金属と同等の性格を持ち、購入については消費税の対象となり、値上がり益は所得税・法人税の対象となるとの解釈に落ち着きそうな雲行きである。
 金融商品とすると、その取扱業者に参入規制や様々なルールを課す必要があり、利用者の保護も必要となる。ロシアや中国はビットコインを全面禁止する方向だが、英米は金融商品ではない通常の商品と考え、金融規制は課さない方向である。日本は英米の考え方と同様の考え方を採ったようだ。
 ビットコインが通貨(貨幣)でないことは明らかだが、金融商品とするかしないかについては、もう少し真摯に議論した方が良いのではないか。以下、議論を整理する。

(2)通貨の3要件を満たさない
 前述のとおり、ビットコインが通貨(貨幣)でないことについては、あまり疑いはない。
 通貨の本源的な機能としては、「価値尺度」「価値保存(保蔵)」「支払(交換)手段」の3機能があげられる。
 第1の「価値尺度」、すなわち表示貨幣とは、何らかの効用をもたらすモノ・サービスの価値を「価格」として表示する機能である。一部の業者は、IT製品や飲食サービスなどをビットコイン建てで価格表示しビットコインで販売しており、そうした閉じられた世界では「価値尺度」として用いられているかもしれない。しかし、どこかの国や地域全体で価値尺度として機能している訳ではない。
 第2の「価値保蔵」の機能は、ビットコインは十分に持っている。ビットコイン購入者の多くは、値上がりを期待してビットコインに投資している。キプロスでは、ベイルインによる預金減額を機にビットコイン投資が進んだと伝えられるが、これはビットコインが貯蓄手段と認識されていることの証左である。ただし、価値保蔵の対象は、通貨以外に有価証券、不動産、貴金属・宝石、等幅広く、この機能は通貨の3要件のうち最も緩い要件である。
 第3の「支払(交換)手段」としての機能、すなわち決済機能をビットコインが持つかどうかは、最も議論が分かれるところである。一部の業者は、ビットコインでIT製品や飲食サービス等を販売しており、この限られた世界ではビットコインは支払通貨として機能する。しかし、一般的に通貨とは、その通貨を用いる国や地域においてその通用性が法的に保証されている(これを法貨という)。ビットコインは、誰もその通用性を保証していない為、一般的な決済機能は持たないと考えられる。
 各国の現金(紙幣・コイン)は、こうした3要件を備える純然たる通貨であるが、それだけでなく当座預金・普通預金等の流動性預金もすぐに現金に換えられること、預金口座で決済ができることから通貨に含める(通常は現金と流動性預金の合計をM1と呼ぶ)。定期性預金も、簡単に流動性預金に振り替わる為、準通貨として通貨に加えられ、M2に計上される。ビットコインは、こうした通貨とは異なり、価値尺度、交換手段の機能に不備がある。
 なお、Edyやスイカなどの電子マネーはしばしば「第2の通貨」と呼ばれているようだが、これは全く本質を捉えていない。電子マネーは、デジタル情報として現金を一時的に保管する「財布」の性格を持ち、その根源的な価値は元々の現金または預金通貨にある。電子マネーは、通貨がその形態を変えたものであり、通貨そのものではない。

(3)実物的価値を持たない価値保蔵対象は金融商品
 しかし、ビットコインが「金融商品」かどうかは、今一つ明確ではない。金融商品の定義は難しいが、価格が明確に示され、価値保蔵機能を有する資産のうち、食料や娯楽品のような実物的な効用を持たないものと定義できよう。すなわち、貯蓄・投資の対象となる資産ではあるが、それを持っているだけで何か効用が得られる訳ではない。
 現金・預金などの通貨はもちろん金融商品である。同様に、貯蓄手段となりうる債券・株式などの有価証券も金融商品である。しかし、有価証券は信用創造機能や決済機能を有さない為、通貨ではない。
 他方で、不動産や絵画は、価値保蔵目的で保有されるとしても、それを持つことによって何らかの実物的な効用も得られるため金融商品とは言えない。
 ビットコインは、価値保蔵機能を持つが、実物的な価値を持たない。ビットコインは金(Gold)などの貴金属と同列だと言われるが、厳密には両者は性格を異にする。Goldなど希少金属には、指輪や入れ歯などの実物的な用途があり、それ自体が価値を持つ。この為、金本位制を採らない現代においては、Goldは金融商品ではないが、ビットコインは金融商品と考えるべきであろう。
 なお、金属、穀物、石油などの商品は、それ自体は金融商品ではないが、その先物価格は商品先物として金融商品に加わる。

(4)金融商品として国際的に規制し管理すべき
 金融商品である以上、金融規制の対象とすべきである。日本の場合は、金融商品取引法の範疇に加えるべきであろう。すなわち、ビットコインの取引業者は、金融庁(政府)に届け出をせねばならず、その取引実態を報告し、ディスクロージャーし、取引についてあらゆる金融規制を受ける必要がある。また、譲渡所得(キャピタルゲイン)については、株式などの有価証券と同様に課税すべきであろう。
 ではなぜ、日本政府は「ビットコインは金融商品ではなく、単なる商品」としたのであろうか? おそらく、金融商品と定義し規制の対象とすることを怠っていた落ち度を認めたくないのであろう。ビットコイン取引所「マウントゴックス(MTGOX)」の経営破綻(2月26日、民事再生法適用の申請)によって購入者が多大な被害を被った責任を追及されない為であろうか? はたまた、売買の際の消費税の税収に目がくらんだのであろうか? 
 いずれにせよ一般商品とするには、あまりに投機的である。見栄も維持も捨てて、もういちど「金融商品」と定義して、しっかり金融規制の配下で管理願いたいところである。さもなくば、第2・第3の取引所の破綻や価格の急落による被害者が続出しかねない。政府の面子を気にしている場合ではない。
 なお、ビットコインは国境を持たないシステムである為、日本だけがそうした認識をしても駄目である。英米ほかの世界的な協調の下に管理しなければならない。是非、日本が率先して金融商品として規制する体制を築いて欲しいものである。(了)


★2014年1月1日(元旦) 『2014年の日本経済のリスク』
   <謹賀新年、本年もよろしくお願いいたします。>

(1)2014年の日本経済
 新年には、その年の経済展望をするのが慣例である。すでに多数発表されている政府見通しや民間シンクタンクの予測等をみると、今年についてはばらつきが少ない。2013年は、アベノミクスへの期待と株価上昇に刺激された景況感、とくに消費態度の好転が、久々の個人消費の活況をもたらした(12月21日発表の政府経済見通しでは実質個人消費増加率は2012年度の1.5%から2013年度見込みでは2.5%に高まる)。「機動的な財政政策」方針による2012年度補正予算などでの大盤振る舞いも、公的需要を持ち上げた(政府経済見通しでは実質公的需要寄与度は2012年度の0.3%から213年度見込みでは1.1%に高まる)。その結果、景気は2012年12月から、予想以上の急ピッチで回復を続けてきた。
 問題は、こうした久々の好況が2014年も続くかどうかである。官民とも、「2014年度の日本経済の成長率は鈍化する」と予測している。(政府経済見通しでは実質経済成長率は2013年度見込みの2.6%から2014年度予測では1.4%に低下する。) 要因もだいたい共通している。
 第1は消費税増税の影響である。税率引き上げ後の4月以降の景気を支える目的で2013年度補正予算では19兆円もの景気対策を用意したが、それでも消費税増税の個人消費や住宅投資への悪影響を打ち消すことはできないとみている。また、対中関係、対韓関係の悪化と新興国経済の成長頭打ちから、日本の財・サービスの輸出も、伸びが鈍化するとみられている。これだけ円安が進行したが、海外生産シフトが進んだせいか、以前ほど輸出増加に直結しなくなったようである。
 しかし、2012年12月から始まった今般の景気拡大は1年余りしか経っていないので、景気拡大が2014年中に潰えるとは考えにくい。平均的には、景気拡大は3年程度続く。総括すれば、「2014年の日本経済は、2013年程成長力は高くはないが、地道な拡大を続ける」という見方が一般的なメインシナリオであり、筆者もそう思う。

(2)最大のリスクは長期金利上昇
 経済展望においては、メインシナリオも大事であるが、リスク・シナリオも大切である。とくにビジネス、投資においては、メインシナリオを崩す「リスク」が念頭に置いておくことが大変重要である。そしてリスクが顕在化した時の損益シミュレーション(ストレス・テスト)を行っておくことが重要である。

2014年の日本経済を取り巻く代表的なリスクとしては、以下の4つが考えられる。

第1は、4月の消費税率引き上げのショックである。消費税率引き上げは、税込み販売価格の上昇を通じて消費数量の減少要因となる。減少要因となることは間違いないが、税率3%分ほど税込み販売価格は上昇しないと見込まれる。需給は相変わらず緩んでいる中で、食料品などに物価上昇傾向が目立ち始めており、こうした環境下では消費税の価格転嫁は難しい。税の価格転嫁が難しければ、企業は収益を圧迫されるが、消費減少効果も減る。消費税率引き上げの経済への悪影響は、大方の予想ほどでない可能性があり、少なくとも大きなリスクとはならないであろう。

第2に、TPP(環太平洋パートナーシップ゚)参加による、輸入増加を通じたダメージを心配する方面も多い。しかし、TPP参加は、農産物などの輸入増によるダメージよりも、機械類の輸出増効果の方が大きいと考えられる。また、協定の合意も遅れており、完全実施までの経過期間も長いと考えられる為、2014年に大きな負担が生じるとは考えられない。

第3は、米国が、政府債務残高の上限などの財政赤字の制約で急減速するリスクである。2013年10月には、政府債務残高が上限に至り、医療保険改革を巡る共和党・保守派の妨害により政府機関が一時停止に陥った。これは2014年2月7日までの暫定的な国債発行の容認により対処されたが、2月以降再び同様の問題が生じる。しかし、財政赤字の制約は1990年代からの継続的な課題であり、これが米国経済に急ブルーキをかけることもなかろう。
 第4は、長期金利上昇のリスクであろう。おそらく前の3つのリスクよりも、金利上昇に伴う株価下落・円高こそ最も警戒すべきであろう。2014年に警戒すべきは、外生ショックや経済政策に起因するものではなく、内生的要因によるものなのである。

(3)デフレ脱却はもうそこに
 消費者物価上昇率は、前年比1%を上回ってきた。2013年11月の消費者物価指数(生鮮食品を除く)は前年同月比1.2%上昇と約5年ぶりの伸びをつけた。円安を起点とする物価上昇が多くの品目に広がっている。より重要なGDPデフレーター上昇率も、まだマイナスだがもうすぐプラスに転じよう。日銀の目標である「消費者物価上昇率2%以上」の達成はさほど容易ではないが、アベノミクスの目標の「デフレ脱却」はもうすぐ実現するとみてよかろう。
 こうした状況下で、食料品価格の上昇などを見て、消費者から不満が出始めている。マヨネーズや小麦などの値段が4〜6%上昇し、一般家庭の家計を圧迫している。片や政府は賃上げを企業に要望しているが、生産性がよほど高まらない限り、企業はおいそれとは応じられない。筆者は、デフレ脱却が本当に好ましいこととは限らないことを何度も指摘してきたが、そうした考え方が一般消費者にも浸透してきた。
 物価が上昇した際の最大の懸念は、金利上昇である。短期の金利は日本銀行がゼロ金利を続ければ低く抑えられるが、国債利回りなどの長期金利は物価上昇に伴い上昇する。物価上昇率がプラスに転じてすぐは、過去のデフレの蓄積があり、実質金利の低下で物価上昇を吸収し、金利は上がらないかもしれない。しかし、物価上昇率が2%に向けて高まり、プラスの状況が長引けば、名目金利が高まり始める。
 ましてや4月には消費税率が上がり、消費者物価上昇率は表面的には4〜5%にまで高まる懸念もある。こうした高い物価上昇に対して金利が無反応ということは有り得ない。政府見通しや民間シンクタンクの多くは、「2014年度も長期金利は1%台半ばにとどまる」と予測するが、これは少々甘い。

(4)日銀も出口戦略へ
 期待物価上昇率が高まる中で長期金利の上昇を抑えてきたのは、日銀の量的・質的金融緩和である。過去1年間、黒田日銀は右手で2%の物価上昇率目標を掲げながら、舞い上がる火の粉を左手で払うかのように国債等を大量に購入して金利上昇を防いできた。
 しかし、こんなことはいつまでも続けられない。金利が上昇すれば日銀は大きな損失を被り、これは国庫納付金の減少を通じて結果的に国民負担になる。物価目標の達成が視野に入り、物価上昇による消費者の不満が高まれば、日銀は出口を示して国債の購入を減らさざるを得ない。米国FRBと同様である。
 金利が上がると株価も調整する。昨年末の日経平均16千円はPER等から見て高過ぎることはない。2012年11月を底とする景気も、まだ息切れする時期には遠い。しかし、現在の株価には「期待物価上昇率が高まる中での低金利」という得難い好環境が含まれている。その好環境が崩れる時、株価の調整は避けられない。
 金利が上がれば、昨年末には105円台であった円レートも再び円高に向かい始めるであろう。その不穏なシナリオへの転機は、プラスの物価上昇率が定着するであろう2014年の半ばごろではなかろうか。(了)



★2013年11月1日『アメリカの政府債務上限はバカげた制度ではない!』

(1)世界の金融界が固唾をのんで債務上限引き上げを願った
 10月上旬、アメリカの連邦政府の債務上限に関する議論が、世界を震撼させた。10月16日の国債発行容認法の成立により来年2月までは国債発行が可能になったが、その直前にはアメリカ国債のデフォルト懸念が高まり、国債の金利が上昇しCDS保証料率が高まった。またアメリカ国債を担保とする世界中の金融取引が麻痺するのではないかとの懸念も高まった。そして世界中の金融関係者が「債務上限が無事に引き上げられる」ことを願う構図となった。
 この混乱の直接の加害者は、ティー・パーティーに代表される共和党の保守派である。しかし、債務上限を巡る議会・大統領の間の攻防は今に始まったことではない。これまでも幾度となく、政府債務は上限に近付き、その都度、ぎりぎりで引き上げられてきた。ところが今回は、オバマ大統領が進める医療保険改革を巡る議論に、政府債務上限が人質とされた為に「今回に限っては、債務上限が引き上げられないのではないか」との懸念が高まったのである。オバマ大統領は、第2期政権の政策の柱として、国民皆保険を目指した医療保険改革「オバマケア」に注力しているが、これに低負担・低福祉を標榜するティー・パーティーなどの保守派が強硬に反対している。議会は共和党がマジョリティを握るねじれ状態にあり、共和党が反対するとオバマは何も決められない。保守派は医療保険改革の後退を迫ったが、オバマはそこは折れず、政府債務上限の引き上げが危ぶまれたのである。

(2)債務上限の規制はバカげているか?
 アメリカ政府債務については、「なぜ、アメリカはこのような混乱を招くような法律を持っているのだろう」という非難の声ばかり聴かれた。とくに実害を受ける金融界からは、「さっさとこんな上限規制は撤廃しろ」という声も多く聞かれた。一方、政府債務が上限に迫るまで拡大したことについては、あまり問題視されなかった。
 しかし、アメリカが政府債務に上限を設けるのには、それなりの理由があったはずである。言うまでもないが、政府債務の増大は、経済に大きなリスクと負担をもたらす。だからこそ債務残高にタガをはめることによって、財政規律を保とうとしているのである。債務上限は、単なる障害物ではなく、経済の安定を果たす為の重要な規律なのである。
 むしろ、アメリカの政府債務が、なぜ上限にまで拡大してしまったのかを問題視すべきではないか。政府債務の拡大は、ジョージ・ブッシュ・ジュニア政権下での軍拡と人気取りの為の減税、さらにはリーマン・ショックによる景気悪化と公的資金注入に因るところが大きい。すなわち、リーマン・ショックという不幸な出来事はあったが、基本的には21世紀に入ってからの歴代政権の拡張財政政策のツケであることを真摯に認識し、その罪こそもっと厳しく問うべきであろう。

(3)財政規律の為の数値目標が必要
 翻って日本は、アメリカよりはるかに深刻な財政事情を抱えながら、現安倍晋三政権は臆せず拡張財政を進めるという、信じがたい政策運営を続けている。2013年末(見込み)の日本の政府債務残高の名目GDP比は、224%であり、これはアメリカの113%の約2倍であり、先進国内で突出した大きさである。しばしば、「日本は政府資産が大きいので、債務残高が大きくても問題ない」という論を展開する輩がいるが、これも嘘である。債務残高から資産残高を差し引いたネット(純)債務残高(2013年末見込)をみても、日本は名目GDP比144%であり、アメリカの90%よりはるかに高く、G7諸国内で突出している。日本の財政事情は、どこから見ても危機的に悪い。
 では、財政を再建するには、せめてこれ以上悪化させない為には、何が必要であろうか。いうまでもなく、当初予算、補正予算を組む際に、厳しく財政節度を問うことが重要である。まず、財政の悪化を食い止め、極力改善する努力を怠らないことである。そうした基本姿勢を固い意志を持って貫徹するには、数値目標が必要である。問題は、どの数値を見て、どの数値を目標として設定するかである。
 財政再建の目標としては、様々なアイデアがありうる。小泉純一郎政権は、政権発足当初「国債発行額30兆円以内」、すなわちフローの財政収支(国の一般会計)にタガをはめた。しかしこれは感心しない。特別会計の剰余金(いわゆる埋蔵金)を流用したり、支出を先送りしたりしてやりくりが可能だからであり、小泉政権では実際にそうした姑息なやり方で目標を達成した。
この反省から、当時の経済・財政担当大臣の竹中平蔵氏が強く主張し、財政再建目標は「プライマリー・バランス(政府の収入−利払い費を除く歳出)」の均衡化に変更された。この政策目標は現在まで踏襲され、今は「2020年度までにプライマリー・バランスを均衡化させる」ことが目標となっている。「ドーマーの条件」に照らせば、名目経済成長率が名目金利を上回ることに加え、プライマリー・バランスの均衡(または黒字)が、政府債務が発散しない為の条件とされるため、とりあえずプライマリー・バランスの均衡を目指すことは経済学の考え方に則っている。

(4)フローの財政収支よりも政府債務残高上限の方が有効
しかし、フローのプライマリー・バランス均衡化を目指すことは、目標達成年までの財政運営を緩める恐れがある。例えば、現政権は2013年度補正予算に続き、2014年度補正予算でも大盤振る舞いの拡張財政を盛り込みそうである。消費税率引き上げのショックを和らげるという名目で、減税や補助金をばらまくようである。それは、目標達成年度が2020年度と遠い為、現政権が達成に責任を持つつもりがないからであろう。
やはりアメリカのように政府債務に上限を設けるのが、最も意味のある方法であろう。政府債務に上限があれば、何れの時点でも国債を発行すればその分利子負担が増え、債務上限への余裕が減ることになり、常に財政規律が働くことが期待できる。理論的には、政府債務の名目GDP比に上限を設定すべきだが、GDP統計の不安定性や速報性の乏しさを考えると、政府債務残高の金額についての上限でもよい。
アメリカの政府債務上限を巡るごたごたを笑う暇があれば、もう少し日本の財政事情を憂うるべきである。そして、アメリカと同様、日本も政府債務の上限に制限を設けるべきであろう。(了)


★2013年9月28日『デフレ脱却は第一優先課題たり得るか?』

日本銀行の総裁・副総裁が交代し、新体制の下で異次元緩和政策が掲げられてからもうすぐ半年がたつ。黒田日銀は、「デフレ脱却」を最重要目標に掲げ、消費者物価上昇率(前年比)を2015年3月には2%とするとの目標を掲げる。

ここのところ、物価上昇率はプラスになりかけており、政府・日銀の思惑が実現しそうな気配もあるが、一方で、物価上昇が生活を圧迫するという悲鳴が高まっている。とくに、「賃金が上がらない中でのデフレ脱却は、生活を圧迫するだけ」「デフレ脱却するなら賃金上昇を」という声が高い。以前から「デフレをそう一方的に悪者扱いするな」「デフレのメリットもある」「デフレを政策で解消するのは困難なので、他の目標を立てよ」と主張してきた筆者から見ると、「いまさら何を言っているのか」と言いたいところではあるが、改めてデフレの功罪を考えてみたい。

(1)デフレ脱却は黒田・異次元緩和の結果とは言えない
 全国消費者物価指数(CPI)の前年同月比上昇率は、生鮮食品を除いたベースで2013年6月からプラスとなり、8月には0.8%となった。ガソリン、電気料金の他、電化製品等幅広く値上がりしてきている。ガソリン価格はまた下落するかもしれないが、他の消費財の価格の上昇はしばらく続きそうであり、消費者上昇率はようやく安定的にプラスとなりそうな気配である、
 こうしたデフレ脱却に目途がつきそうな状況をみて、日銀・黒田総裁は「異次元緩和の効果」と誇らしげに言いたいところであろうが、ことはそれほど単純ではない。物価上昇率の推移をみると、2009年秋から底打ちしておりこれまでも何度かプラスになっていた。背景にある需給ギャップも、2012年秋から縮小傾向にある。安倍晋三政権や日本銀行が政策目標に掲げる「デフレ脱却」への道筋は、既に安倍政権の前の野田佳彦政権時からついていたのである。

(2)実質賃金は長期的に下がっていない
 物価上昇率がプラスになる頃から、消費者の生活に対する不安が高まった。とくに、今回の物価上昇は食料品価格や光熱費の上昇を伴うものであり、これは低所得者により強いダメージを与える。低所得者を中心に、「物価上昇が生活を圧迫する」という悲鳴が高まり、いまさらながらデフレ解消の負の側面に気が付いたのである。
 さらに、「賃金が上がらないなかでの物価上昇は生活を困窮させる」という議論が高まった。物価上昇に加えて、来年4月には消費税率が3%引き上げられることもあり、賃金が物価上昇と税率引き上げに見合うだけ上がるかどうかが大きな注目を集めることになった。いまや、「賃金上昇」が政労使あげての合言葉になっている。労働組合や労働者政党が賃上げを求めるのは当然だが、一部の小売業者など、率先して賃金引き上げに動く企業が賞賛されている。
 また政府も賃上げの促進に必死である。さもなくば、アベノミクスの達成目標である「デフレ脱却」も、予定される消費者税率の引き上げも否定される懸念があるからである。首相自ら、大企業に賃上げを求め、賃金を引き上げた企業の法人税を優遇する「賃上げ減税」を拡充しようともしている。(この賃上げ減税がいかな馬鹿げた制度であるかは、またの機会に述べよう。)
 確かに、賃金が上がらない中での物価上昇は、消費者の生活を圧迫する。しかし、長期的に見た時、賃金上昇率はそれほど不当に低いのであろうか。確かに過去に比べて名目賃金は下がったが、15年間デフレが続いているのであるから当然ともいえる。むしろ注目すべき実質賃金(名目賃金/物価)は下がってはいない。理論的には、実質賃金は労働生産性の上昇に応じて上がる。現実には、労働生産性は低迷しており、こうした中で名目賃金を維持しつつ実質賃金を上げるのは無理である。そんなことをすれば、企業の収益力・競争力は衰え、結局労働需要が減退する。
 実際、労働分配率(雇用者報酬/企業所得)は、リーマンショック前後には乱高下したが、この時期を除けば安定しており、特に低下傾向にあるわけではない。また現在の水準は、昨年よりは低下したが、リーマンショック前の2007年当時よりむしろ高い水準にある。賃金が低すぎるという論拠は薄い。

(3)物価上昇率目標より「生産性向上による実質経済成長率」を目標に
 そもそも「デフレがなぜ悪い」のから、改めて考えるべき時期であろう。
 インフレとデフレの功罪は、基本的に対照的である。インフレは個人など資産超過主体に、デフレは政府等の債務超過者に負担をもたらす。この為、デフレでは、政府は負担が増すが、個人は恩恵を受ける。インフレが消費者の生活を圧迫するかどうかは、前述のとおり賃金との兼ね合いであり、実質賃金で議論すべきことである。したがって、インフレもデフレ、それだけであれば家計に負担になるかどうかが分からない。
 デフレの唯一の非対称的な弊害は、金利がマイナスにはならない為、実質金利が高止まり、これが経済にブレーキをかけ続けることである。日銀が量的緩和をしようが、量的。・質的緩和をしようが、その効果が極めてあやふやであることは既に歴史が証明している。ゼロ%近傍まで政策金利を下げた後には、中央銀行はほとんど何もできないと考えた方がよい。したがって、中央銀行がデフレ脱却を図り、2〜3%の物価上昇率を確保し、実質金利をコントロールする余地を持ちたいと考えるのは当然である。その点で、日銀がデフレ脱却を目指すのは理にかなっている。
 しかし逆に言えば、デフレの明確な弊害はそのだけである。「デフレ=不況(経済停滞)」と考え、議論の余地なく「悪」としてきたが、そうした単純な議論はここ数か月の物価上昇で潰えたであろう。しかし、未だにデフレを、経済停滞の原因と捉える論調があるのは残念である。デフレは、経済停滞の「結果」であるが、必ずしも原因とはいえない。そうであれば、経済停滞自体を問題視し、月並みだが実質経済成長率の上昇こそを主な目標にすべきである。なぜ安倍政権は「実質経済成長率」よりも「物価上昇率」を優先して目標とするのか、ミステリーである。おそらく実質経済成長率よりも物価の方がコントロールしやすいと考えているのであろうが、この論は筋金入りのマネタリストでない信じられないものであろう。
 今からでも遅くない。デフレ脱却の道筋が見えた今こそ、アベノミクスの目標を「物価上昇」から「実質経済成長率の上昇」に切り替えるべきであろう。その際、労働生産性を高めることによって実質GDPを増やし、その過程で実質賃金を上昇させる、という視点が重要である。(了) 


★2013年7月14日『
なぜ、法人税率下げではなく、投資減税?

成長戦略の数少ない目玉として、投資減税がうたわれている。一見、即効性のある減税策に見えるが、こうした政策減税・特別措置は税の形を歪める。また、企業が設投資備を拡大するには、法人税率の引き下げの効果の方が大きいのではないか?

(1)アベノミクスの締めは投資減税
 アベノミクスの3本の矢である成長戦略(日本再興戦略)の目玉として、「投資減税」が盛り込まれた。アベノミクスの成長戦略には「民間投資を促す・・・」という巻頭句がついており、その設備投資を手っ取り早く拡大するには、設備投資そのものを対象に税負担を軽減する投資減税が有効であるとの考えである。設備の即時償却を認めるという形をとるが、設備投資に補助金を与えるようなものなので確かに効果が目に見えやすい。いかにも即効性を重視する安倍政権らしい策である。
 しかし、効果が見えやすいことと、本当に効果があることとは異なる。「わかりやすい」経済政策が、「正しい」経済政策とは限らない(この点についての詳細は、拙著『「わかりやすい経済学」のウソにだまされるな!』ダイヤモンド社、2013年.ご参照)。企業にとって、設備投資をするかしないかは大変重要な意思決定であるため、投資をすればキャッシュフローが増えるということだけで喜んで投資をするとは思えない。そもそも近年の日本の企業部門は、投資よりも債務返済を優先した結果、巨額の貯蓄超過を計上し続けており、キャッシュフローをさほど欲しがってはいない。
 では、日本企業の設備投資拡大を増加させるには、何が一番重要か。企業が設備投資増加を決める際に最も重視するのは、将来にわたって長期的に売上高(需要)が伸びる見込みがあることであろう。すなわち、「経済成長加速の為に設備投資拡大が求められ、その為には経済成長加速が必要」という循環論法に陥る。成長戦略のツールとして経済成長を掲げるのは意味をなさないので、次善の策を考えるしかない。

(2)法人税率引き下げは投資減税よりも設備投資拡大効果を持つ
 設備投資拡大の為の次善の策は、企業の長期的な税引き後利益を拡大させることである。企業の設備投資の誘因は、第1に売上(需要)の拡大、第2に長期的な期待収益率の上昇、第3が金利など設備投資のコストの低下であろう。第2の誘因である、税引き後の期待収益率の向上であれば、政策的に対応が可能である。法人税率を引き下げればよい。
 現政権は「法人税率の引き下げでは、税を負担する3割弱の企業にしか恩恵がいかない」という理由で、法人税率引き下げよりも投資減税を選択しているようである。麻生太郎財務大臣は、「法人税を払っていない7割強の企業には、税率を下げても効果はない」と述べている。
 この発言自体は間違ってはいないが、設備投資拡大が期待できるのは、ある程度業績が好調な黒字企業である。税率引き下げによりそうした黒字企業の期待収益率が高まれば、これは設備投資拡大を促すであろう。他方、赤字企業は税率引き下げの恩恵も受けないが、投資減税によりキャッシュフローが楽になっても設備投資に踏み切る余裕はなかろう。法人税率引き下げでは、赤字企業に恩恵が及ばないという議論は、一見もっともらしいが怪しげな議論の典型である。

(3)投資減税は税の3原則にことごとく反する
 また、投資減税は、税制の質を歪めることも理由である。税制には「公平」「簡素」「中立」という3原則があり、投資減税はそのいずれにも反する。
 まず、投資減税は、設備投資という個別の企業戦略に対して行う減税である為、その恩恵を享受できる業種とそうでない業種との間に不公平が生じる。製造業、とくに装置産業は大きな恩恵を受けるが、サービス業やITソフトウェア産業などはほとんど恩恵を受けられない。現政権は、製造大企業に好意的な傾向があり、これが投資減税にこだわる理由ではないかと勘繰りたくもなる。
 次に、「簡素」の原則に反するのは明らかであろう。法人税は所得を課税客体として、広く薄く課税する税であり、租税特別措置はなるべく少なくすべきである。米国のレーガン政権第2期の税制大改革(1987年)では、個人・企業の所得税の諸控除を減らし、経費や引当金・準備金の認定を厳しくして課税ベースを拡大したうえで、税率を思い切って引き下げた。狙いは、「税のループホール(抜け道)」の削減、すなわち簡素化であった。
 最後の「中立」は、政策減税である投資減税そのものを否定する。「中立」とは、「税が個人や法人の経済活動に影響を与えてはならない」という原則である。この原則は、手数を多く打ち出したい政策担当者から、常に無視されがちである。しかし、「公平」「簡素」に影響することからも、税の議論では忘れてはならない。

(4)国・地方とも法人税率を下げ、地方は外形標準課税中心に
 これらを考えると、投資減税ではなく、一般税率引き下げにより企業の設備投資拡大を期待するべきであろう。企業所得に法人税が課税され、所得の分配である配当にも課税される為、法人税は二重課税であるとの見方も多い。また、日本では実際に法人税を負担する企業は、全企業の3割に満たない。国際的にも税率の高さが問題視されている。税率を下げるべきとする理由は枚挙に暇がない。
 法人税の税率を引き下げるのであれば、その際、国の法人税だけでなく、地方事業税の負担も軽減する必要がある。日本の法人実効税率(35.64%)の内訳は、国税23.71%、地方税11.93%であり、地方の負担も少なくない。その際、法人事業税の負担軽減においては、所得を課税客体とする所得割の部分を軽減し、外形標準課税である付加価値割や資本割の比率は拡大させるべきである。外形標準課税は、所得ではなく売上高や従業員数、資本金等の企業のプレゼンスを示す指標に対して課税する税であり、2004年度から導入されている。しかし伝統的な所得割3;外形標準1の割合とすることになっている。
 外形標準課税は、企業の経済的なプレゼンスに応じて負担する為、応益原則を重視する地方に適している。また、赤字企業にも課税されるため、税収が安定し、その点でも地方税に適している。
 投資減税という分かりやすい、一見即効性がありそうな減税に騙されることなく、税の本来の位置づけ、理念・原則にのっとった議論を願いたい。どう考えても投資減税は妥当な選択ではなかろう。(了)



★2013年4月14日『混迷の債券金利;デフレ脱却の有無と財政再建が鍵』

アベノミクスの第1の矢、「金融緩和」は、その本当の効果はともかく、予想以上に市場に好感された。とくに4月の黒田東彦総裁の下での最初の金融政策決定会合で示された大胆な量的緩和策は、株価(日経平均)を一気に1000円以上跳ね上げ、円の対ドル為替レートを約100円近くまで引き下げた。
 ここまでは輸入業者を除くほとんどの日本人が喜ぶ展開となっているが、戸惑っているのは債券市場関係者(債券ディーラーや国債を多く保有する金融機関、財務省等)であろう。国債金利が乱高下しているからである。長期金利は、4月4日の金融政策決定会合直後から4月5日にかけて急低下し、10年物国債利回りは史上最低の0.315%まで低下した。ところがその後、上下動しながら上昇し、1週間後には概ね政策決定会合前の0.6%の水準に戻った。国債金利は、方向性を見失っているように思う。

(1)日銀政策:需給では低下、インフレ期待は上昇要因
 なぜ長期金利は方向性を失ったのか。第1の要因は、新体制の日銀の量的金融緩和策が長期金利上昇要因なのか低下要因なのか、市場に未だにコンセンサスが形成されていないからであろう。
 日銀はマネータリーベースの倍増を旗印に国債等の金融資産を事実上青天井で購入するのであるから、債券需給の観点からは金融緩和策は金利低下要因である。とくに日銀は今後長期の国債の購入を増やすとしているので、会合直後には2年物などの短い国債の金利が上昇し、10年物以上の長い国債の金利は低下した。
 他方で、日銀はデフレ脱却を目指して2%の物価上昇率目標を設定したのであるから、物価と金利の裁定の点からは、長期金利も2%程度まで上がっておかしくない。
 このように、短期の債券需給要因と長期の物価上昇率との裁定が交錯したものの、決定会合後1週間が経過し、どうやら長期国債金利は従来よりもやや高い水準、2〜5年の中期国債金利は会合前より高い水準に落ち着いたようである。すなわち、イールドカーブがフラットになりながら、やや高い水準に落ち着いたということである。
 これは日銀が意図していた結果とは、やや異なったのではなかろうか。日銀は、中期国債の金利はそのままで、長期金利を下げたかったのであろうが、思惑通りにはいかなかったであろう。

(2)後回しにされた財政再建、行く手も険しい
 「短期金利がゼロで2〜5年の中期金利がやや高くなり、その後長期はフラット」という丘上のイールドカーブは、今後も続くであろう。中長期の債券金利全体の水準は、今後のインフレ期待の達成度次第であろう。日銀の狙い通り、実体経済が刺激されデフレ脱却が進めば、中長期金利全体が上昇し、逆に物価上昇が実現せずインフレ期待がはげ落ちれば、金利は再び低下するであろう。そのいずれかは、おそらく夏までに明らかになるであろう。

図   国債利回りYield Curve(%)、(2013年4月12日)

(出所)Bloomberg Market Data 「金利・債券」
      http://www.bloomberg.co.jp/markets/rates.html

 国債金利における、もう一つ重要なテーマが財政再建の行方である。アベノミクスの第2の矢の「機動的な財政出動は、2月に成立した13兆円に上る2012年度補正予算により既に実行され、これまでの株価上昇にも寄与している。安倍政権は同時に、「健全財政」も言葉では加えているが、財政健全化のためのアクションは、実際には後回しになっている。
 GDP比200%に上る政府債務は、だれがどう見てもサステイナブルではない。経常収支が減少傾向になり、今後は国債の消化にあたっても外資に頼る部分が多くなり、その分、金利に上げ圧力がかかる。2014年、15年の合計5%の消費税率引き上げだけで政府債務が収斂に向かうこともない。
 財政再建の青写真は、今年央までに経済財財政諮問会議が描くことになっている。すでに議論が始まっているが、これまでの目標である「2015年度の基礎的財政収支赤字のGDP比を2010年度の半分の3.2%に減らす」という目標の達成は、事実上不可能である。いずれ目標の先送りが宣言されることになろう。

(3)財政再建挫折、コストプッシュ・インフレ下の金利上昇・・・最悪のシナリオ
 財政再建が進まないことが明らかになれば、国債のリスクプレミアの上昇という形で中長期金利が上昇する。必ずしも国債の格付けが変わらなくても、市場が国債に対するリスクを金利という形で要求することになる。その際、インフレ期待が高まってくれば、中長期国債の金利は跳ね上がり、実体経済に急ブレーキをかけることになる。これまで貸出金利を低位に抑えてきた銀行も、一挙に利上げに走ることになろう。これは銀行の貸出採算の正常化には資するが、企業にとっては大きな負担となる。
 とくに、輸入価格の上昇りによるコストプッシュ・インフレの場合、実体経済はさらに負担を受ける。円安により既に輸入価格は上昇軌道に入っており、一次産品価格も常に上昇リスクを抱えている。そうした場合には、賃金の上げ余地も乏しく、日本経済は再び深い停滞に入る。
 アベノミクスによる株高・円安のユーフォリアの裏に、金利を通じた怖い罠が隠されている事を忘れてはならない。(了)


★2013年3月8日『消費税率引き上げによるデフレ脱却の意味』 

(1)なぜ消費税の税率引き上げが議論されない?
 安倍晋三政権は、総選挙前から「インフレ・ターゲティング(物価上昇率目標)」を掲げ、1月には日本銀行がしぶしぶ「前年比2%の物価上昇率を目標とする」ことになった。その前後から、円安がさらに進み、株価が急騰したのは周知である。
 しかし、2014年4月に予定されている消費税率引き上げ(5%→8%)の影響について、あまり議論されていないことが不可解である。
 筆者は、何度も書いてきているように、インフレ率目標の設定を評価しない。別に目標を掲げてもよいが、それが実体経済を活性化することも、デフレ脱却をもたらすこともないと考える。貨幣数量説で示されるMV=PTという因果関係はあったとしても、いくら量的金融緩和をしても、日銀がケチャップを買っても、Mを思うように増やすことはできないからである。(この論理は本コラムで何度も述べた。また、近々ダイヤモンド社から発売される『「わかりやすい経済学のウソ」にだまされるな!』にも性懲りもなく綴りましたので、ご参照ください。)

(2)消費税率引き上げによりかなりの物価上昇なるが・・・・
 2014年4月に消費税率は3%引き上げられ、その1年半後の2015年10月には更に2%引き上げられる。2015年3月の目標期限に、日銀のもくろみ通り2%の物価上昇率(除く消費税引き上げ)が実現していれば、消費税率引き上げの影響を含む物価上昇率は、4%以上となろう。これは、増税による特集要因と言えども立派なインフレである。(消費税率が3%上がれば、消費者物価は2%以上あがることは確実である。)

(3)消費税引き上げによる物価上昇率上昇の経済効果
 では、消費税率引き上げという特殊要因により物価が上昇することに、どのような意味があるのであろうか。筆者は、こうした特殊要因であれ、物価上昇率がプラスになることは悪いことではないと思う。デフレ下での買い控えによる消費停滞・不動産取引の停滞、債務者負担の増加といった諸問題が解消されるからである。実際、昨夏に消費税の増税が決まってから、大型の支出である住宅などでは買い急ぎがみられる。2014年4月が近づくにつれ、より幅広く買い急ぎが広まっていくであろう。これは景気にプラスである。
 デフレ問題が真剣に議論され出した2000年頃、筆者は「消費税の税率を毎年1%ずつ10年間ほど引き上げ続け、人工的なインフレを作り出せ」との提言を行った(例えば、産経新聞社『正論』2001年7月号http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2001/ronbun/07-r2.html)。その後、マーティン・フェルドシュタイン(ハーバード大教授)、ポール・クルーグマン(MIT教授)といった大物学者が同様の提言を行い、筆者の提言は掻き消されてしまったが、論理は同じである。人工的であれ、自然発生であれ、物価の上昇は消費の駆け込みを生み、債務者負担を軽減する働きがある。
 しかし、物価上昇のプラス効果である債務者負担の軽減については、税率の引き上げによる消費者物価の表面的な上昇では十分に達成できない可能性がある。企業については、債務負担は「債務残高のキャッシュフローに対する比率」で意識されるであろう。したがって、消費税税率の3%引き上げによって税込販売価格(消費者物価)は3%近く上昇するが、仕入れ価格も上がる。この為、付加価値、利益、キャッシュフローは、販売価格程は上昇せず、債務負担の軽減効果も減殺されることになる。
 また、個人の債務負担は、例えば住宅ローンの場合、「ローン残高の年間収入に対する比率」といった数字で意識されるであろう。したがってポイントは消費税率上げにより賃金が増えるかどうかである。現在、政府が企業に賃上げを要請するなど、賃金あるいは労働分配率が話題になることが多い。2014年4月の消費税増税が近づけば、消費税分が賃金上昇に反映されるかどうかがもっと大きな議論となろう。先の通り、仕入れ価格も上がる為、付加価値、ひいては企業収益はさほど拡大するとは思えない為、消費税率の上昇と同等の賃金上昇率が確保されるとは考えにくい。この為、消費税率引き上げにより個人の債務負担が軽減される可能性は低い。

(4)実質金利への影響jは市場の考え方次第
 デフレの最大の負担は、金利がマイナスにはなり得ない為、「実質金利が高止まる」ことにある。日本は14年間デフレが続いており、この間、実質金利(名目金利−期待物価上昇率)は1〜3%程度で推移した。需給ギャップが大きく景気が悪いので、本来であれば実質金利をマイナスにしたい(名目金利を物価上昇率より低くする)のだが、それができず金融市場が経済に常にブレーキをかけてきたことになる。デフレが解消し、物価上昇率が2%程度になれば、実質金利を▲1%くらいまで下げることができ、これは経済成長にとって確かに大きな恩恵をもたらそう。
 ここで問題なのは、果たして消費税率引き上げにより表面的な消費者物価上昇率が2%以上となっても、それによって金融市場の期待物価上昇率がきちんと高まるかどうかである。筆者は「答はNO」であると思う。まず、前述のとおり消費税率引き上げにより付加価値・企業収益はさほど増えないので、金融市場が期待する投資による期待収益率も高まらない。また金融市場は一回限りの物価上昇ではなく、長期的な物価の変化を念頭に置いている。したがって金融市場の期待物価上昇率には影響はさほどないと考えられる。

*****

 以上を総括すると、消費税率の引き上げにより、2014、2015年度の消費者物価上昇率はかなりの高率となる可能性が高い。しかし、その経済へのプラス効果は、消費の前倒し(駆け込み消費)くらいしかない。その他の、企業・家計の債務負担軽減や実質金利の引き下げを実現するには、やはり消費税率の引き上げではなく、経済の実力で物価上昇率をプラスにしなければならない。(了)



★2013年2月14日『アベノミクスのまやかし;デフレ脱却すれども実質金利は下がらない』
 再び政権を握った安倍晋三自民党政権は、矢継ぎ早に「デフレ脱却策」を打ち出している。デフレ脱却に向けて@物価上昇率目標を掲げる一層の量的金融緩和、A積極的な財政政策、B成長戦略(産業強化)の「3本の矢」を謳っている。このうち成長戦略については、その中身には疑問符が付くが、産業を強化すること自体は誰も反対はしない。問題は、金融緩和と拡張財政の組み合わせ、すなわちアベノミクスの妥当性である。円安が進み、株価が急騰するなど市場は好感したが、この後は試練が待ち受けている。


(1)物価上昇率目標は毒にも薬にもならない
 アベノミクスの看板は、日銀に物価上昇率目標を設定させたことであろう。しかし、いくら日銀が2%の物価上昇率目標を掲げても、それを達成する術がない以上、何の意味もない。量的金融緩和によりベースマネーを増やしてもマネーストックが伸びないことは、既に歴史が証明している。
 ただし、物価上昇率目標を掲げても、特に弊害もない。だからこそ白川総裁も、しぶしぶ目標設定に踏み切ったのであろう。
 問題は、むしろ国債のマネタイゼーションにある。国債増発にあわせて日銀がベースマネーを供給し続ければ、国債発行に歯止めがなくなる。中央銀行が国債を直接引き受けるのと何ら変わりはない。その結果、怖いのは財政赤字に歯止めがかからなくなることである。

(2)補正で緩め当初は締める粉飾財政
 実際、財政政策は一挙に緩んでいる。補正予算で大盤振る舞いをしつつ、最も目立つ当初予算では引き締め気味にして「財政の健全化」に尽力しているふりをするなど、やり方が姑息である。カンニングにより単位を狙う悪質な学生と同列である。どうも自民党は、そうした悪知恵ばかり働かす癖がある。
 2013年度当初予算自体も粉飾気味である。経済危機対応予備費の全廃により9千億円を捻出したり、利払費の計算に使う想定金利を12年度の2.0%から1.8%に下げたりすることまでして、国債発行額を税収よりわずかに小さい43兆円弱に絞り込んで体裁を繕った。しかし、緊急経済対策を織り込んだ13兆円の補正予算により、2012年度の国債発行額は52兆円に膨らんでいる。おそらく2012年度の赤字は民主党のせいにする腹積もりなのであろう。

(3)デフレ脱却しても金利が上昇すれば意味がない
 アベノミクスの本質は、拡張財政と、それを可能にする日銀の資金供給増である。その帰結は、金利上昇である。これだけ政府債務が膨張した中で、さらなる支出増などの拡張財政を実施すれば、取り返しのつかないことになる。ギリシャやスペインと異なり、日本には巨額の民間純資産があり、国債の90%以上は国内で消化されるとはいえ、貿易赤字が長期化し、金融機関が国債保有のリスク認識を強めている中、金利上昇を阻むのは日銀とて難しい。
 仮にデフレ脱却が果たせても、その分金利が上昇すれば実質金利は下がらず、経済にとって何もよいことはない。今すぐにでも、財政拡張を止めさせねばならない。円安と株高に浮かれている場合ではない。安倍政権は、金融市場の怖さをもっと知るべきである。(了)


★2013年1月1日『安倍政権の困った人達;もう少し辛抱強くして欲しいのだが』

<新年おめでとうございます>
 
 大学での教育業務、行政業務に追われ、半年ほど本コラムの更新ができませんでしたが、その間にもずいぶんいろいろなことがありました。中でも総選挙の結果としての政権交代は、有権者の予想を超える経済政策の大転換をもたらしつつあります。それが良い方向のものなら良いのですが、どうやら相当な改悪であり、新年早々辛気臭いコラムを書かざるを得なくなりました。本年もよろしくお願いいたします。


(1)アベノミクスに対する懸念と失望
 2012年12月の総選挙で再び政権を握った自民党政権は、政権成立前から矢継ぎ早に「経済政策」を打ち出している。その旗印は「デフレ脱却」であり、その目標に向けて@インフレ・ターゲットを掲げる一層の量的金融緩和、A拡張財政政策、B産業(とくに製造業)の支援・保護、を謳っている。安倍政権は、「成長の為の3本の矢」と述べつつ、各政策には批判を浴びないように巧妙にオブラートがかけて上記とは異なる表現をしているが、そのアベノミクスの本質を集約すれば上記の3つの政策である。
 また安倍政権は、民主党・野田佳彦前首相が、文字通り政治生命をかけて、三党合意をもとに決めた消費税率の引き上げについては、いつでも停止できるよう伏線を張り、同じく民主党政権が進めてきたTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に対する態度も不明確である。
 こうした安倍政権の矢継ぎ早の政策転換に対して、一部の識者からは既に批判が出ているが、金融市場は素直に反応し、12月には株価上昇、円安が進んだ。財界も拍手を送っている。株価上昇、円安(円高是正)は、日本人全員が望むところであり、こうした市場の反応に安倍首相や火付け人と思われる麻生太郎財務大臣(兼金融担当大臣)は有頂天となっている。
 しかし、筆者は、危うさと失望を禁じ得ない。今歓迎されている諸政策は、近い将来取り返しのつかない弊害をもたらす懸念があると同時に、21世紀に入ってからの10年間に小泉純一郎政権と民主党政権が進めようとしてきた「経済構造改革」に逆行するものだからである。

(2)インフレ・ターゲティングと量的金融緩和の幻想
 量的金融緩和の効果が限られていることの説明に、いまさら紙面の多くを割く必要はなかろう。2001年以降のゼロ金利下での日本銀行による未曽有のベースマネー(ハイパワードマネー)の供給が、弱い銀行等の流動性セイフティーネットとしての役割以外の効果を何ももたらさなかったことは歴史が証明している。期待成長率が高まり企業の資金需要が拡大し、銀行等の貸出が拡大しない事には、日銀が供給したマネーが非銀行部門に行き渡らないことは明らかである(詳細は拙著『中小企業金融のマクロ経済分析』)。マネーストックの停滞、デフレの根本原因は、日銀の努力不足にあるのではなく、企業等の資金需要の乏しさにある。
 安倍首相は、「日銀が一時的に金融緩和の手を緩めたことがデフレが続いた原因だ」と言っているが、これは詭弁である。リーマンショック後は、信じられないペースでリスク資産を含む金融資産を購入し、金融市場に資金を供給しているからである。
 また、より企業や家計の資金需要が旺盛な米国でも、QEVに至った量的金融緩和が実体経済を刺激するに至らなかったとの見方が広がり、バーナンキFRB議長に対する批判が起こっている。資金需要が乏しく、金利も下限のゼロにある日本においては、量的金融緩和の効果がより小さいのは当然である。
 こうした状況下で、いくら日銀が物価上昇率2%を目標にベースマネーを供給しても意味がない。インフレ・ターゲティングは、市場や経済の参加者が目標を共有して、期待物価上昇率を高めて初めて効果を持つ。
 ただし、インフレ・ターゲットを掲げ、量的金融緩和を推進しても、効果はないものの、さして弊害もない。経営努力をしない銀行がぬくぬくと生き残るモラルハザードが少々生じる程度である。だからこそ効果がないとわかっていながらも、白川方明日銀総裁は量的緩和を進めてきたのであろう。

(3)拡張財政の弊害:金利を低位に抑えるのは至難の業
 量的金融緩和、インフレ・ターゲット設定にさほど効果がないことは、安倍首相も麻生財務・金融相も知っているであろう。それなのに、安倍首相が、日銀法改正をちらつかせながら執拗に中央銀行の政策決定に介入するのは、財政赤字の中央銀行ファイナンス(すなわち国債のマネタイゼーション)が狙いであろう。おりしも、麻生財務・金融相の癖・趣味とも思える拡張財政(公共支出増・減税・補助金ばらまき)の伏線が張られつつある。麻生政権時に実施されたエコカー減税・補助金が、単に“一時的な”自動車販売拡大をもたらしただけであったことの反省はないのであろうか? まさに、眠気を覚ます為にカフェインを採っても、数時間後にはもっと眠くなるのと同じである。
 自民・公明連立安倍政権は、衆議院で圧倒的な多数を握っているため、参議院で若干の譲歩をすれば、予算をはじめとする拡張財政政策を批判はあってもいくらでも実現できる。しかし、その際に怖いのは、市場の反応、すなわち国債金利の上昇である。それを避けるために、日銀に打ち出の小槌の役割を期待しているのである。
 これだけ政府債務が膨張した中で、さらなる支出増などの拡張財政を実施すれば、取り返しのつかないことになる。ギリシャやスペインと異なり、日本には巨額の民間純資産があり、国債の90%以上は国内で消化されるとはいえ、貿易赤字が長期化し、金融機関が国債保有のリスク認識を強めている中、金利上昇を阻むのは日銀とて難しくなっている。(政府債務の膨張がいかに危険かは、2013年3月、ダイヤモンド社から発刊予定の拙著ご参照。)
 「国債の増発と国債の日銀保有増」というアベノミクスは極めて危ない道である。今すぐ止めさせねばならない。

(4)経済構造改革への逆行:保護は産業改革の邪魔をする
 日本経済が失われた20年から脱するには、マクロ総需要策(すなわち金融緩和と財政拡張)ではなく、産業構造強化(活性化)が不可欠である。デフレ、労働市場の悪化(若年正規雇用の減少)、企業の設備投資の低迷の根本原因である需給ギャップを根本的に解消するには、一時的な需要の拡大ではなく、供給の質の改善により民間の潜在需要を引き出すしかない。すなわち、産業構造強化策しかなく、これこそが構造改革の1丁目1番地である。麻生財務・金融相は、選挙時に「政策の1丁目1番地は景気」と連呼していたが、これは意味のない発言であるだけでなく、ここでいう「経済構造改革を否定する考え方」であることを見抜かねばならない。
 こうした産業構造改革は、小泉政権時にも企図された。しかし、小泉政権は郵政民営化、道路公団民営化、地方財政の改革(三位一体改革)に力を使いすぎ、産業構造の転換は果たせなかった。その後の3人の自民党首相は、産業構造改革の問題意識が薄かった。民主党政権は、経済構造改革と財政再建が必要であるという問題意識は持っていたが、政権運営の稚拙さと党内の分裂により消費増税以外は何も成果を示せなかった。
 ここでいう産業構造改革とは、ベンチャー企業が誕生し、不振企業が有望業種に転換し、有望業種に優秀な人材が移動することを促進することである。その過程で再生できない不振企業が市場から退出するのは仕方がない。こうした状況を作り出すには、競争力の乏しい産業・企業に対する保護を徹底的に排除し、規制緩和と労働市場の流動化を計り、TPPなどを梃に国際競争を促進することである。これにより産業の新陳代謝が進み、日本国内の産業が有望産業に自然にシフトする。
 安倍政権は、どうやらこうした政策理念と逆のことをやりたいようである。大晦日の日経新聞によれば、政府は、産業競争力強化法なる法律を作り、製造業等を公的資金で支援・救済する方針らしい。「競争力強化」「産業強化」「成長戦略」という美辞には賛同が集まりやすく、産業界は当然歓迎する。しかし、騙されてはいけない。これは「税金による産業保護」に過ぎず、弱った産業を温存し、資源の最低配分を阻害し、国民負担を増やしかねないことをよく考えねばならない。
 麻生財務・金融相は、首相時代にエルピーダメモリーを破綻させずに公的資金を投入した。同社の破綻により、この公的資金は、結局ドブに捨てられただけであった。麻生財務・金融相は、まずこの不始末をどう評価するのか語る義務がある。また、麻生財務・金融相は、中小企業保護の為に信用保証協会の全額保証制度を復活させた。これが間違った策であったことは、今や専門家の間では常識である。
 昨年、不振の電気業界の大企業などからスピンアウトした若者が、先端分野でベンチャー企業を起ち上げるといった勇気づけられる動きが多く見られた。こうした芽生え始めた新陳代謝が、安倍政権の保護政策で潰されかねない。もう少し地道に構造改革を続けられないものであろうか。
 安倍政権の政策は、危ういだけでなく、これまでの地道な努力を台無しかねない。是非再考してほしい。 (了)


★2012年7月24日『教科書どおりのEUの金融システム統合:統合への欧州のモメンタムを侮ってはいけない』
 欧州が統合の新たなステップを踏み出した。6月末のEU(欧州連合)首脳会議において、域内の銀行監督・預金保険などの金融システムの一元化(銀行同盟)を計ることが決定されたのである。PIIGS諸国の信用危機にあえぐ欧州は、危機の収拾策を模索する一方で、したたかに統合の深化と通貨統合の完成への歩みも怠らない。

(1)PIIGS信用危機の処理には財政負担がつきもの
 2009年10月にギリシャの財政赤字の粉飾が発覚し、これを機にPIIGS諸国(ポルトガル、イタリア、アイルランド、ギリシャ、スペイン;ユーロ参加国の中の劣等国)の信用不安(国債のデフォルト懸念、不動産バブル崩壊による銀行不良債権問題など)が深刻化し、欧州、世界はこの3年近く、このPIIGS問題に悩まされてきた。この間、ECBは思い切った金融緩和を実施し、ギリシャ向け債権の削減交渉がなされ、ギリシャ支援資金がEUやIMFによってかき集められた。すなわち、危機国の流動性を補うことと、全面的なデフォルトを回避することに力が注がれてきた。国であろうと企業であろうと、信用不安(すなわち債務を返済できないのではないかという不安)が生じると、資金調達が滞り、必ず流動性不足(リキディティー問題)に陥る。この為、信用不安を抑えるには、とりあえず外部から流動性を供給してあげねばならない。
 いずれの国の中央銀行も、金融機関が流動性危機に陥れば、その国の金融秩序と市場を守るために「最後の貸し手」として危機に陥った金融機関に流動性を供給する。実際に日本でも、1990年代末には金融機関の破綻懸念が頻発し、都度、日本銀行は特別融資を行った。EUの場合、ギリシャに対し債務削減と同時に欧州安定メカニズム(ESM)やIMF(国際通貨基金)が、総額1.3兆ユーロに上る支援資金を用意したのも、とりあえず流動性危機を抑える為である。
 しかし、流動性を補うだけで信用危機は解決しない。根本原因が政府や民間部門の過剰債務(ソルベンシー問題)にあるのであれば、債務削減か資本注入が必要である。ギリシャの場合は、国債の問題である為「債務削減」がなされ、スペインの場合はバブル崩壊による民間債務と民間銀行の不良債権の問題であるため金融機関への資本注入が求められる。形態は異なるが、いずれも支援する側に財政負担が生じる点がポイントである。
 すなわち信用危機の解決には、金融的な措置だけではなく財政的な措置が必要なのである。90年代末〜21世紀初頭、日本では多くの金融機関に公的資金が注入され、これを持ってバブル崩壊・不良債権処理はようやく最終章を迎えた。PIIGS危機も公的資金の注入がなされれば、患部にメスが入ることになる。しかし、財政措置には国民のリスク負担が伴い、議会の議決も必要となる。EUの場合は寄り合い所帯である為、「国家主権の委譲」が必要になる。これが、財政統合が必要になる所以である。

(2)一つの国になるには通貨は一つ、財政・金融政策は共同運営が不可欠
 EUの統合の歴史は、多くの異なる国が一つの合衆国となるための条件を、少しずつ埋める過程である。この壮大な実験は、しばしば暗礁に乗り上げ、進展には気の遠くなるような時間がかかるが、長期的には統合度は徐々に高まってきている。
 EUは、1993年に市場統合を完成させ、モノ・資本の移動を自由化し、加盟国の諸経済制度の統一を図った。これで単一市場としてのEUの基礎が築かれた。しかし各国の通貨が異なる限り、為替変動リスクと外貨取引コストは避けられない。物価水準など経済状況が収斂しない為、一物一価を前提とする真の「単一市場」は形成されない。したがって、単一市場の完成を希求するのであれば、通貨を統合は不可避である。こうした思いから、EUは1999年、通貨統合を果たし単一通貨ユーロが誕生した。「通貨統合は市場統合の完成の手段」と言われるのはこうした論理による。
 この結果、少なくともユーロ17カ国については、経済システム上は大まかに言えば単一市場が実現している。もちろん各国間の法制度や物価水準、要素価格が異なり、厳密には単一市場ではないが、それは米国やロシアのような合衆国・連邦にもみられることである。
 しかし、通貨統合は他の側面で高度な条件を突きつける。ユーロ諸国は自国の金融政策を失い、通貨切り下げの手段を失うため、財政政策に経済成長促進の役割が過度に期待されることになる。これがユーロ圏の劣等国の財政赤字拡大を招き、ギリシャなどPIIGS諸国の信用不安をもたらした。そうした可能性は通貨統合前から指摘されていたが、懸念に目をつぶりつつ大きな目標の達成を優先した形である。
 しかし、通貨統合の問題点が発覚してしまっただけに、急いで条件を整えねばない。その第1の条件が、財政統合である。すなわち、ユーロ共同債の発行や、ユーロ圏内の財政移転の拡大である。財政統合は、国家主権の委譲とドイツなどの優等国の負担増をもたらす為、そう簡単に進展しないが、2012年1月と6月の首脳会議を経て、少しずつ議論が熱を帯びてきている(2012年1月31日本コラム参照)。
 第2の条件が金融システムの一元化である。前述のとおり、信用危機を収拾するには流動性の供給だけでなく公的資金注入等による資本措置が必要になる。その資金はユーロ圏(あるいはEU)全体で負担することになる為、そうした信用危機への対応も一元化しなければいけない。金融プルデンシャル政策(金融システム安定化策)の事前的措置である銀行監督と事後的措置である預金保険制度をユーロ圏(あるいはEU)で統一するという考えは極めて妥当である。

(3)苦肉の策ではなく綿密に練られた長期計画?
 6月の首脳会議前に急浮上した銀行同盟などの「金融システム一元化」に関する構想は、単に信用危機収拾の為の苦肉の策ではなく、「市場統合⇒通貨統合⇒財政統合⇒金融システム統合」という一連のアクションなのである。EUの経済統合の歩みは、経済政策・経済統合論の定石に則った、きわめて理にかなったオーソドックスなものである。
 すなわち、EUはギリシャ危機、PIIGS問題といった目の前の危機を収拾する中で、経済統合の完成に向けての歩みを続けている。もちろん、EU諸国がすべてお見通しのうえでそうした過程を歩んでいると見るのは、あまりにEUを買い被りすぎである。ギリシャ危機もPIIGS問題も、EU諸国にとって予想以上に厳しいものであり、その収拾にまさに右往左往しているのが現実であろう。しかし、EUはこうした事態も少しは想定しつつ、水面下でシナリオを描いてきたのではないかとも思う。
 「通貨統合は失敗であった」「異なる国が通貨を共有するのにはやはり無理がある」などと批判することは容易い。ほとんどの論者は、したり顔で「それみたことか」とユーロの崩壊を予測する。しかし、様々な障害をも想定しつつ、のらりくらりと経済統合を進めてきたとすると、「EU畏るべし」である。不気味なほどの周到さ、粘り強さである。
 「矛盾に満ちたユーロ」と「したたかなユーロ」のいずれを信じるかは論者の欧州観に依る。筆者はこれまでの欧州の長期的な構想力を見ると、後者の見方に傾く。そうした見方を信じれば、「ユーロの為替レートもそろそろ下げ止まり」ということになろう。(了)



★2012年5月19日『ギリシャのユーロ離脱:最大の問題はギリシャ企業の対外債務負担』
 本欄にギリシャの事を書くのは買3度目である。1度目は、2010年4月19日付けコラムにて、「ユーロ不安・PIIGS問題から脱するにはギリシャがユーロから離脱すべきであり、その為の離脱システムの構築を急ぐべき」と記した。2度目は、2012年1月31日付けコラムにて、「財政協定の強化により、ギリシャ等劣等ユーロ参加国が厳しい緊縮財政や制裁に耐えられず、自らユーロから離脱する可能性も現実味を帯びる」と予想した。
 現実は、上記2コラムと同様の方向に進みつつある、といえよう。では、実際にギリシャはどういう方法でユーロを離脱し、新ドラクマを導入していくのか、また離脱によりどのような問題が生じるのであろうか。いずれも不明な点ばかりであるが、想像を逞しくして書いていこう。

(1)ユーロ離脱は国家誕生・分裂時と同じであり難しくはない
 まず、EU(欧州連合)には「ユーロからの離脱」の規定はなく、離脱したければEUから脱退するしかない、といわれる。しかし、EUに留まったままユーロ離脱が可能との解釈もあり、その決着は法解釈に委ねられる。むしろ、EU内での政治的決着に委ねられるといった方がよいかもしれない。ギリシャは、ユーロ離脱に踏み切ってもEUに留まりたいであろうが、EU域外の国々はもちろん、他のEU諸国にとってもどちらでもよいことであろう。
 では実際にユーロを離脱し、新通貨(仮称「新ドラクマ」)をどのように導入するのであろうか。一部には、新ドラクマ導入の際に、大きな混乱が生じるといた懸念がある。ユーロ通貨にスタンプを押し、期間を決めて新ドラクマと交換するといった憶測も飛び交っている。しかし、筆者は大した混乱は起きないと思う。また、スタンプを押して交換をするといったことも必要ないであろう。
 なぜなら、ギリシャがユーロから離脱すれば、ユーロはギリシャの法貨ではなくなり、新ドラクマが法貨となるが、ユーロという通貨がなくなるわけではないからである。新ドラクマとユーロとの交換レートができ、これが日々変動することにより、経済活動には様々な影響が及ぶが、逆に言えばそれだけのことである。通貨の消滅、通貨統合、デノミなど新旧通貨の交換においては、旧通貨を失効させねばならないが、通貨の分離においては通貨が併存すればよいだけの事である。
 現在でも、発展途上国の多くではドル等の国際通貨が大手を振って流通し、利用されている。ギリシャも、そもそも預金・貸出といった非現金取引は、引き続きユーロ建てが残るであろうし、現金についてもしばらくは国内でユーロを通用させればよい。
 これまでもチェコとスロバキアの分離、旧ユーゴスラビアやソビエト連邦の分裂において、新通貨導入による混乱が生じたとい話は聞いたことがない。また、戦後、植民地の独立時に新通貨が誕生する際にも、それほど苦労したわけではなかろう。

(2)巷間指摘される経済へのダメージは的外れ
 第1は、新通貨ドラクマの為替レートが急速に下落するという懸念がある。ギリシャの信用力の低下が原因となったユーロ離脱なのであるから、新通貨ドラクマの信認が低いのは間違いない。この為、新通貨発足後、徐々に新ドラクマはユーロに対して低下していくであろうが、発足直後から大幅に低下する理由はない。そもそも新ドラクマの為替レートは、発足時には何の意味も持たない。2001年1月1日の通貨統合参加時の交換レートである1ユーロ=340.75ドラクマを用いてもよいし、1ユーロ=1ドラクマとしてもよい。新ドラクマの価値は、誕生後決まっていくのである。
 新ドラクマの対ユーロ為替レートが、徐々に低下するのであれば、これはギリシャ産業の国際競争力を高めることになろう。今回のギリシャ危機の根本原因に、通貨統合によって為替レート調整ができなくなったことがあるが、ユーロ離脱によりギリシャはそうした呪縛から解き放たれるのである。
 第2は、インフレになるとの懸念である。上記のとおり、新ドラクマの為替レートが急落すればインフレ圧力が生じるが、そうなる必然性はない。確かにユーロ離脱後のギリシャは供給不足であろうし、自由度を得たギリシャ中央銀行は金融緩和で経済を支えようとするであろう。これらはインフレ要因である。しかし、こうしたインフレ体質は二流国に一般的なものであり、ユーロ離脱のせいではない。

(3)ユーロ離脱の真の問題は
 離脱後徐々に新ドラクマが減価することによる最も深刻な影響は、ギリシャ企業等のユーロ建ての債務負担が増すことである。国際的な企業でユーロでの収入が多いのであれば問題はないが、国内の活動が中心で、収入の源泉が新ドラクマ建てであれば、ユーロ他の外貨債務の返済負担がのしかかる。この結果、多くのギリシャ企業が倒産するであろう。
 ギリシャ政府とて同様である。債務のほとんどはユーロ建てであり、ユーロ離脱後は、新ドラクマ建ての税収を原資に元利金を返済していかねばならない。政府は倒産することはないが、元利金返済ができないデフォルトに陥る懸念が増す。
 また、新ドラクマの信認がユーロに比べて低いため、海外からの資金調達が著しく困難になると予想される。通貨がユーロであれば、ギリシャ経済への不信があっても、ギリシャ政府や企業が発行するユーロ建て債券や借入の為替リスクは小さい。しかし、新ドラクマ建て債券・借入の為替リスクは、ギリシャ外の投資家・金融機関にとっては格段に大きくなる。この結果、ギリシャの政府や企業の資金調達力が大幅に低下すると予想される。
 ギリシャ産業の国際競争力向上と金融政策の自由度の復活を考えれば、ユーロ離脱は総合的にはギリシャに恩恵をもたらすと考えるが、ギリシャ企業の債務負担の増加と資金調達力の低下は、相当な負担となることも否めない。(了)


★2012年4月6日『人民元国際化の真の目的は国内市場改革?』

(1)人民元国際化の為の相次ぐ策
 中国政府(人民銀行)が、次々と人民元国際化の為の策を打ち出している。2007年4月、中国の金融機関の香港での人民元建てオフショア債券(点心債)発行が可能となり、その後点心債は順調に拡大している。
 2009年7月2日、中国人民銀行・金融当局は、クロスボーダー決済における人民元の使用を解禁した。当初は業者を限定しての解禁であったが、徐々に拡大され、2012年3月からは全面解禁となった。この結果、中国の貿易に占める人民元建て決済の比率は、2010年の2.6%から、2011年には9.4%に高まっている。
 2011年1月には、人民元建ての対外直接投資が一部解禁された。2011年10月には、外国資本の対中国直接投資も解禁された。また上海市では。人民元建て対外非貿易債務が認められることになった。さらに、昨年末以降、人民元のオフショア市場を日本に開設するプランも議論されている。
 どうみても、中国政府の人民元国際化戦略は本気である。

(2)通貨の国際化の利得・損失
 通貨の国際化の損得については、議論は必ずしも収斂していない。
 メリットとしては、@自国民・自国企業の貿易・投資における為替リスク・外貨取引コストが軽減されること、A海外からの資金調達が容易となり、調達コストも軽減されること(通貨発行益、Seigniorage)、B国内金融市場の発展、C自国金融機関の収益機会拡大、等があげられる。いずれも抽象的ではあるが、相応の意義がある。Aは経常収支黒字の間にはあまり必要ではないが、米国のように赤字国であれば大きな意味を持つ。米国の輸入決済の多くは、ニューヨークの銀行のドル建て預金においてなされるため、米国が輸入決済資金に窮する可能性は少ない。またほぼゼロ金利で海外から資金を調達することになり、そこで生じる金利差は米国の所得となる。
 他方、通貨国際化のデメリットはさほどない。国内金融政策が攪乱されるという説があるが、金融政策の自由度は、内外資本移動の自由度や通貨制度に依存し、通貨国際化とは直接関係ない。米国は、その通貨が世界の中心であることにより、世界の金融政策に影響を与えるが、米国の金融政策が攪乱されたという話は聞いたことがない。
 総合すれば、通貨国際化のメリットが勝る。筆者は、1990年代後半に政府の「円の国際推進委員会」の委員として円国際化の旗を振っていた。1999年には『ユーロと円』(日本評論社)との本も出版した。すなわち、長年にわたり「円国際化」のメリットを説いて回る立場にあった。メリットを説明するのは容易でないが、確かにある。
 しかしそうした通貨国際化推進派からみても、国際化は「しないよりした方がよい」といった程度である。眉をひそめて命を懸けて進める程の目覚ましい利得はない。そんなことは中国もわかっているはずである。いくらメンツにこだわる国とはいえ、メンツだけの為に人民元の国際化といった難しい課題に手を染めるのは、どうも解せない。おそらく、何か他に狙いがあるはずである。

(3)通貨国際化の条件にヒントが
 通貨が国際化するには、@国内の金融市場の自由、A内外資本取引の自由、といった「利便性」に係る条件が揃っていなければいけない。ただし、これらの条件が揃っても国際化が進むわけではなく、輸出入・資金貸借の相手方がその通貨を用いたいと考えるかどうか(通貨の受容性)こそが重要である。
 受容性は、その通貨の使用機会の多さと信認が鍵を握る。具体的には、B十分な経済規模(貿易、国際投資、国内金融資産の規模)、C通貨に対する信認(物価、為替レートの安定)、D経済外の国力(軍事・政治力など)、が必要である。
 上記について、中国人民元は、BCDの受容性に関する条件については、国際通貨となる資格を有している。これらだけであれば、人民元は既にドル、ユーロに準ずる位置にある。
 しかし、@Aの利便性については、人民元は日本円・英ポンド・スイスフランにもはるかに及ばない。すなわち国内金融市場と内外資本取引の自由度が、人民元の国際化を阻んでいる。逆説的にいえば、中国が人民元国際化に取り組み始めたのであれば、それは中国が国内金融市場と内外資本移動の自由化に踏み切ったことを示す。

(4)金融自由化を図る理由
 中国政府が国内金融市場の自由化を図る理由としては、バブルをうまくコントロールしたいことがあろう。旺盛な国内需要と潤沢な投機マネーを背景に、中国では常に不動産バブルと物価上昇が起こりがちとなる。これを抑えるために政策金利を上げれば、海外からの資本流入が拡大し、人民元の上昇がもたらされるというジレンマが生じる。このため、中国では先進国ではあまり用いない預金準備率の引き上げによりマネーの勢いを抑制せざるを得なくなる。これは中国の金融市場のメカニズムが十分に整備されておらず、金融政策が機能しないことを示している。
 こうしたジレンマから抜け出すには、金融市場を自由化して、金利機能を通じて需給の調整ができるシステムを構築しなければならない。この過程ではときに金利が大きく上昇する為、不振企業等の負担が増す。この為、大きな反発が生じる懸念がある。こうした状況を展望して、政府は人民元国際化の看板を掲げて、そうした批判の矛先をかわそうとしているのではないか。
 内外資本移動の自由化を進めれば、中国への資本流入は勢いを増し、人民元為替レートは上昇するであろう。資本移動の自由化に伴い、為替管理は緩和・撤廃せざるを得ず、早晩、中国は変動相場制を採る国とならざるを得ない。
 人民元高は、数年前までは輸出立国の中国には許容できないものであったろうが、おそらく今は事情が変化している。管理為替制度の下で人民元高を抑制する為の人民元売り介入により外貨と国内流動性の増加には歯止めがかからず、国内経済の調整や対外資産の管理に支障をきたしている。産業界では、輸出も大事だが、企業買収など海外投資も重要になってきており、その為には人民元高が好感される。共産党一党体制が揺らぎを見せる中、国民に経済成長の成果を実感してもらうには、人民元高による購買力の向上が有効である、という事情もある。
 すなわち、中国は、人民元上昇を容認しながら、国内の金融市場を高度化する為に、人民元国際化の旗をあげているのではないだろうか。(了)


★2012年2月24日『東京電力;破綻後の国有化を再度求める』


 (1)いつの間にか消えた破綻(法的整理)論
 2011年5月14日の本コラム『東京電力;株主責任を問わないのはおかしい』にて、筆者は「東京電力を破綻(法的整理)させてから一時国有化すべき」と強く主張した。その後、そうした議論が政府や産業界・金融界以外からは少なからず出たが、いつの間にか下火になり、2011年8月の原子力損害賠償支援機構法の成立により封印されてしまった。奉加帳方式で東電を救済するこの意味不明の法律の目的は、ひとえに東電を破綻させないことである。
 2月14日には、経済産業大臣が、東電への公的資金注入に際し、「国が3分の2以上の議決権を得ること」を条件とすると宣言した。東電や財界は、「民間でなければ活力が失われる」といった少々苦し紛れの論を盾に、なんとか国有化を阻止しようとしている。
 しかし、この議論は明らかに政府に分がある。「電力を安定供給しつつ、巨額の損害賠償を行い、原子炉の安定化や廃炉も進める」という難行を、既得権と身内の利益に未だ拘る東電に任すことは有り得ない選択だからである。国有化すればうまくいく保証はないが、公的な課題は、やはり政府が指揮をとるべきである。
 このように政府が、経営権を持つに足る普通株を保有するのは賛成である。だが、一つ抜け落ちた議論がある。法的整理の議論である。

(2)損害賠償と除染費用を考えればすでに債務超過
 将来にわたっての巨額の賠償負担を考慮すれば、東電はすでに債務超過であり、財務上は破綻している。原子力損害賠償法に則れば、10兆円以上に上る賠償の責任は、一義的には東電にあると考えざるを得ない。明治三陸地震の経験等を考慮すれば、福島第1原発の事故が「異常に巨大な天災地変」とは言えないからである。
 東電は諸費用を小出し計上することで当座の債務超過を免れようとするが、その結果補償と除染が進まずそのツケは福島県の住民が負っている。また、現東電にこのまま公的資金を注入すれば、返済されず国民負担となる懸念が高い。電気料金を少々あげても、数10兆円に上るといわれる補償や除染の費用を負いつつ利益を上げ、公的資金を返済するのは不可能である。また、実質債務超過であるから、民間銀行も追加融資できない。
 優先すべきは、株主や債権者を守ることでなく、早急に補償と除染と廃炉を進めることである。その結果、東電が債務超過になるのなら、粛々と破綻認定し100%減資をして株主責任を問うべきである。

(3)100%減資して国有化・再生が正しい道
 もちろん電力事業は誰かがやらねばならないので、破綻させて新会社に事業を移すのが筋である。すなわち、まず100%減資をした上で増資をして、その新東電の株式を政府が保有し国有化すべきである。閣僚などがしばしば、「東電を破綻させるわけにはいかない」というが、これは間違いである。「電気事業は誰かがやらねばならない」のは正しいが、現在の東京電力株式会社そのものが担う必要はない。
 なお、国有化の際に、発送電を分離し、売却できる事業は民間に売って国民負担を軽減することは重要である。
 政府は、国有化の成功例として「りそな」を挙げるが、むしろ政府の管理下で破綻させ再建を図ったダイエー・カネボウ・日本航空の例こそ参考にすべきである。あるいは株主責任をとらせた上での再生というシナリオは、長銀・日債銀の事例が参考になる。

(4)法的整理の利点と留意点
 法的整理をすれば、債務が減額され新東電の財務は改善する。これは債権者には痛手だが、新東電が安定的な資金を調達するには好都合である。
 なお、法的整理をすれば、銀行などの貸し手とともに、損害賠償の対象となる被災者の債権も傷つき、賠償支払いが滞るという指摘がある。また、現行法では巨額の社債の方が銀行や被災者等の一般債権より優先され、資産は社債の返済に充てられ、賠償対象者の取り分はほとんど残らないといった指摘もある。これは本末転倒である。賠償を速やかに進めることが何よりも重要なのであるから。
 このジレンマを解決するには、東電の破綻によって毀損する被災者の債権は、不足分を国が補填するといった措置が必要であろう。財務省は嫌がるであろうが、そうでもしないと賠償はいつまでたっても終了しない。
 このまま東電に資本注入しても、おそらく事態は収拾しない。賠償は進まず、早晩、東電の破綻懸念がささやかれ、さらなる電気料金の値上げ案が出てくるであろう。それを避けるには、まず法的整理をすることが不可欠である。(了)


★2012年1月31日『ユーロ復活の決め手は健全財政義務化によるつるし上げしかない』
 ユーロの下落に歯止めがかからない。EFSF・ESM等の資金供給の為の基金を設けても、ECBが派手に資金供給しても、当座の流動性は補えても、劣等加盟国の財政危機脱出の青写真が描けない限りユーロの軟化は止まらないであろう。危機脱出には、通貨統合における根本的な矛盾を是正するしかない。財政悪化国に厳しい罰則を科す財政協定の締結と厳格適用が、唯一の避難口ではなかろうか。

(1)流動性危機ではなく支払い能力の欠如が問題

 この2年間、EUはPIIGS問題に翻弄されてきた。度重なる議論を経て、ECBが巨額の資金供給を続け、ギリシャの債務削減を調整し、参加国が危機国に資金供給する為のEFSF(欧州金融安定基金、4400億ユーロ)を設立し、参加国が出資する恒久的なESM(欧州安定メカニズム、5000億ユーロ)の設立も決まったが、危機はいっこうに収まらない。ユーロの為替レートは、とうとう1ユーロ=100円を切るところまで低下した。

 1月13日には、格付け会社のS&Pが、ギリシャ(CC)に続きポルトガル、キプロスの国債の格付けを投資不適格レベルであるBBに引き下げた、PIISGSを支援する側であるフランス、オーストリアの国債格付けもAAAからAA+に引き下げた。

しかし、ユーロ危機はとどまる気配がない。ユーロ共同債発行を求める声も多いが、その実現性は乏しく、また実現しても根本的な解決にはならないであろう。当初からわかっていたことだが、PIIGSの根本問題は、流動性(liquidity)不足にあるのではなく、支払い能力(solvency)、すなわち財政赤字問題に根差すからである。重要なのは、「危機に陥った国にいかに金を貸すか」ではなく、「金を借りすぎた国の債務をいかに処理するか」「いかに債務を減らすか」である。これは不良債権問題への対応にも通ずる公理である。

 
(2)危機脱出の為の3つの選択肢
 では、ユーロ圏のPIIGS諸国はなぜ財政赤字にまみれたのか。それを突き止めなければ、処方箋は書けない。どうやらその根本原因は、通貨統合そのものにある。
 筆者は、通貨統合はEU諸国にとって正しい選択であり、これが無ければ欧州の復権はないと考えるが、やはり理にかなっていないと歪みが出る。もっとも深刻な歪みは、参加国は競争力格差がある中で政策のツールを失い、なおかつ参加国間の財政移転も無いことである。ユーロ参加国は、金融政策と為替レート調整策を失ったため、景気安定化、経済成長促進の為に、自ずと財政政策に頼りがちとなる。これが競争力の弱いPIIGS諸国等の財政赤字が膨れ上がる原因となった。
 この問題に対応するには、3つの方法しかない。
 第1は、財政統合である。つまりユーロ参加国の財政赤字を補うために、参加国が財政移転を行うことである。単に赤字を貸出によってファイナンスする為のファンドではなく、移転(贈与)に埋めることである。日本の地方自治体の赤字を補うための地方交付税のような仕組みである。EU内ですでにその為の議論はかなりなされているが、これが通る可能性はほとんどない。劣等国の赤字を優良国の税金で埋めるとなれば、ユーロ圏が一つの国のような位置づけとなる覚悟が必要である。政治統合がなされていない事、各国の民族・文化などの多様性を考慮すれば、ユーロ圏が完全に運命共同体となるのはほとんど不可能であろう。
 第2は、劣等参加国を「除名」する措置である。マーストリヒト条約では、通貨統合に参加する際には経済収斂基準をクリアし、ユーロに参加してからも安定・成長協定を守らなければいけないと定めている。しかし、劣等国をユーロから追い出す規定はない。ギリシャについては、参加時の虚偽申告をあげつらいユーロ参加を遡って取り消すことも可能であるが、これは粉飾を行っていたギリシャ以外には適用できないであろう。 
 第3は、劣等国の放漫財政を是正する措置である。これはすでに安定・成長協定という形で存在しており、これを厳格に適用することは現実的である。

(3)放漫財政への罰則が決め手
 1月25日、EU財務相理事会は、ハンガリーを安定・成長協定(財政協定)に違反したと認定し、ハンガリーは初の協定違反による制裁の対象となった。安定・成長協定は、加盟国に財政赤字のGDP比を3%以内に収めることを求めるものであり、昨年12月の改定により財務相理事会での逆多数決制(反対多数とならない限り発動)が導入され、制裁発動が容易になった。
 さらに1月30日のEU首脳会議では、英国・チェコを除く加盟25か国 に憲法や関連法の改正により均衡財政を義務付け、その努力を怠った国にはEU司法裁判所が制裁金の支払いを命令できるようにすることになった。
 ハンガリーは通貨統合に参加していないので、制裁を受けてもユーロの信認に直接影響は与えないが、ユーロ参加国のギリシャなども違反と認定され預託金が徴収されることになれば、これはユーロに大きく影響するであろう。おそらく最初はユーロが売られるが、制裁が発動する頃にはユーロへの信認が高まり、ユーロ高に反転する可能性も十分ある。
 また、そのような厳しい緊縮財政や制裁に耐えられず、ギリシャ等劣等ユーロ参加国が自らユーロから離脱する可能性も現実味を帯びてくる。

(4)矛盾が行き着けば理を通すヨーロッパ
 救いは、ヨーロッパは、矛盾や問題点が行き着くところまで表面化すると、最後に「理」を通す傾向があることである。市場統合の際にも、通貨統合の際にも、いつも筋論を打ち上げてから妥協点を探って合意し、矛盾をはらんだまま実施し、矛盾が行き着いた時には再び筋論を持ち出して是正してきた。その結果、数十年をかけて統合の「深化と拡大」を実現してきた。
 今回も、通貨統合の矛盾が行き着くところまで来たため、ようやく矛盾を取り除く議論が進む状況になってきた。その道筋が明らかになったとき、ユーロは下げ止まり、ユーロ圏経済は安定を取り戻すであろう。それは、あまり遠い事ではないであろうと思う。
 ユーロ圏を離脱しそうな国の債券は避けなければいけないが、ユーロ圏に残る国の債券には投資してもよさそうである。そのタイミングを、投資家はきちんと見定める必要がある。(了)


★2012年1月20日『貿易赤字転落は日本経済の行く末の分岐点』
(1)2011年の貿易収支が31年ぶりに赤字に
 2011年の日本の貿易収支は、約2.4兆円の貿易赤字となったようだ。赤字は第2次石油危機時の1980年以来、31年ぶりである。東日本大震災後の原発停止に伴う火力発電用の液化天然ガスの輸入急増と、欧州危機等による円高に伴う輸出低迷が主因である。今後、円高が長引きそうなこと、製造業の海外生産シフトが加速していること、新興国での供給体制の裾野が広がってきたことを考えると貿易赤字は一過性のものではなさそうである。
 果たして、日本の貿易収支が赤字になることは何を意味するのであろうか?

(2)経常収支も10年以内に赤字に?
 「黒字国日本」というイメージは、長らく維持してきた巨額の貿易黒字によって形成されてきた。しかし、海外部門から得られる所得の大小、海外からの資金調達の必要性、円の需給に関係するのは、貿易収支ではなく、サービス収支、所得収支を含めた経常収支である。日本では、とかくモノづくりが重視され、サービスや金融による所得は軽視されがちであるが、上述のような経済的な意味は同じである。
 日本の国際収支をみると、所得収支は2005年に貿易収支を上回り、2007年には16.3兆円まで拡大した。その後、リーマンショックによる諸外国の金利・株価の低下や円高により頭打ちとなり、所得収支黒字は2011年には約11兆円に縮小したが、世界最大の対外純資産残高(2010年末251兆円)を背景に今後も高水準を維持するであろう。
 他方、特許料・国際運賃や海外旅行などの受払いからなるサービス収支は、日本の場合は一貫して赤字である。今後、貿易収支が赤字基調となるのであれば、「財・サービスの収支」は恒常的に赤字になる。すなわち、日本の国際収支は、すでに財・サービスの赤字を所得収支黒字で補う構造になっている。これは、B.クローサーが唱えた国際収支の発展段階説に則れば、日本は「未成熟債権国」から「成熟債権国」に移行したことを意味する。
 今後、日本がいつまで経常収支黒字を保てるかは、所得収支の黒字が相応の水準を維持できるか、ひいては日本の対外資産の収益率がどの程度であるか、に経常収支黒字がいつまで続くかがかかっている。経常収支は、2011年には約7兆円の黒字であったが、2020年までには赤字に転落するという見方も少なくない。

(3)もっとも心配なのは国債金利の上昇
 では、経常収支が赤字に転落すると、どこに影響が出るのか。
 第1は、所得の源泉が失われ、GDPの足を引っ張る要因となる。経常収支は、名目GDPの構成要素である純輸出(輸出等―輸入等)とほぼ一致する。これがマイナスとなればGDPが減ることになる。
 第2は、金利が上昇する懸念がある。約1000兆円(GDP比200%)に上る政府債務残高は、これまで常に国債金利の上昇圧力となってきた。しかし、民間に有り余る貯蓄があるため、現実には国債金利、ひいては長期金利全体は低位で推移してきた。
 こうした状況について、「家計金融資産残高1471兆円(2011年9月末)が政府債務残高を上回っているから金利は上がらない」、「政府債務が家計金融資産を上回ったら金利上昇が始まる」といった説明がなされることが多い。しかし、この説明は意味をなさない。まず、なぜ企業や政府の金融資産は考慮せず、家計の金融資産だけを考えるのか。なぜ、負債は考慮しないのか、不明である。また、1471兆円の家計金融資産には、外貨建て資産も企業部門向けの資産も含まれ、これらは政府債務のファイナンスに用いられてはいない。さらに、金利を決定するのは、過去の政府債務が誰に保有されているかではなく、今後の債務についてこれを消化しうる資金供給源があるかどうかである。
 これらを考えると、日本国内の総貯蓄(S)と総投資(I)のバランスが金利を展望する際には重要であり、これが「総貯蓄―国内総投資」と一致する経常収支が注視される所以である。経常収支赤字転落、あるいはその展望は、長らく低位に抑えられていた金利上昇圧力が解放されるきかっけとなりうる。
 第3は、円安に転じる期待である。経常収支が為替レートに与える影響は必ずしも明確ではないが、やはりコア部分では中期的な為替レート変動に影響を与えると考えられる。とくに経常収支赤字が海外資金で円滑にファイナンスされにくい状況になると、通貨に大きな下落圧力がかかることは、PIIGS危機やアジアの通貨危機などの例を見れば明らかである。
 先述の通り、日本は巨額の国債を発行し続けており、これを国内の貯蓄で吸収できなくなった際には、日本円や日本経済によほどの信認がなければ円レートも低下するであろう。ただし円レートの下落が緩やかなものであれば、これは日本経済にとって必ずしも悪いことではない。

(4)日本経済の行く末の分岐点
 いずれにせよ、経常収支が赤字に転じることは、日本経済の構造が過去30年間とは異なるものになることを意味する。昨年、貿易収支が赤字に転じたことは、成熟債権国への門をくぐったことを意味する。その先にある経済が、「恒常的な金利上昇、通貨安に苛まれる南欧劣等国型の停滞経済」なのか、「残された対外債務と通貨安をうまく活用するグローバル資産大国」なのかは、今後の日本経済変革の方向にかかっている。(米国型の「元気のよい債務大国」の道は、国際収支の構造や通貨の位置づけを考えるとありえない。)
 日本経済は、大きな岐路に立たされている。貿易赤字への転落は、その分岐点となるのではないか。 (了)


★2012年1月1日<謹賀新年>『2012年度の日本経済:東北復興を早急に終え、日本「復興」に歩み出せ』

 昨年は、東日本大震災のショックとそこからの復興に明け暮れた年であった。すでに10か月近くが経過し、東北地方の復興は曲がりなりにも進んだが、その間に日本経済全体が背負う課題はさらに重くなっている。2012年(度)の日本は、東北の復興に早期に目途をつけ、社会保障と税の一体改革、雇用創出やグローバル化対応等の経済全体での重要課題に真っ向から取り組まねばならない。

(1)実現可能か、「社会保障と税の一体改革」
 日本経済最大の課題は、厳しい財政事情の中で、いかに社会保障を立て直すかである。これは、経済成長鈍化、と少子高齢化によって深刻化した問題であり、いわば20年来の課題である。つまり、これまでの政権が先送りしたつけである。
 昨年末、大晦日直前になって「社会保障と税の一体改革」の政府素案がようやく提示された。柱である消費税率の引き上げだけは何とか死守したが、社会保障の本格的な改革はほとんどが棚上げになった。
 筆者は、10年以上前から消費税率引き上げの必要を説いてきた。「まず、歳出削減を徹底すべきだ」「景気を悪化させる懸念がある」という反対論は個別には正しいが、政府債務が発散して膨張している現状を見ると、歳出削減の進捗や景気へのダメージに配慮している暇はない。まずは消費税増税により、政府債務の膨張に歯止めをかけねばならない。そうした意味で、菅首相とそれに次ぐ野田首相が、消費税増税を前面に打ち出し、その実現に尽力することは高く評価できる。食料品等の軽減税率を取り入れず、給付付き税額控除で対処する方針も妥当である。
 しかし、その過程で、野党だけでなく民主党内から激しい消費税増税反対論が噴出したのは残念であった。いつものように小沢グループがポピュリストのスタンスを見せただけともいえるが、改めて現政権の政策遂行能力の乏しさが露呈されたことも事実であろう。全般的には、良い方向で議論が進展しているが、政治的な事情をを考慮すると、その実現が危ぶまれ新年早々暗澹たる気分になる。
 社会保障改革の中身は、1勝3敗といったところであろう。実質的な収支改善策は、過去のデフレ期の過剰な年金支給を取り戻す措置だけであり、外来患者の1回100円の負担増と70〜74歳の窓口負担増による医療保険会計の改善策や、年金のデフレ下でのマクロ経済スライドの発動は反故にされた。

(2)未曽有の円高だが産業空洞化はまだ起こっていない
 2011年5〜9月に急伸した円高にいかに対応するかも、日本経済、特に産業界にとって重要な課題である。円高は、輸入価格の低下を通じて日本に所得増加をもたらすが、輸出企業の収益減少を通じて短期的には日本経済にとってマイナスとなる。とくに日本経済は、自動車や電気機械・工作機械などの輸出産業がリードする傾向が強いため、これら機械類の輸出が停滞すると日本経済は大きな打撃を受ける。
 しかし、昨年程度の円高は今までにもなかったわけではない。5〜9月に対ドル円レートは8%程度上昇したが、これは1999年、1985年程の上昇ではなかった。それにもかかわらず、今回の円高に対しては従来にも増して産業界の悲鳴の声が大きい。それには2つの理由がある。
 第1は、今後円高が是正されそうになく、しばらくは1$=80円以上の円高水準が定着しそうなことである。米国はバブル経済のつけが重く、ヨーロッパは通貨ユーロに係るPIIGS諸国などの不安が消えず、先進国の中では相対的に日本経済がまともな状況がしばらくは続きそうだからである。
 第2に、景気低迷が長引き、東日本大震災のショックが癒えない中での円高であったことも、今回の円高の負担感が大きくなった原因である。
 円高水準が長くなると、これは輸出企業の収益を減少させるだけでなく、生産の海外シフトをもたらす。その結果、日本国内での生産が減り雇用が失われると、「産業の空洞化」が懸念される。産業空洞化は、円高の度にとりざたされるが、実際にどの程度起こっているかは定かではない。工場の海外移転など、ミクロレベルでは生産の海外シフトは間違いなく頻発している。しかし、同時に国内の生産が増えたり、その隙間に他の産業が参入して生産・雇用を維持してくれたりすればマクロレベルでの空洞化は必ずしも発生しない。真の空洞化が生じるかどうかは、海外シフトする企業や工程ではなく、その他の企業や工程が国内で埋まるかどうかにかかっており、これは国内のビジネスチャンスがどの程度あるかにかかっている。
 幸い、雇用はまだ目立って減少していない。新卒者の就職状況は厳しいが、全体での失業率はさほど上がっていない。若年者の雇用が悪いのは、年金の支給開始年齢の引き上げや企業の中高年者の雇用維持により若者が割を食っていることの影響が大きいようだ。

(3)最重要な円高対応は海外進出の加速 
 円高が定着するのであれば、海外需要を事業の中核におく日本企業は海外進出を加速するしかない。これはまさにミクロレベルでの空洞化であるが、実はそれが日本のマクロ経済にとっても恩恵をもたらす可能性がある。
 第1に、海外直接投資から生じる投資収益は、日本のマクロ経済にとっては立派な所得の源泉である。すでに、日本の投資収益収支の黒字は貿易収支黒字を上回っている。世界最大の対外純資産残高を持つ経済では、海外投資の収益が国民所得の源泉となるのは当然である。日本は、農林水産業や製造業の所得に比べて金融所得を軽視する(忌み嫌う)傾向が強いが、そうした意識は捨てるべきである。かつての英国のような「投資立国」は望めないが、そうした状況に近付く努力は必要である。輸出に関連する企業は、あらゆる機会に海外M&A等に意を尽くすべきであり、それをサポートする金融機関も迷いなく海外投資を促進すべきである。
 第2に、中小企業の海外進出も加速してきた。タイの大洪水は日本経済にも打撃をもたらしたが、この災害を通じて日本の中堅・中小企業がいかに多くタイに進出していたかを再認識した。新興国の多くは、外資の力を借りて完成品の加工組み立て工程を拡充してきたが、すでに部品や工作機器を内製化する段階に来ている。これまでは、部品生産などは中小企業が担っており、これが日本の輸出増にかなり貢献してきたが、そうした状況は続かないであろう。そうであれば、今度は中小企業が外に出ていくしかない。
 2011年度の中小企業白書によれば、海外進出した日本の中小企業は、海外進出しなかった中小企業よりも「国内雇用」を増やしているとのことである。これは、海外での生産・販売に乗り出すような優良な中小企業は、開発や企画・管理、高度な工程などを日本に残し、これが国内の雇用を生みだしているということを示している。嬉しいニュースである。
 こうした冷静な目を持って、海外展開を展望しなければいけない。これはTPPなどの貿易政策にも通ずる。TPPでもASEAN+6でも、個別FTAでもよいが、とにかく貿易を自由化し、日本企業の海外活動を支援することが重要である。(TPPなどの自由貿易体制については、別の機会に論じよう。)

++++

 その他、地方経済の疲弊、地域格差の是正、増加した貧困世帯への対応、エネルギー供給体制の再構築、など重要な課題は山積している。これらについては、別の機会に論ずるが、いずれも待ったなしの課題である。
 野田政権に望みたいのは、これらの山積した問題について、スピーディーに骨太の政策を打ち出し、着実に法律を成立させることである。せっかく政策自体は悪くないのであるから、これを着実に実現させることに最善を尽くさねばならない。より早い段階から、政策目標とそのための政策の選択肢を野党と国民に示し、政策の選択肢自体は野党に選ばせ、政策の目標自体を清々と果していくしか方法はないのではなかろうか。「肉を切らせて骨を守る」ぐらいの大胆さがないと、この難局は乗り切れない。(了)


★2011年10月14日『東北復興は被災地の企業等の旧債務の評価を確定しなければ進展しない』

 
東日本大震災から7か月以上たったが、どうも復旧が進んでいない。被災地域の街づくりビジョンが描けていないことや、費用の財源問題が決着しないことも復興を遅らせる原因だが、被災した企業・個人の二重債務問題が棚上げされていることも復興の足を引っ張る。また、被災地金融機関への支援の遅れにもつながっている。背景には、「被災地の企業や個人向け債権の評価をどうするか」について議論が膠着していることがある。

(1)二重ローン問題の膠着は債権評価の隔たりが原因
被災企業の事業復旧や被災家庭の住居改築・再建設には、多くの場合借り入れが必要となる。しかし、震災前の設備や住宅に関するローンが残っており、これを返済しない限り新規の借り入れはまず困難である。こうした状況を、二重ローン問題と呼んでいる。
こうした状況を憂慮して、政府は7月に二重ローン対策を策定し、被災地各県に「産業復興機構」を設置し、地元金融機関から被災地企業・個人向けの旧債権を買い取る仕組みを打ち出した。そして8月には岩手県で第1号の機構を立ち上げ、債権買取りを進めるはずであった。
しかし、旧債権の買い取り希望価格の隔たりにより、議論が頓挫している。被災地の事業環境・住環境の悪化により貸出債権の時価は簿価の10〜30%に低下している。地元金融機関は、簿価に近い高価格で債権を売りたく、機構は時価に近い低価格で購入したい。金融機関は低い価格で売れば損失が発生し、機構が高い価格で購入すれば最終的には国民負担となる。価格が定まらねば、機構の買取りは進まない。

(2)復旧と復興の進展にも悪影響
二重債務問題が解消しないと、復旧が進まない。復興機構の債権買取り価格が決まらないと、復興費用のめども立たず、これも第3次補正予算の議論を紛糾させている。債権買取り価格が定まらないと、金融機関の融資態度も定まらない。被災企業向け債権を機構に売るか、不良債権として償却するか、新ローンを融資し復旧を積極支援するかといった決断ができない。この為か、被災地ではほとんどの被災企業が事業再建をめざし、廃業に至った企業はほとんどない。事業再建の為の資金は調達できないが、とりあえず倒産しない為の公的な金融支援がなされているからである。言葉は悪いが、軟禁状態である。
「単なる復旧ではなく復興を」というフレーズは、震災直後から菅元首相をはじめ多くの論者が唱え、これに大方が賛同した。しかしこのフレーズを突き詰めると、「生産性の低い企業・事業には退却願う」という意味が透けて見える。復興の為には、弱い企業の廃業・倒産が必要である。すなわち、廃業が少ないのは復興が進んでいない証左である。

(3)経済危機対応は債権評価から
経済危機後の産業などの再生、公的支援にあたっては常に、毀損した債権の評価をどうすべきかが問題となる。ギリシャ危機を、EUは欧州金融安定基金(ESFS)により収拾しようとしているが、市場ではいずれ世界の金融機関によるギリシャ向け債権の放棄が必要だと考えている。その際には、評価額が収拾の成否を決することになる。90年代の日本では、RCCなどによる不良債権の買取り価格を巡って議論が空転した。
東日本大震災後の収拾においても既存ローンの評価がネックとなっている。高すぎても低すぎても誰かが損失を負担せねばならないので、必ず不満が残る。したがって、これを決定するのは政治しかない。論理的な明解な英断を示し、買取り価格の設定方針を早急に政治決定すべきである。さもなくば、復興はさらに遅れる。(了)


★2011年8月1日『復興財源;消費税中心で、所得税増税なら金融所得一体課税も』


(1)本来は復興財源は消費税を中心とすべきだが

 東日本大震災の復興費用23兆円の財源が明記されないまま、復興基本方針が決定された。なんとも無責任である。歳出削減でこれだけの金額を賄えるはずがなく、財源の目途を立てずに復興債を発行すれば政府の信認は急低下する。増税を予定するしかなく、政府はそれを国民に示す義務がある。
 復興財源決定は先送りとなったが、どうやら所得税と法人税の上乗せによって10兆円程度を調達する腹積もりのようだ。しかし、税制を考える際の最重要の視点である「(水平的)公平性」を考えた場合、消費税が最も適切であることは税の専門家の多くが指摘する。所得税は捕捉率が低く、未だに964問題が存在する。所得税には、貯蓄部分における二重課税の問題もある。法人税は、日本企業の国際競争力の維持の観点から増税は避けねばならない。円高とエネルギー不足をみて企業の海外生産シフトが加速している中で、法人税率を上げたりすれば、利益を上げるような優良な企業は、日本からいなくなるのではないか。
 復興財源の中心は、やはり消費税増税以外にはありえない。消費税は社会保障財源としてとっておくという考え方もあるが、これは理屈になっていない。消費税増税は被災地にも負担を強いることになるが、これは生活保護や被災保障などの政府支出面で手当てすればよい。被災地の消費者全員に増税分の支援金を払う方法もある。消費税増税しかありえないのに、どうしてそれが正面から議論されないのか。国民も政治家も、いい加減に情緒的な消費税アレルギーから脱するべきではないか。

(2)所得税増税なら金融所得に関わる税率も引き上げるのが筋
 実際には、東日本大震災の復興財源の中心は、筋論に反して所得税増税が中心となるであろう。具体的な増税スキームは未定だが、10%程度の上乗せ税率が課されると言われている。そこで抜け落ちているのが、金融所得に関する税率の議論である。
 理屈からいえば、所得税を増税するのであれば、その所得の源泉を問わず、税率を上げるべきである。とくに垂直的公平性の観点から所得税を中心とするのであれば、金融所得課税も増税するしかない。同様に相続税や贈与税も強化すべきである。
 現行では預金・債券の利子や株式配当所得には、税率20%の分離課税がなされる。また株式や証券投資信託の譲渡所得(キャピタル・ゲイン)の税率も20%であるが、2013年度までは税率は10%に軽減される。また証券売買による損失は、譲渡所得・配当等の利益との通算が認められている。
 このように金融所得課税は、お世辞にも簡素とは言い難い。その時々の政権や金融担当大臣・財務大臣の気まぐれにより、付け焼刃な株価対策などが織り込まれ、理念の不明確な税制となっている。

(3)リスクマネー拡充・証券投資促進との両立をどう図るか
 日本経済停滞の原因は多数あるが、リスクマネーが十分に循環しないことも一因である。ベンチャー企業が育たないのも事業再生が活発でないのも、リスクマネー不足に一因がある。銀行は元本保証の預金を原資とする為、企業向け与信において採れるリスクに限界がある。年金基金にももう少しリスクを採って欲しいが、リスクマネーの担い手の最有力は個人である。
 個人にリスクを担わせるには、投資教育よりも税制の整備の方が重要である。しかし、譲渡所得税率軽減などの期限付きの優遇策は、効果が一時的であり終了時の反動も怖い。むしろ、金融所得における損益通算を広範に認める方が、恒久的にリスクマネーを拡充するには有効であろう。投資家は、証券投資で損失が出ても、節税で埋め合わせられるのは魅力である。実益だけでなく「損失を出しても救われる」という心理が、証券投資への誘因となるであろう。
 現在、特定口座等で認められている損益通算を、証券投資と利子所得の間、不動産譲渡所得との間でも行えるようにすべきである。税率が上がっても、損益通算できれば証券投資のブレーキとはならないであろう。

(4)納税者番号制度の早期導入が不可欠
 広範に金融所得の損益通算を認めるには、所得の一元管理が重要であり、その為には納税者番号制度導入が不可欠である。すでに税と社会保障の一体改革の中で共通番号制度が議論されているが、ここに金融所得を明確に組込むことが必要である。現状でも多くの個人情報が無秩序に流出していることを考えると、一元番号により各人の所得が政府に一元管理されても、個人情報保護の度合いは変わらないであろう。困るのは脱税者やブラックマネーを取り扱う者だけである。
 また、証券業界は、不安定な優遇税制を返上してもこの金融所得一体課税を要望すべきである。税収減を懸念する財務省が最大の抵抗勢力であるが、この壁は銀行界・証券業界が一体となって打ち破るしかない。是非、復興財源の為の所得税特別増税が決する前に、刺し違いの覚悟で金融所得一体課税を実現させるべきである。(了)


★2011年5月4日『東京電力;株主責任を問わないのはおかしい』

 (1)原発事故の補償:一義的な責任は東電に

 東京電力の福島第1原子力発電所の事故による被害者への損害賠償の議論が、東電の存亡・処理に関する議論に発展している。原子力損害賠償法では、事故が「異常に巨大な天災地変」による場合を除き、当該電力会社に無限責任を課している。今回の地震・津波は確かに甚大だが、貞観地震・津波(869年)、明治三陸地震(1896年)など、歴史上の経験があり、実際原子力発電所の事故の可能性を指摘していた学者等がいたことも考慮すると、「想定外」「異常」として片づけることは許されない。また、今回の原発事故の発生直後の東電の対応には過失があり、これが放射性物質の拡散などの被害を拡大・長期化させていることも否定できない。

これらを考えると、首相が述べるとおり「一義的な賠償責任は東電にある」と考えるのが妥当であろう。もちろん背景には、原子力政策を推進してきた政府、さらに特定すれば歴代の自民党政権の責任もある。その政治責任はゆっくり問わねばならないが、政府の方針に則って原発を建設し、実際に保安・管理をしてきたのは東電であるから、まずは東電、そしてそれでは賄えなくなった際に政府が負担を負うのが筋である。

東電の賠償の対象は避難者、農業、漁業と広範であり、必要な賠償額は5〜10兆円に上るとの見方もある。補償額を今特定はできないが、東電の純資産3兆円を上回る公算が高く、こうした背景から東銀救済に関する議論が巻き起こっている。

(2)奉加帳方式の救済パッケージ
 現在政府がもくろんでいる東電の救済パッケージは以下の通りである。まず、原子力事業者が共同出資して「(電力救済)機構」を創設し,そこに政府が交付国債を付与する。そして、その資金により電力救済機構が東電に優先株出資をして東銀が補償を進める、というスキームである。補償金が巨額に上って電力救済機構の資金が不足した場合には、政府が電力救済機構に資金援助をする。また、優先株の返済資金源を確保する為に、電気料金を16%程度引き上げることになりそうである。東電以外の電力会社も、出資費用を捻出する為に電気料金を値上げするかもしれない。
 このスキームは、90年代の不良債権問題の処理における構図と、一見似ている。まず、電力救済機構は、銀行界等が共同出資する「預金保険機構」に対比される。どちらも資金源は業界と政府である。預金保険機構も、不良債権問題で金融機関の破綻が相次いだ時期には資金が枯渇し、交付国債を受けて政府から資金手当てをされた。
 しかし、金融に詳しい方は、両者が「似て非なるもの」であることに気付くであろう。最大の相違点は、保護する対象である。預金保険機構が保護するのは「預金」であるのに対し、電力救済機構は東電など「業者」の救済を目的とする。預金保険機構も破綻した金融機関に資金援助を行うが、その目的はあくまで預金保護である。

(3)真っ先に損失を被るべきは東電株主と役員
 政府が構想する本スキームでは、東電の莫大な補償負担を、まず東電以外の電力会社が負担する。また、東電の利用者(関東)の負担が高まることも間違いない。さらに関西電力、中部電力などの東電以外の電力会社の利用者(関東以外)が負担する。そして東電に出資された優先株が、将来、きちんと返済されない場合には国民負担(すなわち納税者負担)が生じる。業者や利用者に奉加帳を回すやり方である。これは90年代の住専問題の際に、金融界がトライして頓挫した方式である。
 他方、東京電力という企業は上場を維持し、経営者も役員報酬を減額する程度で居座り続け、東電に貸出を行う銀行等金融機関の債権も傷つかない。
 これはどう考えても理不尽であろう。東電に一義的な責任があり、被害者への補償を東電の利益や資本で賄えなのであれば、その負担はまず東電の株主が被るべきであろう。企業経営の第1義的な責任は株主にあるのは、資本主義社会の常識である。すなわち、100%に近い減資や破綻によって既存株主の出資額をゼロにしなければいけない。
 その際には当然、役員は全員交代すべきである。ただし、現在は福島原発の被害縮小が優先される為、それまでは原役員で運営することもやむを得ない。また、貸し手の銀行を保護したいのなら、政府保証を付けてから減資・破綻させればよい。しかし、株主は保護してはいけない。

(4)一時国有化したうえで機能別分割民営化を
 現在の東電は破綻させるべきである。しかし、電力は公益事業であるから、誰かがその事業を担わねばならない。そうであれば破綻・減資させた上で、増資して国有化すればよい。その上で事業を軌道に乗せ、収益力が確保された時点で新しい株主を見つければよい。他の電力会社が新東電を引き継いでも良いが、これだけの巨大企業である為、機能別に分離し、分割民営化しても良いであろう。1999年の長銀や日債銀の破綻処理、あるいは産業再生機構の下でのダイエーやカネボウの破綻処理と論理は同じである。
 破綻した東電を国有化する際には、債務超過の穴埋めなどで大きな国民負担が生じるであろう。しかし、今回の原発事故には、政府も大きな責任があるので仕方ない。しかし、関西電力や九州電力、ひいてはそれらの電力利用者に負担を押し付けるのは筋が通らない。
 今回の電力会社救済スキームはどうやら金融界の預金保険機構をまねたようである。しかし形だけ真似しただけであり本質を見誤っている。90年代の金融危機の収拾過程での大事な教訓は、「損失のつけを誰が取るべきか」をギリギリと詰め、企業を存続させず株主責任はきちんと問うことである。(了)

★2011年4月20日『東日本大震災被災地・被災企業の支援について今なすべきこと』

(1)様々な提言はあるが政策は進まない
 3月11日の大地震以来、この大惨事によって苦境に立たされた方々に手を差し伸べ、大きく傷ついた東北経済を立て直し、不安に苛まれる日本経済の縮小をいかに食い止めるかを、1人のエコノミストとして日々考えてきた。すでに多くの方々から、様々な有意義な提言もなされている。そして、筆者もささやかながら、「中央政府による地場産業の仕分けと東北復興公庫の設立が必要」といった提言をしてきた(例えば、拙著「東北復興公庫の創設し、政府主導による地域再生を急げ」『週刊・金融財政事情(金融財政事情研究会)』2011年5月2日号参照)。
 しかし、現実の政策は遅々として進まない。避難者の手当て、がれき処理から被災地の復興、そして原発問題、さらにこれによる電力不足まで同時に進めなければならないのであるから、首相も気の毒ではある。しかし、地震からもう40日も経っている。電力不足や放射性物質の拡散が明らかになってからも1ヶ月近くになる。被害が、ここまでの広がりを持つことは、政府も気が付いていたはずである。1ヶ月を過ぎると、避難所での生活に様々な問題が生じ、損壊した家屋や事務所に戻り無理に居住・仕事を再開する被災者が現れ、2次災害のリスクが高まったりする。そうしたことは、阪神・淡路大震災でも、中越地震でも経験しているはずである。

(2)被災者を特定しないことが政策を打てない最大の原因
 なぜ政策を打てないのか。これには首相の力不足、官僚をないがしろにしすぎている、ねじれ国会、たくさんの委員会があり意思決定者が不明確、など様々な原因が指摘されている。いずれも一理あろう。
 それらとは別に、筆者は、「被災地、被災企業、被災者を特定できていないこと」が、政策が後手に回る最大の原因ではないかと思う。今回の大震災は、被災地の広さが特徴だが、それでも岩手県・宮城県・福島県のすべての家庭・企業が深刻な被害をこうむったわけでもない。まず、被害を特定しなければ、支援も復興も適用する範囲や形態が定まらない。現地では、「誰に配るべきかわからない」という理由で配布されない義援金や支援物資も少なくないと聞く。企業の資金繰り・運転資金の支援や復興の為の設備投資支援なども、被災企業・地域が特定されていなければできない。支援を期待しながら結局受けられない、逆に支援があるのに復興を断念する、といったミスマッチをなくすためにも、とりあえず支援の範囲を定めるべきである。福島第1原発周辺の計画的避難区域、農作物の出荷制限なども、明確に範囲と期間を定めないと、潜在的な対象者・農業者は生活や作付けの計画がたたない。風評被害の原因にもなる。
 役場が失われた市町村があること、未だに多数の行方不明者がいらっしゃること、原発問題があまりに不透明なこと、等が被害の特定を阻んでいることは理解するが、地震発生後2週間程度で一度全体像を整理して、被災地を定めるべきではなかったか。本当は被災者であるが当初の指定から漏れた方には、一定の基準のもとに被災者と追認し、遅ればせながら支援をすればよい。今からでも遅くない。まず国が基準を定め、その基準に則り直ちに都道府県が被災地・被災者を特定すべきである。

(3)政府による裁量的な地場産業の仕分けが必要
 次に急ぐべきは、復興すべき地場産業・農業・水産業事業者と、気の毒ではあるが他の地や他の職に転じてもらうべき事業者との仕分けである。既に多くの論者が、「被災地を単に元に戻すのではなく、被災地を災害に強い新エネルギーを用いる理想の地域に作り変えることが重要」と指摘している。首相も「復旧ではなく創造」と述べ、復興構想会議もその路線を示している。大変、結構な考え方である。
 しかし、それをどうやって具体化するのかが問題である。既に1ヶ月が過ぎ、津波で壊滅的な打撃を被った漁村にて、残った船で細々と漁を始める漁業者、高い放射性物質が計測された地に種をまこうとする農業者、観光資源が流され、交通が遮断された中で旅館や飲食店を復活させようとする方が出てきている。これらの被災者の方々の気持ちは痛いほどわかる。一刻も早く3月11日以前の平穏な状況に戻りたいし、こういった方々の「長年やってきた職しかできない」という言にも説得力がある。
 しかしその結果、従来よりも競争力の乏しい地場産業がつぎはぎで復活すれば、数年後にはそれらが苦境に陥る懸念は極めて高い。理想的な最新の地域に作り変えるという構想にも逆行することになろう。
 ここは、政府が心を鬼にして、復興すべき事業者・産業と、他の地や他の職業に転ずべき事業者を仕分けしなければいけない。それができるのは市場(メカニズム)ではなく、公的セクターだけである。それも、市町村・県ではなく国がその閻魔役を担うべきである。被災規模が大きいため市町村の手には余るであろうし、市町村や県は原状回復にこだわりすぎすべての事業者を均等に救済しようする懸念があるからである。不良債権問題の最終章にて、産業再生機構が大企業の閻魔役を担ったが、今回もそうした権限を持つ国の機構が必要である。
 政府の仕分けさえなされれば、金融支援も効率的、かつ効果的に成すことができる。残念ながら、復興構想会議にはそうした意識はないようである。復興庁も実現しそうもない。そうした観点から、筆者は「“東北復興公社”を創設し、これが事業者・産業を仕分けした上で金融支援を包括的に行うべき」と主張している。
 組織形態はどうあれ、事業者・産業の仕分けを行う組織を定めることは不可欠である。仕分けなくして、夢のある復興も、被災者の職の確保も不可能であることを認識して欲しい。

(4)スケジュールを明確に示すことが被災者の救済の助けに
 まず政府の地場産業仕分けの体制を整え、実際の仕分けを6月中くらいに終えて、その後に新しい夢のある復興事業を年内にできるだけ進める。その間も被災者は不自由な生活を余儀なくされるので、数カ月は緊急避難的な支援・生活保障を厚めに提供するしかない。壊滅的な打撃を受けた地域、原発近くの避難が必要な地域については、9月末ごろまでは他地域への集団移住を勧めるのが得策ではないか。地元に残りたい気持ちはわかるが、住民の安全と健康や子供の教育環境を確保するためには一時故郷を離れる方がよいケースも多いであろう。その代わり、移住受入先の確保、住居手当、生活保障、そして職の斡旋などは、国が最大限の手当てをするべきである。その為には多大な政府支出が必要だが、それは国債で手当てするしかない。
 今政府に望むのは、被災地・被災企業・被災者を一刻も早く特定し、批判を覚悟で心を鬼にして、それぞれのレベル毎に復旧や移住誘導などの方針をスケジュール付きで明確に示し、それぞれのレベル毎に必要な生活と就労のための支援を施し始めることである。出口と新たな生活の入り口までのスケジュールを明確に示すことが、被災者の生活設計と気持ちに大いに助けになることを意識してほしい。(了)


★2011年3月11日『東証・大証の統合ではとどまらない、世界の証券取引所統合のは3〜4に再編』


(1)東証と大証の統合は、世界的潮流の一環
 各国に一つ、証券市場を統括する公的機関としてのメインの証券取引所があり、主要都市に出先機関として地方取引所がある。20年前にはそんな体制が当たり前であったが、いつの間にか様変わりである。今般の東京証券取引所と大阪証券取引所の合併が実現すれば、旧来の地方取引所は皆無となる。逆に、昔はなかった新興株式市場や私設取引システムなど、グレード別に市場は分化してきている。他方で、ドイツ取引所とNY証券取引所の合併のように、国際的な提携・統合は止まるところを知らない。

(2)背景に株式会社化、グローバル化、電子化等
 証券取引所再編の根底には、いくつかのトレンド変化がある。
 第1は、公的機関から株式会社への転換である。株式会社であれば、利益の最大化の為に組織形態は国や地域にはこだわっていられない。ガバナンス構造も柔軟である。
 第2はグローバル化である。国境を越えた取引所再編の端緒は、欧州通貨統合に伴うユーロ圏の取引所の統合であった。「通貨が同じなら、株価も債券価格も同基準で表示される為取引所も一つで良い」という論理である。そこに、ユーロ圏外のロンドン証券取引所が「通貨が異なっても取引所統合は合理的」という考えの下で提携を模索し、グローバルな合従連衡が始まった。
 第3は、取引電子化の進展である。システム開発費用が巨額に上り、その共有による規模の利益は莫大となった。また、電子化により「取引場」が「バーチャルなネットワーク」に変じたことは自由な再編を可能にした。第4はデリバティブズの拡大である。デリバティブズは、通貨が異なることを前提とし、品揃えが命であり、これが国境を越える統合の誘因となる。

(3)世界の証券取引所は3〜4に再編?
 最終的に、世界の証券取引所が一つになることはないであろう。しかし、3〜4のグループ・持株会社には集約され、そこに各通貨毎の取引所がグループ企業としてぶら下がる構造が形成されるのは、そう遠い将来ではないであろう。(了)


★2011年3月8日『金融構造改革:市場型間接金融から再び直接金融がメインテーマに』
 

 金融庁が、金融成長戦略一括法案を今国会に提出しようとしている。コミットメントライン(融資枠)の利用対象拡大策、銀行・保険会社本体によるリース事業の解禁から新型増資手法(ライツ・イシュー)の規制緩和まで多岐にわたるが、その底流には「直接金融の促進」という理念が見られる。金融行政は、銀行の融資促進と同時に市場型間接金融拡充を推進してきたが、そうした路線が資本市場そのものの強化に変わりつつあるようだ。
(1)直接金融化(Big Bang)の挫折⇒市場型間接金融
 日本の金融構造が、銀行等を通じた間接金融中心であることは古くから指摘されている。この為、バブル崩壊等で銀行の財務状況が傷つくと、間接金融のパイプが詰まりマネーフロー全体が縮小してしまう。また、間接金融が主流であると、イノベーションや産業構造の変革がなされ難いといった弊害もある。この為、直接金融ルートをも拡充し、複線的な金融構造を実現しようと、金融ビッグバン等の規制緩和・証券市場育成策が実施された。しかし、直接金融は一向に拡大せず、皮肉にもビッグバン後間接金融の比率は高まってしまった。
 そこで政府は、貸出の証券化や投資信託など、証券市場を活用した資金仲介を伴うマネーフローである「市場型間接金融」を定着・拡充させようとしてきた。この現実的な策は実質的な成果を上げ、投資信託や証券化は着実に拡大し、証券市場に厚みと多様性をもたらした。

(2)市場型間接金融拡大の限界
 しかし、市場型間接金融も伸びきった感がある。銀行での販売解禁等により投資信託の顧客層は広がり、証券化もサブプライムローン・ショックを乗り越え着実に金融市場に根付いている。しかし、投資信託拡大にも限界がある。急拡大してきた家計のリスクマネーも、そろそろ頭打ちであろう。証券化も、企業の資金需要や住宅建設が伸び悩む中では、ローン債権自体の拡大を望めない。こうなると、マネーのパイプを太く、多様にするには、改めて直接金融、すなわち証券発行の増加に活路を見出すしかない。

(3)金融新成長戦略に盛り込まれた証券市場拡充策
 政府の金融成長戦略は、昨年12月7日に金融庁が発表した「金融資本市場及び金融産業の活性化等のためのアクションプラン」(金融新成長戦略・中間案)を下敷きにしている。この案には銀行経由の間接金融に係る提言も盛り込まれているが、そこには新機軸は少ない。むしろ、真の狙いは証券市場拡充である。プロ向け社債市場の整備、増資手法の多様化、総合取引所構想、英文での情報開示の認可、グリーンシートの利用拡大等の新味のある提言は、いずれも証券市場に係るものである。
 これらはいずれも議論を呼ぶ策であり、また政治情勢をみると実現への道は平坦ではなかろうが、証券市場活性化の為の残された重要課題である。中小企業金融円滑化法や日本銀行の成長支援貸出制度など、間接金融の中核である銀行の企業向け貸出の維持・拡大策ばかりが注目される。しかし、銀行経由のマネーフローをこれ以上拡大するのは無理である。金融構造改革の焦点は、ビッグバンから十数年を経て、再び証券市場拡充に移ったとみるべきであろう。
       +++++++++++
 3月7日、金融審議会が新体制で始動した。政権交代やリーマンショックで動きが停止していたが、1年3か月ぶりの活動再開である。新金融審議会のテーマはいまだ明らかではないが、やはり証券市場の活性化がメインテーマとなるのではなかろうか。(了)


★2011年1月22日『米国長期金利上昇と日本低金利;背景に貯蓄投資バランスの違い』

 日米の金融緩和合戦の中で、日本の長期金利が1%強で低位安定するなかで、米国の長期金利は昨年10月頃から上昇傾向を見せている。QE2を掲げる米国FRBの金融緩和の方が、日本銀行の金融緩和よりも派手な為、この日米の長期金利の乖離は意外に映るが、金利と実体経済のバランスとの関係を考えれば、当然とも考えられる。投資家や市場関係者は、金利を展望する際には日米経済のバランスをより重視する必要がありそうだ。

(1)日米の期待物価上昇率の格差縮小
  「名目金利=実質金利+期待物価上昇率」。これが金利決定の基本的な恒等式である。この為、金利を展望する際には、まず物価上昇率に対する期待が重要になる。
 日米の期待物価上昇率には、現在は大差がない。消費者物価をみると日本は未だにデフレを脱してはいないが、企業物価指数をみるとちらほらとプラスが見え隠れする。他方、米国の物価上昇率はリーマンショック以降急低下してきており、昨秋よりすでに前年比1%を切っている。期待インフレ率を示す諸指標は、すでにデフレ入りを予想するものも少なくない。つまり、インフレ率期待については、既に日米で大きな差異はなくなっている。
 物価上昇率は、基本的には需給ギャップ(潜在GDPと現実のGDPのギャップ)と為替レートで決まる。リーマンショック前までは、米国の需要は明らかに日本より強く、日米の需給ギャップに大きな差があったが、ショック後は大差がなくなっている。ショック後には急速な円高・ドル安が進行したが、昨年10月頃には円高もとまり、以後は為替レートは安定している。こうした中で、日米の期待物価上昇率にも大きな格差は無くなっている。

(2)貯蓄投資バランスが実質金利差を決める
 上述の式から算出される「実質金利」は、国内経済の需給バランス、すなわち貯蓄投資(IS)バランスと通貨供給量から決まると考えてよい。例えば、国内の貯蓄が投資を上回ったり、貨幣供給が潤沢になされたりすると実質金利が下がることになる。
 「そんな教科書の通りにはいかない」とお考えの方は、実際に計量分析なさるとよい。金利の長期的な(年単位以上の)変動は、これらの要因でだいたい説明できる。
 日米とも金融政策は目いっぱい緩和している。米国FRBはQEUといわれる量的金融緩和を推進し、日本銀行も事実上のゼロ金利のもとで市中への流動性供給を拡大してきている。従って、実質金利の差は、日米の貯蓄投資バランスを反映していると考えてよいであろう。

(3)日本の貯蓄超過が金利のアンカーに
 では、貯蓄投資バランスをどう捉えるか。国内の貯蓄と投資の差額は、経常収支となって表れる。米国の経常収支は巨額の赤字を続けており、これは米国国内の貯蓄では設備や住宅の投資が賄えないことを示す。逆に、日本の経常収支は大幅な黒字である。家計だけでなく、民間企業も巨額の貯蓄超過を続けており、国内の貯蓄超過は財政赤字を補って余りある。こうした状況をみると、米国の実質金利が高止まり、日本の実質金利が低くなるのは当然である。
 さて、ここで多くの方が「日本の財政赤字は米国よりも深刻なので、日本の方が金利上昇懸念は高いのでは?」という疑問を持つであろう。フローの赤字ではそう差はないが、確かにストックの政府債務残高では、日本の債務は米国に比べてはるかに大きい。長期金利のベンチマークは国債金利である為、財政赤字が長期金利に直結しているように思いがちである。財政赤字と政府債務の大きさから考えると、日本の方が米国より金利が高くて然るべきに思える。
 しかし、実際に長期的な実質金利の変動を観察すると、財政赤字よりも経常収支(貯蓄投資差額)の方が説明力は強い。これは、カネに色が付いていないことを考えれば当たり前である。財政赤字拡大によって国債が大量に発行されても、それが国内の民間貯蓄で消化されれば、実質金利は上がらない。財政赤字は世代間の不公平の点では問題が大きいが、必ずしも金利上昇に直結するわけではない。
 このように考えると、今後かなりの期間、米国の長期金利は日本の長期金利を上回り続けるであろう。そうした構図が崩れるのは、日本の経常収支が目立って縮小し始め、民間貯蓄で財政赤字をファイナンスできなくなった時であろう。それは、おそらく5年以上先であろう。


「謹賀新年 本年もよろしくお願い申し上げます。」
★2011年1月1日『日本の経済・社会システムの形を作るところから始めねば』

(1)理念が崩れた民主党政権
 民主党政権には期待をしていた。政権奪取前の2009年夏までの民主党のビジョンには、頷けるところが多かった。生活者重視、コンクリートから人へ、財政再建に向けた徹底した歳出削減、いずれも妥当な方針である。鳩山政権から菅政権に移ると、「第3の道改革」「強い経済・財政・社会保障」というビジョンも加わり、かねてからの懸念であった社会保障の財源や財政再建の切り札である「消費税増税」をも宣言し、政策の整合性も整うかに見えた。
 しかし、良かったのもここまで。2010年初夏の参議院選挙では大敗し、ねじれ国会の中であらゆる法案が滞り、消費税増税構想も棚上げされた。個別の政策が滞っているだけでなく、ビジョン自体が崩壊している。その原因が、菅政権幹部の能力にあるのか、小沢元代表の国民不在の行動にあるのか、あるいは民主党に内在する弱さにあるのか、はここでは問わない。しかし、このままでは新年も何も政策が打ち出させない懸念がある。
(2)平成23年度予算・税制改革はある程度評価すべき
 年末に閣議決定された平成23年度予算は、様々な制約の下では上出来であろう。2010年6月に政府が定めた中期財政フレームに盛られた基礎的財政収支対象経費の歳出を71兆円以下、公債発行額を44兆円以下に抑えるという短期目標を遵守しつつ、成長戦略や社会保障整備を少しでも実現する為の支出を織り込み、法人税減税の財源を生み出すのは至難の業であったろう。最後の砦である埋蔵金をほぼ使いきり、何とかつじつまあわせをした状況である。
 この予算について、「成長戦略への貢献が小さい」「社会保障の改善は果たせない」と批判することはたやすい。しかし、財政再建の制約がある中では、この程度が精一杯であった見るべきであろう。むしろ責められるべきは、効果が疑わしく、公平性の観点からも問題の多い子供手当てや高速道路料金の減免措置にまだ拘泥していることであろう。
 また、税制改革案にも着目すべき点が多い。昨年来の最大のイシューである消費税の税率引き上げは棚上げされたが、法人税減税とその財源として相続税負担や高所得者の所得税負担の増加に踏み込んだ勇気は称えられるべきであろう。ただし、税制改革は予算と異なり、衆議院の先決権がない為、ねじれ国会の中でこれがすんなりと通るとは考えにくいので、これも民主党の幻の政策に終わる可能性はあるが・・・・。

(3)ビジョンの再構築をしなければ何も動かない
 このように民主党の政策は、必ずしも間違ってはいない。しかし、政策は、実行されなければただの評論に過ぎない。いくら国会がねじれていても、それをかいくぐって政策を実現しなければ政権の役目は果たせない。その為に、大連立や政界再編成がささやかれているが、ビジョンが明確にならない限り単なる数合わせにしかならず、再編後の政権も政策を実行できないであろう。
 迂遠なようだが、改めて民主党(あるいは菅政権)が明確な政策ビジョンを構築し直して、明確に示すことが重要である。例えば、「生活者重視」「中福祉・中負担」「利権に係る公共支出・税制の徹底排除」という、これまでの民主党政権が断片的に語ってきたビジョンは妥当なものであり、国民の支持も相応に受けている。その為の消費税率の引き上げや最低保障年金も過半の国民が支持していると思われる。これらを改めて体系的に整理し、堂々と国民に謳えるべきである。同時に、これまで民主党が頼ってきたポピュリスト政策、すなわち子供手当てやエコカー補助金、高速道路無料化などの理念なきバラマキ策をすべて白紙撤回、マニュフェストを書き直すことも重要である。
 ここまで実現できれば、国民の支持率も復活するであろう。政界再編においても主導権を発揮しうるであろう。まず、明解な整合性のある政策ビジョンを一刻も早く示すことが必要である。それが無ければ何も始まらない。

(4)残された最も難しい宿題
 しかし、残された最も難しい課題がある。「産業再構築」である。「成長戦略が無い」という批判は簡単だが、真の成長戦略が何であるかを定めた上での議論でなければ、そうした議論に価値はない。需要追加の為の景気対策や少々の科学振興費の拡大が日本経済の成長のエンジンになるとは、良識のある者は誰も考えないであろう。
 新興国の発展と日本のコスト高、1ドル=90円を超える円高を前提とすると、製造業等の国内の産業(生産)が海外にシフトする「産業空洞化」は止めようがない。そうした現実を踏まえた上で、日本に新しい産業を育てて空洞化で空いた穴を埋めていかねば、経済成長力を高めることはできない。菅首相が選挙時に散々語った「雇用」も、産業の再構築がなければ実現するはずがない。しばしば用いられる雇用促進の為の補助金や減税も、単なる気休めに過ぎない。
 しかし、産業を育成する為に政府ができることは少ない。規制緩和や産業基盤の整備もやりつくした感がある。これが悩ましいところである。その中で唯一政府が心がけねばならないことは、「古い競争力の乏しい産業・企業を保護しない」ことであろう。すなわち、今後予想される歴史のある大企業の破綻懸念に対し、これを救わない勇気が必要である。
 例えば、世界の自動車市場は、予想以上の早さでガソリン車から電気自自動車にシフトしつつある。これまでガソリン車やハイブリッド車で力を発揮してきた日本の自動車メーカーとその関連業界の多くは、今後窮地に立たされるであろう。その際、既存の自動車関連産業を救済するのではなく、その為の政策コストを電気自動車産業育成の基盤づくりに用いるべきである。その恩恵を受ける者は、これまでの自動車産業ではなく、むしろ新規のベンチャー企業であるかもしれない。政府も国民も、衰退しつつある名門企業よりも、真に力を持つ新興企業での雇用拡大に期待すべきである。
 この、「日本産業の育成」はあまりに難しい政策課題であり、国民の支持をすぐに得られるもので無い為、ビジョンとして前面に出すことは得策ではない。しかし、政策ビジョンを構築する際には、是非腹にすえて政権担当者の間で共有しておいて欲しい考え方である。
 2011年は、そうした新しい日本経済の発進の為の基礎を作る、大切な1年になりそうである。(了)


★2010年11月7日『日本は米国との量的金融緩和競争に勝てない』

 日本銀行が手当たり次第に金融資産を購入し始めた。10月5日には政策金利を0〜0.1%に引き下げて3度目の実質ゼロ金利政策に復帰し、11月からは国債・社債のみならずETF(上場投資信託)、REIT(不動産投資信託)を含む5兆円の金融資産の購入を始めた。またBBB格の社債、a-2格のCPといった低格付け証券にまで購入範囲を広げるという。いわば、何でも購入する姿勢である。

(1)量的金融緩和でマネーは増えない
 日銀がゼロ金利の下で量的金融緩和を図るのは、民間部門への貸出や証券市場への資金流入の拡大を通じて実体経済を活性化しデフレから脱却すること、円資産の拡大により円高を是正することを目的としている。いずれもマネタリストの考え方に根ざすが、日銀のこの積極策が肝心のマネーサプライ増加をもたらさなければこれらの目的は果たせない。
 しかし、経路を考えると民間銀行等が既に持っている国債を日銀がいくら買い入れても、国債金利は下がるがマネーサプライは増えない。政府が補助金や減税をばらまき国債を増発し、それを銀行経由で日銀が購入(マネタイズ)すればマネーは増えるが、これは金融政策ではなく拡張財政政策の効果である。

(2)日銀のリスク資産購入も効果はない
 では、低格付け社債などのリスク資産を日銀が購入する効果はどうか。仮に、民間金融機関・ファンド・個人が投資しない低格付けの社債を日銀が購入するのなら、そこからニューマネーが市中に供給される。しかし、今回日銀が購入しようとする社債は投資適格債であり、既に民間が購入したものである。これを日銀が買い入れても、資金が民間金融機関に流れるだけで非金融部門にニューマネーが供給されるわけではない。
 ETFやREITの購入も同じである。日銀はETFを4500億円(市場残高の2割)、REITを500億円(同2%)購入する。この規模が小さいと指摘されているが、そもそも理屈として金融緩和効果は期待できない。本来の保有者に資金が供給され市場価格の上昇要因とはなるが、マネーサプライは増えないからである。結局これらの新手法は、単なるPKO(価格支持策)に過ぎない。

(3)米国との金融緩和競争に勝ち目はない
 かたや米国FRBはより派手に量的金融緩和を進めている。米国は、民間の資金需要が強く、市場で資金が枯渇しがちであるため、FRBが市中に資金供給をすればマネーサプライが増えうる。日本とは異なり、金融緩和の効果が期待できるのである。この為、日米の中央銀行が同じような金融緩和措置を行っても、ドル安が進む。
 日米の中央銀行が為替レート引き下げ策を競えば、日銀に勝ち目はない。そうであれば、日銀に円高是正策を期待するのは止めた方が良い。「やれることは何でもやれ」と日銀に迫る声が強いが、効果がない政策にいつまでも期待を抱き、裏切られるばかりではかえって逆効果であろう。むしろ日銀は「金融政策はもう何もできない」と宣言し、これを市場や国民が納得し、経済構造改革によって実需を復活することを目指すべきではなかろうか。それが円高是正とデフレ脱却の為の唯一の策なのだから。(了)


★2010年10月25日『新興国の資本流入規制の議論が市民権を得つつある』

(1)資本規制の議論が浮上
 資本規制の議論が地味ながら浮上してきている。10月、ブラジルは海外からの資本流入に伴うレアル高に歯止めをかける目的で金融取引税の税率を2%から4%、さらに6%へと矢継ぎ早に引き上げ。ブラジル国債やブラジル企業の株式への投資が、昨年来日本でもブームであった為、金融機関はそれらブラジル向け投資を含む投資ファンドの手数料の見直しを検討せざるを得なくなった。
 タイは、本年9月、外国人の債券売却益(キャピタル・ゲイン)への課税を導入した。韓国も海外からの資本流入への規制を検討していると伝えられる。
 また中国は、外資の税制面での優遇を12月から廃止することを10月22日発表した。従来中国企業だけに課していた都市維持建設税と教育費付加制度を、外資系企業にも課すようにするとのことである。これには税収確保や中国企業との公平性確保の観点とともに、「外国資本の流入抑制」の狙いもあろう。表面的には外資流入規制ではないが、実態的には流入抑制効果を持つであろう。
 このように新興国が資本流入を抑制しようとする動きに対し、米国やIMFは苛立ちを募らせている。その理由としては、第1に新興国の通貨安誘導策ではないかとの警戒感、第2に新興国に進出する先進国企業のコスト増加要因となること、の他に「資本移動は自由でなければいけない」というワシントン・コンセンサスに根差した嫌悪感もあるようだ。

(2)理論的な背景
 資本移動の自由と規制の是非を考える際に必ず登場する議論が、ロバート・マンデルの「不可能な三角形(impossible triangle)」である。「@資本移動の自由、A金融政策の自由とB為替レートの安定を同時に実現することはできない」という議論である。いずれの国も、国内経済の安定の為には為替レートを安定させたい。ドルなどの主要通貨や通貨バスケットへのペッグを図る国も多い。通貨をペッグする際には、通常、金融政策の自由を放棄せざるを得ない。極端な場合はマネーサプライを外貨準備高以内に抑えるカレンシーボード制を採る国もある。
 しかし、金融政策は国内経済安定の為の重要なツールである。開放経済においては財政政策よりも金融政策にどうしても比重がかかる。インフレと失業増を回避するためには、金融政策の発動余地は残しておきたい。とくにその国にとって重要な貿易相手国との景気循環がずれた場合、相手国との為替レートを維持するために金融政策を相手国にあわせざるを得なければ、当該国の国内経済には大きな負担がかかる。場合によっては景気循環を増幅しかねない。
 こうしたことから、金融政策の自由度を獲得する為に、為替管理・資本規制を入れたいと考えるのは当然である。資本規制を導入すると、海外からの資本流入が抑制される可能性がある。資本規制は通常、課税や準備金の要求などの形態をとる為、海外から見た投資コストの増加要因となる。また、国際資本は元々「自由」を好む傾向があり、規制自体を嫌う。
 ここから資本規制の目的による意味の違いが出てくる。「資本流出」に対する規制と「資本流入」に対する規制は、まったく意味が異なる。前者には無理があるが、後者には一定の意義がある。たとえば、為替レートの下落を防ぐための資本流出規制は、新規の資本流入を阻害する為、為替レートの下落を加速しかねない。一方、為替レートの上昇を防ぐ為の資本流入規制はそのやり方さえ適切であれば、過剰な資本流入によるバブルの発生を予防する効果をもつであろう。90年代には、多くの国が資本流出規制に失敗する中で、チリがENCAJE(エンカッヘ)という資本流入規制を導入し(91-98年)、一定の効果を示した(詳細は拙著『グローバルマネー』日本評論社、2000年参照)。今回ブームになりつつある資本規制は、このチリと同様の資本流入抑制策である。
 この為、外国資本の流入に頼って経済成長を図ろうとする国は資本規制をなかなかできないが、今回資本規制を導入しようとするような「過剰な資本流入」に苦しんでいる国々にとっては有効な手立てとなりうる。

(3)ワシントン・コンセンサスと新興国パワーとの戦い
 しかし、先進国の国際金融界は資本規制が嫌いである。「資本移動は自由でなかればならない」「為替制度は完全なフロートでなければならない」という信念を米国を中心とする国際金融業界が共有し、これをIMF、米国財務省が支持しているという構図は「ワシントン・コンセンサス」という語で語られる。
 今回のブラジルなどの資本規制に対しても、国際金融界は嫌悪感を抱き、IMF関係者も否定的な見解を示している。表向きは「為替レート引き下げ競争」に対する非難であるが、それだけではなく国際的な金融機関やファンドが新興国への投資チャンスを失うことも危惧しているのであろう。
 今後、ワシントン・コンセンサスと資本流入バブルに苦しむ新興国とのせめぎあいは必至である。しかし、90年代と異なり新興国の発言力・影響力が増し、またその経常収支黒字は大幅に拡大している。今回は、資本流入抑制策が広範に支持され、黒字を計上する新興国の間に広く浸透していく可能性が高いと予想される。(了)

★2010年9月18日『絶妙のタイミングでペイオフ断行した金融庁に拍手』

(1)長年の懸案であったペイオフを実施
 筆者が長年待ち望んでいた「ペイオフ」が、ようやく実施されることになった。日本振興銀行は、2010年度中間決算において債務超過に陥る懸念が高いと金融庁に申し入れ、同庁は経営破綻と認定し、振興銀行の預金に対してペイオフを実施したのである。ペイオフの発動は1971年の預金保険制度の発足後初めてである。金融機関の破綻においては、その金融機関を清算し、1千万円までの預金を保険金で保護するペイオフを原則とする。しかし、これまでの金融機関破綻に際しては、ペイオフは行わず、預金保険機構による資金援助や政府の出資によって預金を全額保護してきた。例えば、2003年に破綻した足利銀行も政府に国有化され、ペイオフは実施されなかった。
 9月13日(月)から、元本1千万円までの預金とその利息までの部分については預金保険機構による払い出し(ペイオフ)が始まった。17日までの1週間で、預金の解約申請は300億円(預金全体の5%)を上回ったようだが、大きな混乱はなかった。預金者の数が限られていること、ペイオフ制度について、2005年のペイオフ解禁時にかなり周知されていたこと、等が理由であろう。もちろん、1千万円を超える預金者の中には、茫然としたり、怒りをぶつける方もいたようだが、大半の預金者は冷静に対応した。

(2)ペイオフは必要であった
 冒頭に、筆者は「長年待ち望んでいたペイオフ」と記した。預金の一部を失うことになる預金者には申し訳ないが、「ペイオフを経験しておくこと」は、日本の金融システムを健全な、成熟したものにする為には不可欠だと考えるからである。決して、振興銀行やその預金者あるいは経営者に悪意をもっているからではなく、あくまで日本の金融界全体の利益の観点による見解である。
 90年代には多数の金融機関が破綻したが、日本政府はペイオフを避けてきた。都市銀行や大地方銀行の破綻において安易にペイオフを行うのは危険だが、資金量の小さな地域金融機関の破綻に際してもペイオフは行わなかった。
 この結果、モラルハザードが蔓延した。銀行経営者は、赤字が続いても、債務超過の懸念があっても、「最悪でも吸収されるか国有化されるだけ」と考えていたケースが散見される。この結果、真剣にリストラや不良債権処理に取り組まず、むしろ高めの預金金利を設定して流動性を確保する自殺行為も見られた。今回破綻した日本振興銀行が典型である。
 また、預金者の選別の目が働かなくなった。預金者はリスクを丹念に見て安全な金融機関に預けるべきだが、日本の預金者の大半は銀行の信用リスクなど気にしない。「預金が毀損するはずがない」とたかをくくっていたからである。今回の振興銀行の1千万円超の預金者も、どうやら「ペイオフには至らない」と決めつけていた節がある。何年も前から振興銀行の財務状況や経営が危ぶまれていたにも関わらず、高い金利に目がくらんで預金を1千万円以上積み上げていたことがその証拠である。そうした預金者には、申し訳ないが同情できない。
 さらに、預金者が銀行の健全性を軽視する為、銀行が過剰なサービスや金利によって預金者を引き付けようとし、これがコスト高になる。口座維持手数料が採れないのもこのせいである。この結果、金融機関の収益力が殺がれる。
 こうした問題点を受け、筆者は「小さな預金取扱機関の破綻の際にペイオフを実施すべき」と主張してきた。それがようやく実現したわけである。ペイオフを経験することにより、初めて金融システムに規律が生まれ、金融機関はより真剣に投融資先を開拓し収益拡大を図り始めると期待できる。

(3)絶妙のタイミングとターゲット
 それにしても、今回のペイオフは、実に巧妙なタイミングでなされた。民主党代表選挙の真っただ中でのペイオフであった為、与党からの様々なペイオフ反対論を封じ込めることができた。また、2003年11月の足利銀行の破綻を最後に銀行破綻がない等、金融システムが安定しており、システミック・リスクが発生する恐れがほとんどなかったことも重要である。
 また、日本振興銀行は最初のペイオフの対象として実にうってつけであった。振興銀行は決済性預金(当座預金・普通預金)を扱っておらず、預金者の決済不能を通じて連鎖危機が起こる可能性はほとんどない。預金は定期預金(1カ月〜10年物)だけであり、その預金者は相対的な高金利を狙って余資を運用する方々ばかりであると推察される。
 さらに、振興銀行はインターバンク市場での他の金融機関との資金取引も少ない。短期金融市場での資金調達の際には、国債担保を提供しており、破綻した際のインターバンク市場経由でのシステミック・リスクも生じる恐れはない。非上場企業であり株主が限られている為、株式市場、ひいては経済全体への悪影響の懸念も少ない。(実際、ペイオフの発表後も、株式市場にはほとんど影響がなかった。)
 振興銀行を人身御供のように扱うことは関係者には申し訳ないが、振興銀行はその財務状況や経営状況の悪さに加えて、経済・金融システムへの影響度の少なさの観点からも、「ペイオフ実施第1号」に適任だったのである。

(4)借り手保護は不可能かつ不要と考えるべき
 このように最初のペイオフは予想以上に円滑に実施された。しかしその中で、またぞろ不可解な議論が出てきている。「借り手保護」の議論である。
 銀行が破綻した際に預金者はある程度保護すべきであるが、その借り手を保護するのは妥当でない。またそれは不可能である。振興銀行からの借り手のうち、優良な借り手は、おそらく然るべき後に他の銀行・信用金庫からの融資に切り替えることが可能であろう。打撃を受けるのは優良でない借り手であり、おそらく他の金融機関に取引を変えるのは困難であろう。振興銀行の場合、ミドルリスクマーケットを中心に融資を行ってきた為、そうした非優良企業との取引は多い。しかし、そうした非優良企業への与信を無理やり維持すべきであろうか? 答えはNOである。
 本コラムでも再三述べているように、日本の中小企業金融における問題点は、不良企業にも膨大な与信がなされており、これがゾンビ企業の存続、貸出市場でのオーバーバンキング、銀行の低利鞘をもたらし、金融システムを脆弱にしていることにある。振興銀行破綻によって資金繰り難に陥る企業には気の毒ではあるが、そうした企業の資金繰りを無理やりつけることは決してやってはけない。
 しかし、今回の振興銀行破綻に際しても、信用保証協会や日本政策金融公庫がかなり手厚い措置を用意している。優良企業でも、新しい銀行からの借り入れにシフトするのはそう容易ではないであろうから、その間のつなぎ資金が必要なのは理解できる。しかし、不良企業も公的資金で支えることになれば、これは資源の配分をゆがめる。これらの救済措置は、短期間で終了しなければなるまい。またそうした緊急保護にも借り手の最低限の選別が必要である。
 このような問題はあるが、全般的には今般のペイオフ実施は大変な英断である。金融庁の勇気ある判断を評価したい。(了)


★2010年8月20日『幻の円安誘導策より円高メリット享受を』

(1)円高の中での為替政策発動の大合唱
 2010年8月上旬、円高が進行した。円の対ドル為替レートは、8月11日に1ドル=84.72円と15年ぶりの高値水準にまで上昇した後、85円/ドル近辺で推移している。本年5月4日の95円/ドルと比べると、3か月で10円近くの円高が進んだことになる。2007年6月には123円/ドルまで円安が進んだが、その後3年間で40円近く円高が進んだとも説明できる。短期的にも、中期的にもかなりの円高である。
 円高が進むと、日本経済はいつも大きな打撃を受ける。今回の円高局面でも、株価は打撃を受け、日経平均は8月に入り9000円割れを窺う状況が続いている。
 米国・ユーロ経済の弱さと低金利持続の観測、日本のデフレ継続(物価下落は基本的にはその国の通貨の上昇要因)、といった環境を考えると今後も円高基調は変わりそうもない。市場では、1995年4月の1ドル=79円台の史上最高値を突破する日も遠くないとの見方も多い。
 そうした中、これも恒例となった円高是正策、つまり円安誘導策を求める大合唱が今回も騒がしい。財界も政界も、エコノミストも様々な円高是正策を訴える。

(2)日本銀行の超金融緩和への期待はむなしい
 ここで考えねばならないのは、どういった円高是正策がありうるのか、あるいは政策によって円高を是正することが本当に可能かどうかである。以下、順に考えたい。
 第1は、日本銀行の金利引き下げである。昨今の円高の直接の原因は、リーマンショック後に欧米が激しく金利を引き下げ、日本と欧米との金利差が縮小したことにある。この状況を覆したい気持ちは理解できる。しかし、子供にもわかるとおり、ほぼゼロ%に貼りついた日本の短期金利に下げ余地はもはやない。長期国債金利も1%を下回っており、ここにも下げ余地は乏しい。
 第2は、日本銀行の量的金融緩和である。量的金融緩和は、ゼロ金利下での景気対策、デフレ脱却策として2001年〜06年に実施された。この量的金融緩和(ゼロ金利下で銀行の準備預金に資金を積み増す金融政策)が、国内マネーフローやインフレ率期待だけでなく、円レートにも影響を及ぼしうるという考え方がある。それも、かなりの大物の金融経済学者の多くがそうした主張をする。しかし、筆者はどうもこの考えが理解できない。「量的緩和⇒円安誘導」論者は、次のように考える。「円の為替レートは、物価と同様マネーの価値の裏返しであるから、マネーサプライを増やせば、デフレ脱却と共に円安にもなる。」 ここには異論はない。もちろん、マネーサプライが為替レートにどの程度影響するかは分からないが、極端にマネーサプライを増やせれば、為替レートは減価するであろう。
 しかし、問題は「マネーサプライ」を増やせるのかどうか。大物学者さんは、どうやら「日本銀行の国債保有増などによる銀行の日銀準備預金の増加(すなわち量的金融緩和)」が、即「マネーサプライ(預金総残高等)」の増加につながると考えているが、そうでないことは日本のエコノミストであれば2001-06年に思い知ったはずである。マネーサプライとハイパワードマネー(ベースマネー、マネタリーベース、銀行の準備預金残高+現金通貨発行残高)は、通常であれば安定的な関係にあるが、ゼロ金利下では信用乗数が低下し、ハイパワードマネーが増えてもマネーサプライが増えない状況に陥った。「量的緩和⇒円安誘導」論者の意味不明の主張に対しては、筆者は2003年頃から反駁しているが(益田[2003])、もうそろそろ学習して欲しいものである。

(3)為替介入の効果を過信するなかれ
 第3は、当局の為替介入である。1995年の円高時には、日米の政策協調の下でうまく円安反転が成功した。米国のルービン財務長官と日本の大蔵省の榊原英資財務官がタッグを組み、「強いドルは国益」「秩序あるドルの反転」を訴えかけ、そこに政府の円売り・ドル買い介入がなされ、円レ―トは一挙に円安に反転した。
 今般の円高でも、この成功例が引き合いに出されることが多い。しかし、2つの点で95年当時とは全く状況が異なる。一つは、当時とことなり個人投資家・外貨投資信託などの民間資金のボリュームが格段に拡大したことである。こうした中で政府がアクションをとっても、「大海に一石を投ずる」が如く意味がないかもしれない。
 もう一つは、国際協調が期待できないことである。米国も欧州も、本音ではドル安、ユーロ安を望んでいる。インフレ懸念が乏しく、国際収支のファイナンスにもさほど困っていないからである。この状況では、いくら日本政府が呼び掛けても、誰も乗ってくれない。そもそもG7の形骸化により、そうした国際協調の場も失われている。
 最近、政府が口先介入を小出しにしているが、これも実態がなければ何も効果はない。「狼がくるぞ」という声は、何も起こらなければ誰も信じなくなる。

(4)円安への期待より円高対応に軸足を
 総合すれば、いかなる円高是正策・円安誘導策も効力が期待できない。ファンダメンタルズに政策で立ち向かっても、刀折れ矢尽きることは、過去の歴史が語っている。資本取引を自由化している国は、為替レートを政策で操作できると考えない方がよい。(為替管理を行っている人民元などは別であるが・・・)
 政府・日銀が目立った為替政策(円高是正策)をとらないことを、産業界やメディアは批判しているが、それも仕方がない。やれることがないのであるから。なにも菅直人総理大臣・野田佳彦財務大臣や白川方明日銀総裁が無能わけでも、サボっているわけでもない。
 結局円レートは、日本がデフレを脱却するか、貿易赤字に転落するかしない限り、円高傾向が続くのではないか。実質為替レート(購買力平価)を考えれば、「まだ円高が足らない」という見方すらある(例えば、野口 [2010])。それを信じれば、現在の円高基調は、あと5年ほどは続くことになろう。そうだとすると、円安反転「策」を考えるより、この円高といかにうまく付き合うかを考えたほうが良さそうである。
 そもそも円高は、交易条件の改善を通じて実質所得の増加をもたらすプラス効果がある。輸入価格の低下は、消費者か輸入関連産業に余剰をもたらす。実際、今般の円高局面でも増収増益を続ける日本企業は少なくない。いずれも輸入品をうまく活用する消費関連産業である。この不況の中で海外旅行も増加している。総合的にみれば円高は日本経済にとってマイナスであろうが、プラス面も確実にあるのである。
 むしろ日本の問題は、輸出に依存しすぎた産業構造にある。これを輸入品の活用と国内需要を前提とした産業構造に変革しなければいけない。これまで頑張ってきた優良な輸出企業は、海外への生産シフトを加速させ円高抵抗力を強めるしかなかろう。そうした海外シフトは、日本産業(GDP)には打撃だが、企業戦略としては疑う余地のない正解である。円高に適応した産業構造への転換が急がれる。

【参考文献】野口悠紀雄[2010]『日本を破滅から救うための経済学』ダイヤモンド社.
        益田安良[2003]『反常識の日本経済再生論』日本評論社.


★2010年6月13日『菅直人新政権の経済政策;久々の明解なビジョンだが難点も』


(1)予想以上に明快な真っ当な政策
 6月11日の菅直人新首相の所信表明演説は、予想以上に明解なものであった。もちろん具体策が示されていないといった批判はあるが、突然の首相交代にも係わらず、緊急に仕上げた政策パッケージであることを考えれば、上出来であろう。
 菅首相は政策課題として、@戦後行政の大掃除、A経済・財政・社会保障の一体的建て直し、B責任感に立脚した外交安全保障政策、の3本柱を掲げ、経済・社会政策の基本理念として「第三の道」を掲げた。その賛否はともかく、橋本龍太郎政権の6大改革、小泉純一郎政権の構造改革以来の、整合性のとれた明解なビジョンである。
 ここで菅首相が掲げる「第三の道」とは、英国の労働党のトニー・ブレアが、1997年の政権奪取時に掲げた元祖「第三の道」とは少し様相が異なる。トニー・ブレアは、従来の労働党が根ざした社会民主主義でも、保守党が希求してきた市場主義でもない新しい理念として「第三の道」という理念を掲げた。菅首相は、ブレアとは異なり、公共事業中心の政策を「第一の道」(高度成長期から小渕恵三政権にかけて自民党、とくに経世会の政権において頻繁に見られた政策)、市場主義と小さい政府を志向し、供給サイドから経済成長を狙う政策を「第二の政策」(主に小泉政権の政策を指すと考えられる)とし、これらのいずれでもない政策を進めようというのである。ブレアの「第三の道」と同様、「単なる第一の道と第二の道の中間形ではないか」という誹りもありえようが、自らの政策の位置づけを、過去の政権の政策との対比で位置づけたうえでビジョンを語る姿勢は好感が持てる。政策ビジョン主導で発進しようとする政権は、橋本龍太郎政権以来ではなかろうか。(小泉政権は発足時から「構造改革」を標榜したが、当初は郵政民営化を除き、その中身はほとんど明らかにされていなかった。)

(2)呪縛を断ち切った菅首相
 菅政権の政策パッケージが、整合性のある程度保たれた明解なものになった第1の要因は、「増税」を口にしつつ財政再建を優先順位の高い政策目標として掲げたことである。90年代以降、財政再建を唱えなかった政権はない。しかしその際に、増税を謳った(あるいは匂わした)政権は、橋本政権と菅政権ぐらいである。その他の政権は、「歳出削減」や「景気改善(経済成長)による税収増加」といった耳触りのよいフレーズを並べて凌いできた。なかには、「景気対策の為に国債を発行しても、景気対策による経済成長加速により結果的には財政赤字は縮小する」という『上げ潮戦略』などという陳説を唱えて財政赤字を悪化させた首相も少なくない。麻生太郎首相などはその典型である。これは、ラッファーカーブを信じて大減税を実施した米国のレーガン大統領よりもひどい思考回路である。
 これまでの政権が、増税、特に消費税増税を口にしなかったのは、過去の消費税創設期には大平正義政権が、税率引き上げ時には橋本龍太郎政権が退陣に追い込まれ、2005年の総選挙でも増税を語った岡田克也代表率いる民主党が敗北したといったトラウマがあるからである。しかし、92年の米国大統領選挙でのクリントン氏や、97年の英国総選挙でのブレア氏など、増税の必要性をきちんと語れば、増税はむしろ票につながることもある。民主党がこれまで増税を封印してきたのは小沢一郎前幹事長の強い意向であろうが、それが必ずしも選挙に勝つ為の常套手段でないことを、菅氏は早くから感じ取っていたのであろう。「増税なき財政再建」といった甘美な言葉が何ら根拠を持たないことを、有権者はとうに気づいているのであるから。
 もう一つは、昨夏の総選挙前に思いつくままにマニフェストに織り込んだ無責任なポピュリスト政策を、思い切って切り落とした点である。「子供手当」の縮減が好例である。この評判の悪いばらまき政策は、財政を圧迫するだけでなく得票にもつながらない。鳩山由紀夫前首相はマニフェストに謳った手前こだわり続けたが、菅首相は内閣交代を機にこの策を一気に縮小させる気であろう。高速道路の無料化も、同様に戦線縮小であろう。これも財政を圧迫すると同時に、地球環境にも悪影響を与える。ポピュリスト政策は、野党では有効だが、与党では安定的な政権運営を阻害する。それを認識し、いち早く切り捨てたのは菅氏の慧眼である。首相交代という代償を払いながらも、問題のある政策を捨てて早めに方向転換できたのは、民主党にとっても幸運であったといえよう。

(3)残された曖昧さが命取りになる懸念
 しかし、菅政権の政策には難点もある。過去を完全には断ち切れず、ポピュリスト志向も完全には捨て去ることはできないであろうから仕方ないとは言え、これが政権転覆の火種に発展しないとも限らない。
 第一に、「経済成長と財政再建との両立が可能である」と言いすぎている。例えば菅氏は、「第三の道」の説明として「経済社会が抱える課題の解決を新たな需要や雇用創出のきっかけにし、それを成長につなげる」と宣言している。すなわち、「増税などの財政再建によってかえって経済成長が高まる」と言いたげである。また、「『強い経済』『強い財政』『強い社会保障』の一体的実現」をキャッチフレーズにしている。どうやら「増税などの緊縮財政政策はかえって経済成長を高める」と言いたげである。しかし、緊縮財政政策が経済成長にプラスであると考えるには、かなり極端な前提が必要であろう。「経済成長を促進する社会保障」といった考え方をとなえる論者もいるが、これも胡散臭さを感じる。社会保障は、国民の負担の上に成り立っているのであるから、基本的には経済成長を抑制すると考えるのが素直であろう。
 先述のとおり、増税を口にし、財政再建を声高に謳う勇気は称えたい。しかし、増税は残念柄ら経済成長を阻害する。国民の反発を気にしすぎるあまり、嘘をついてはいけない。
 第二は、郵政改革について明確な姿勢が貫かれていないことである。連立与党は、郵政民営化の停止と再編成を盛り込んだ郵政改革法案の今国会での成立は断念したが、参院選後の臨時国会で再提出するとのことである。周知の通り、この郵政改革法案は、連立与党の一角を占める国民新党の亀井静香代表が強く要望したために与党の政策に織り込まれたものである。その根底には、亀井氏の小泉元首相に対する私怨があるとみられ、その動機は極めて不純である。郵政事業の民営化が妥当な策かどうかはさておき、小泉政権で決まった民営化を始めた矢先に停止し、再び郵政を国有化しようというのはいかにも荒っぽすぎる。また今般の改革案に対する議論も少なすぎる。
 筆者は郵政民営化にはそもそも反対であるが、かといって民営化の停止を内閣の命運をかけてまで行う必要はないと考える。また、亀井氏が進める今般の郵政改革法は、官業の肥大化・民業圧迫を益々助長するものであり、到底容認できるものではない。そうであれば、この法案の成立を急ぐのはまさにナンセンスである。
 民主党(菅首相)は、国民新党との距離感を参議院選挙の結果次第で再考するつもりであろうが、選挙の結果にかかわらずこうしたたちの悪い政策は、さっさと切り捨てるべきであろう。さもなくば、のちにこの法案が成立し、郵政事業が改悪されたとき、これは菅直人民主党政権の大きな汚点になりかねない。 
 最後に、今回示した政策ビジョンの具体策を、一刻も早く示さねばならない。急に練り上げたことを考慮すれば今回の政策パッケージは上出来だが、ビジョンを実現する為の具体策、スケジュールが示されていないとの批判はやはり的を射ている。例えば、潜在成長力をどうやって2%に高めるのか、基礎的財政収支(プライマリーバランス)の赤字をどうやって2015年度までに半減し、2020年度までに解消するのか、いまだ全く示されていない。これらの目標の達成には、相当の政策努力が必要である。消費税の税率も15%程度まで上げねばならないであろう。
 発表した政策パッケージの実現に向けての具体策・工程表を、できれば参議院選挙前に示してほしいが、それが無理であれば選挙後の国会の冒頭にでも示すべきである。それが遅れれば、「具体策がない」「絵に描いた餅である」といった批判がどんどん高まり、民主党の支持率も低下するであろう。 (了)


★2010年5月2日『日銀の成長促進新貸出制度は領域侵犯』

(1)日本銀行の新貸出制度の狙い
 日本銀行が、新貸出制度の創設を企画している。金融機関が環境・エネルギーなどイノベーションを促進し、日本の経済成長に資する分野に融資する場合に、金融機関の実績に応じて日本銀行が有利な(低利の)条件で資金を供給する制度である。具体的には、@技術革新を促進する研究開発、A科学技術の振興、B環境・エネルギー関連の事業、などに対する融資を対象とするということである。
 実質ゼロ金利が続いており、日本銀行は民間金融機関にあらゆる手をつかって資金供給を行おうとしているが、金融機関の貸出は依然として低調である。また、景気も改善してきたが、内外の情勢を考えると楽観できる状況ではない。こうした中、政府は新成長戦略を策定中であり、日本銀行にもそのサポートの要請が強まりつつある。そうした背景から編み出された策のようである。未だに一部の学者や政治家が待望するが日本銀行は否定的な量的金融緩和政策や、巨額の財政赤字の尻拭いともいえる中央銀行の国債保有増(国債買いオペの増額)といった無茶な要請を制する為に、日本銀行が予め先手を打ったとの見方もある。
 確かに、日本経済にとってイノベーションと成長産業分野の育成は必要である。そうした分野のサポートを財政(補助金や減税)で行えば国民負担が増えるが、日本銀行が間接的に資金を供給しても国民負担は増えない。こうした意味で、この新貸出制度は「カネのかからない妙案」に見える。しかし、どうも筋とその効果には疑問符が付く。

(2)中央銀行の仕事ではなく、効果も疑問
 第1に「筋」が違っている。中央銀行は、その国のマクロ経済の需給を見つつ「物価の安定」の為に金融市場でのマネーの需給(ひいては金利)を調節する責務を負う。現在の日本はデフレであるから、日銀としても需要拡大を目指すのが妥当である。そうした点で成長戦略をサポートする姿勢は結構である。 
 しかし、その際に、個別産業の振興など個別セクターの需要拡大を希求することは、やはり中央銀行の役割の範囲外である。中央銀行は表面的には国民負担のない「マネー供給」という打ち出の小槌を持っており、その行動は予算・税制などの財政政策と異なり、(国会などを通じた)国民の審判なしでなされる。このため、個別セクターの利害に係わることは厳に慎まねばならない。例えば、「環境・エネルギー産業が重要」との考えは多くの支持を集めるであろうが、だからといって中央銀行が産業の軽重に言及することは好ましくない。日本銀行の政策はあくまで「マクロ経済」に遍く影響を及ぼすものでなければならない。白川方明日本銀行総裁は「中銀の『のり』を超えることがあってはならない」と述べているが、今回の新貸出制度において特定産業の名前をあげること自体が、『のり』を超えるのではないか。
 第2に「効果」が疑問である。個別産業(企業)の成長促進の為に、中央銀行が直接事業会社に融資するのは上述の理由で憚られるため、銀行経由で資金を供給しようと試みている。しかし、銀行は既に十分な資金を有しており、むしろ悩みは運用先が見つからないことにある。ゼロ金利のもとで、調達コストも低い。そうした中で、「低利の資金を融通する」ということで、思うように事業会社に資金が流れるであろうか? 甚だ疑問である。古来よく言われるように「馬を水際に連れて行くことは出来るが、水を飲ませることは出来ない」。金融緩和による需要拡大効果の限界を示す言葉である。ゼロ金利下で流動性の罠にある日本経済においては、これ以上中央銀行が資金を銀行に供給しても実体経済に影響が及ばないことは、2001年〜06年の量的金融緩和期に思い知ったのでは無いか? 白川総裁自身、量的金融緩和の効果を疑問していたのではないか?

(3)産業振興をしたければ政府系金融機関を用いるべき
 政策として、イノベーションを促進し、環境・エネルギーなど特定産業を振興させることは、筆者も賛成である。しかしそれはどう考えても中央銀行の仕事ではない。国民の審判が及ぶ「政府」が担うべき仕事である。本来は、特定産業への補助金・減税が有効だが、過去の政官財の愈直構造や財政赤字を考えると、これらの策は今の日本には適切でない。
 そこで着目されるのが、「政策金融」である。戦後の日本においては、政府系金融機関がいくつかの分野でこうした政策目的での産業資金供給を担ってきた。しかし、戦後の長い年月を経て、そうした政策金融の無駄や高コスト、民業圧迫が問題となり、橋本龍太郎内閣、小泉純一郎内閣の時代に政府系金融機関は解体・民営化されていった。この結果、中小企業金融分野を除き、政策金融のツールはほとんどない。
 読者の推察の通り、成長戦略に貢献する事業を政策金融によってサポートするのであれば、それは政策投資銀行(旧日本開発銀行)の仕事であろう。しかし、政策投資銀行は既に民営化途上にある。それなのにエルピーダメモリー、日本航空の政府による救済の議論の際には、常に政策投資銀行の名前があがった。
 これらを考えると、政策投資銀行は政府の全額出資に戻し、公的金融機関としてきちんと復活させた方が良いのではないか。ただし、調達原資は財投機関債とし、その資金量は国会においてきちんと審議し、無駄遣いのないように監視する仕組みを作らねばならないが。
 郵政事業も公的金融も、肥大化は問題である。しかしその解決策が「なんでも民営化」では荒っぽすぎる。政策金融機関は、一部を廃止し他を統合し、規模を縮小した上で「国有・国営」で残すべきだった。郵便貯金も同様である。「民営化した郵貯に(貸出)業務を解禁する」といった意味不明の策を論ずる以前に、政策金融を再定義し、肥大化しないための仕組みを作りつつ国民の目の前で再構築して欲しいものである。(了)


★2010年4月19日『ギリシャとユーロを救うにはユーロ離脱システム構築が不可欠』

 筆者は以前、欧州で暮らしていた為、ユーロを敬愛している。またユーロ誕生に向けた過程をつぶさに見てきた為、ユーロの動向にはとりわけ関心を持ってきた。ところが、そのユーロが揺らいでいる。ギリシャなどPIIGS諸国の経済悪化がユーロへの懸念をもたらしている。果たして、ギリシャは、ユーロは、どうしたらよいであろうか。

(1)ギリシャ危機の原因:何故、財政赤字が固定化するのか
 ギリシャ経済が危機に瀕している。ただし、ユーロ圏であるため、通貨危機(為替レートの大幅な下落)とはなっていない。その代わり、昨年12月から国債などの金利の上昇が著しく、為替レートへの影響はユーロの軟化となって現れている。ユーロ為替レートは、昨年12月10%近く下落している。これを受け、4月11日にはIMFとECBのギリシャ支援も概略決定した。
 ギリシャの国債金利の上昇の主因は、もちろん財政赤字である。ユーロ圏諸国の中で財政状況が悪いポルトガル、イタリア、アイルランド、ギリシャ、スペインの5カ国を総称してPIIGSと呼び、これらがユーロの下落を招いているが、ギリシャの状況はこの5カ国の中でも最悪である。
 財政赤字の主因は、世界的な景気悪化である。しかし、なぜこれらユーロ諸国でこのように財政状況が悪化する国が続出するのか。その原因をたどると、通貨統合そのものの宿命にいきつく。
 経済が悪化し、財政赤字が拡大することは珍しくない。しかし財政赤字のうち景気悪化による部分(循環的赤字)は、金融緩和や為替レートの減価により景気が持ち直したり、物価が上昇したりすることによりある程度解消できる。(もちろん日本のように、構造的財政赤字が巨額であると、金融緩和や為替レートの減価では十分に改善しないが・・・・。)
 しかし、通貨統合参加国の場合は、金融緩和も為替レートの減価も望めない。もちろんECB(欧州中央銀行)はユーロ圏全体の景気・物価動向を睨んでユーロの金融政策を行い、ユーロ為替レートはユーロ圏全体のファンダメンタルズを反映する。しかし、ギリシャ一国の財政赤字拡大や経済動向の悪化の為にECBが利下げを行うことはありえない。ユーロ為替レートは、あくまでユーロ圏全体のファンダメンタルズを反映する。この為、通貨統合参加国は、政策の手足を縛られている。
 経済状況が悪化した国は、勢い、財政政策に頼ることになる。これがユーロ圏の劣等諸国において、財政赤字がとくに深刻となる原因である。

(2)財政統合・政治統合抜きの通貨統合の矛盾
 その根本には、異なる国々の通貨が統合されるにあたり、財政統合がなされていないことがある。さらに言えば、政治統合がなされていないことにまで議論は至る。
 通常どの国でも、通貨も金融政策も一つ(single)である。このため、国内の各地域での経済・産業構造や競争力の違いによって経済状況(失業率など)に格差が生じれば、その格差を為替レート調整や金融政策では埋められない。この為、地域別の経済格差は、もっぱら財政政策によって埋めるしかない。日本では、地方交付税交付金による地域間の財政移転と、国庫補助金の配分により地方財政の格差を是正している。小泉純一郎政権下の「三位一体改革」により地域間の財政移転は縮小したが、諸外国、とくに地方分権国家であるドイツや米国に比べると依然として日本の地域間財政移転は大きい。
 こうした地域間財政移転は、通常、国が最も重要な行政単位となっていることを根拠としている。中央集権国家である日本や英国では、国政選挙が最も重要であり、政策や社会経済システムは基本的に国家単位で決する。この為、例えば、青森県人と神奈川県人の税負担率や行政サービスが大きく異なると、不公平感が著しくなる。この為、交付金など地域間格差是正の為の移転がなされる。地方分権国家のドイツなどでも、地域間移転は当然の如く存在する。
 一方、ユーロ圏はどうか。一国と同様、域内の為替レート・金融政策は単一なので、地域(参加国)別の経済格差の是正は財政に期待するしかないのは同じである。しかし、EUの共通財政の財源や地域格差是正のためのファンド(構造調整基金)はごく小さく、地域格差を埋めるには力不足である。これでは、ギリシャなどPIIGS諸国と優等生諸国との経済格差がどんどん拡大するのは当然である。
 EU域内の共通財源、参加国間の財政移転が乏しいのは、ひとえにEUの政治統合がなされていないからである。本来であれば、@政治統合⇒A財政統合⇒B通貨統合(単一金融政策)、と進むべきなのに、@A無しにBを実施したから無理が生じたのである。

(3)出口シナリオがないことの不都合
 もちろん、1999年の通貨統合前から「単一通貨の下での参加国の経済格差」の問題は意識されていた。だからこそ、ロバート・マンデルの「最適通貨圏」の考え方に基づく「収斂基準((Convergence Criteria)」が設定されたのである。すなわち、通貨統合に参加するには、財政赤字(GDP比)や政府債務(同)、あるいは物価上昇率などが一定水準以下であることが求められた。これは、ユーロの通貨としての信認を確保する為に、ユーロ圏全体のファンダメンタルズを一定以上とすることを狙った規定であり、妥当である。
 しかし、2つ問題点があった。第1は、ユーロ参加基準(経済収斂基準)が実際にはかなり緩すぎたことである。イタリアはともかくギリシャには、ユーロに参加する資格はそもそもなかったのではないかとの見方が根強い。
 第2は、ユーロを離脱する為の規定がないことである。参加基準がいくら厳格でも、通貨統合後に参加国の中で経済が極端に悪化する国が出れば、ユーロ圏全体のファンダメンタルズは悪化する。経済が悪化し、ユーロ参加国に対して経済・安定協定(Stability and Growth Pact)が求める経済(財政)基準を守れなくなった国には制裁措置がある。この為、利己的な政策による経済悪化は是正されうる。しかし、ギリシャのように競争力が弱く、いくら頑張っても財政赤字が拡大してしまうような国には、制裁措置はかえって事態を悪化させる効果を持つ。
 そうであれば、経済が著しく悪化した国をユーロに留めておけば、ユーロの信認は低下を続けることになる。
 「ユーロ離脱システム」の欠如は通貨統合前から指摘されてきた。しかし、ユーロ推進派は、いつも「通貨統合すれば経済はおのずと収斂する」と言い張り取り合わなかった。(筆者は90年代欧州委員会や独仏のユーロ推進派に離脱システムの欠如について問いかけたが、いつも「何をくだらないことを言うか」と取り合われなかった。しかし、どうやらギリシャ危機はユーロ推進者の期待を否定したようだ。)

(4)これを機にユーロの枠組みの抜本改革を
 これらを総合すると、「財政状況悪化国にユーロ離脱を求めうる仕組み」をEUは持つべきである。ユーロからの離脱の規定をきちんと定め、実際に経済状況が著しく悪い国の離脱が実現すれば、ユーロは再び信認を取り戻し、ユーロの国際通貨としての地位も高まるであろう。そして、残った優良国の経済も安定するであろう。
 一方、離脱した国の新通貨(復活通貨)は、激しく売り浴びせられ、インフレも進むであろうが、それによって競争力が回復し、インフレによって政府債務も目減りし、長期的にはその国の経済は最悪期を脱することが出来るであろう。離脱の仕組みを作ることは、新しいピカピカのユーロ圏と、離脱国双方に恩恵をもたらすと考える。
 もちろん、現状では存在しないユーロからの離脱の規定を作り上げるには、相当の議論と時間が必要であろう。とくに離脱の規定がない中でユーロに参加した国を説得するのは至難の業であろう。しかし、その努力を惜しんではなるまい。EUはユーロからの離脱規定に関する議論を、今すぐにでも始めねばならない。それが閉塞感が漂うユーロを生まれ変わらせ、PIIGS経済を隘路から救う唯一の道なのであるから。(了)


★2010年2月27日『ペイオフの実績無くして大人の金融システムなし』

(1)日本の金融システムもだいぶ洗練されてきたが・・・
 金融行政も、亀井大臣に掻き回されてはいるが、ずいぶん近代的になった。ビッグバンの成果は不充分だが、市場型間接金融が相応に根付き市場の厚みは増した。しかし、一つ足りないことがある。破綻銀行の清算・ペイオフの経験である。90年代半ば以降多くの金融機関が破綻したが、銀行・信金・信組等の預金取扱金融機関の清算は無い。銀行などの過小資本は救済合併や国有化によって手当てされ、預金者には一銭も損失を与えなかった。Too big to failの観点から長銀やりそな銀行を清算するわけにはいかないが、資金量の小さい地方銀行や信金・信組まですべて救済してきたのは問題である

(2)ペイオフを経験することの意義は大きい
 ペイオフを経験しないと何故問題なのか。
 第1に、銀行経営者のモラルハザードの懸念がある。赤字が続いても、最悪「吸収か国有化」であればリストラの勢いも緩む。
 第2に、預金者の選別の目が働かない。預金者はリスクを丹念に見て安全な金融機関に預けるべきだが、日本の預金者の大半は銀行の信用リスクなど気にしない。
 第3に、銀行は、経営の健全性よりも、過剰なサービスによって預金者を引き付けようとして、これがコスト高になる。口座維持手数料が採れないのもこのせいである。
 第4に、預金が集まりすぎ直接金融の発展を阻害する。銀行は借り手がいないから、国債ばかり購入する。地域金融機関にその傾向が強い。これはリスクマネーの供給を阻害するだけでなく、新バーゼル規制にも反する。

(3)まずワクチンで免疫を
 乱暴なようだが、小さな預金取扱機関の破綻の際にペイオフを実施した方が良い。実施すれば、健全性の低い金融機関の調達金利は跳ね上がる。しかし、初めて規律が生まれ、金融機関はより真剣に投融資先を開拓し、収益拡大を図り始めるであろう。預金者の目も肥えるであろう。
 苦しいが、ペイオフという踏み絵を踏んで、初めて真に「成熟した」金融市場への道が開けるのである。


★2010年1月27日『80年に一度の米国金融大改革の意義』

(1)度肝を抜かれた米国金融改革
 2010年1月21日、米国オバマ大統領は新しい金融規制案を発表した。この規制案は、@商業銀行にヘッジファンドやプライベート・エクイティ・ファンド等の所有や投資を禁ずる、A自己資金勘定(ディーリング)による高リスク投資を制限する、B金融機関の負債(調達額)に上限を設ける、の3点を柱としている。いずれも、これまでの考え方と大きく方向が異なる改革であり、かつ導入された際の影響も大きいであろう。また今回の改革案の発表は、かなり唐突であった。それだけに度肝を抜かれた。
 2008年9月のリーマンショック後の金融危機の収拾のため、オバマ政権は様々な規制を導入してきた。今回の改革案発表の1週間前(1/14)には、大手銀行の特別課税(金融危機責任税;10年間で約900億ドル)も発表している。しかし今回の規制案は、従来にないインパクトをもっている。この為、この案の発表の後、世界の株価は急落した。

(2)約80年ぶりの銀商分離
 では、どこがそんなにインパクトが大きいのか。最も重要なのは、新規制が再び「銀証分離(銀行業と証券業の兼業規制)」を求めている点である。世界のメガバンクは、本体や子会社で証券業務を兼業している。金利が自由化された現在、預金と貸出といった伝統的な銀行業務だけでは、金融機関は十分な収益を上げることはできない。また、法人企業や投資家の高度な金融サービスに対する要望も充たせない。この為、中堅以上の銀行にとって、証券兼営は不可欠である。
 他方、リーマンショックなどで深刻なダメージを被ったが何とか生き延びた米国の2つの投資銀行(証券会社)、Goldman SachsとMorgan Stanleyは、FRBからの資金供給を期待して銀行持株会社に移行した。すなわち、米国の大金融機関のほとんどは、銀行と証券会社を兼営するコングロマリットである。
 米国は、大恐慌の教訓を踏まえ、1933年にグラス・スティーガル法を定めて銀行と証券の兼業を禁止した。戦後の日本も、米国の制度に倣い銀証を分離した。しかし、金融革新や国債などの証券発行の増加に応じて、銀証規制は徐々に緩和(骨抜きに)されていった。そして、1999年にはGRB(グラム・リーチ・ブライリー)法により「銀証の垣根」は撤廃され、1933年以来の銀証分離路線に終止符が打たれた。日本は、ここでも米国に倣い、1997年からの金融ビッグバンにより銀証の垣根を低くした。
 今回の米国の新規制案は、約80年ぶりの銀証分離の復活を意味する。その点が重要である。

(3)Too big to failへの新たな対応
 もう一つ重要なのは、金融機関の負債にタガをはめる措置である。金融システム、とりわけ決済機能は公的インフラ(公共財)であり、これは決して脅かしてはならない。この為、銀行が破綻しても預金には安易に損失を与えてはならない。このため、預金保険や金融機関の国有化、公的資金の注入といった措置が、一定条件の下で正当化される。また銀行以外の金融機関も、金融市場へのショックを避ける為にしばしば保護される。保険最大手のAIUがその典型例である。
 決済機能や金融市場を守るという観点の下では、金融機関の資産規模の大きさは重要な要素となる。金融・経済へのダメージは、大きな金融機関が破綻ほど深刻となる。ここに“Too big to fail”(大きすぎて潰せない)という考え方が登場する。“Too big to fail”は、庶民感覚からは許しがたく、金融機関のモラルハザードを生む懸念もあるが、経済システムの安全性のためにはやむをえない。いわば必要悪である。
 今回の米国の新規制案に織り込まれた金融機関の規模の制限は、“Too big to fail”の是非やその悪影響の除去をはかるのではなく、前提である“too big”そのものを回避しようとする措置である。まさに「コロンブスの卵」の発想である。これまで、金融機関の規模が過大とならないようにすることは、主に独占排除の観点でしか議論されてこなかった。しかし、本規制案は、金融システムの安定(プルデンシャル政策)を目的とする点が画期的である。

(4)吉とでるか凶とでるか
 米国の規制案は、米国経済・金融機関に多大な影響を与えるであろう。
銀証の分離により、米国のメガ金融機関のほとんどは、その業務・会社形態を根本から考え直さねばならなくなり。例えば、Bank of Americaは、買収したばかりのMerrill Lynchを売却せざるを得なくなるかもしれない。ここ数年規制が強化されつつあるとはいえ、銀証兼業によるユニバーサルバンキングを認めるヨーロッパの金融機関に比べて、米国の金融機関は不利な立場となることは間違いなかろう。
 また、金融機関の負債規模に制限を加えれば、資産側の貸出などが大幅に縮小する可能性がある。バーゼル規制(自己資本比率規制)が貸し渋りを助長するといった批判がしばしば聞かれるが、この新規制による貸出市場への悪影響はバーゼル規制など比べるべくも無いかもしれない。
 日本については、金融市場や金融機関への直接的なダメージは少ないかもしれないが、おそらく金融制度の方向性には少なからぬ影響を与えそうである。すなわち、日本も米国に倣って再び銀証分離を進め始める可能性がある。これは必ずしも悪いことではないかもしれない。日本のメガ金融機関は、未だに銀証兼営のメリットを享受しているとは言いがたい。また、コングロマリット化した金融機関は、ざっと6機関ほどあり、これは先進諸国の常識からはかけ離れた多さである。日本の金融機関は、もっとブティック化して各業態で2-3社で競う状態になった方が健全であろう。
 この米国の新規制案が吉と出るか凶と出るかは、予想がつきにくい。しかし、金融システムにとって数十年ぶりの大きな変革であることは間違いない。(了)

★2010年1月1日<謹賀新年>『2010年代の日本経済、厳しさの中にチャンスも』

(1)日本経済は「レ字回復」
 新年には、なるべくその年の展望を綴っている。昨年はサボったが、2年ぶりに書いてみよう。まず、2年前の2008年元旦の本コラムでの展望を回顧してみたい。2年間には、筆者は次のように書いている。
 「新年早々気分は晴れない。どうやら久しぶり(おそらく5年ぶり)に、日本経済に暗雲が垂れ込める中での正月だからであろう。筆者は、昨年3月から景気は実質的に後退期に入っていると見るが・・・」

 2008年初には景気楽観論が支配しており、上記のような悲観論はさほど多くなかった。実際には、景気は2007年10月を山として、07年11月から2009年3月まで景気後退を続けた(直近の景気の底の日付は筆者の推定)。すなわち、2008年(度)はほぼ景気後退期になったことにあり、2年前の景気認識はほぼ的中したことになる。
 この景気後退の原因は言うまでもなく、米国のサブプライムローン問題に端を発し、08年9月のリーマン・ブラザーズの破綻にてクライマックスとなった国際金融危機と、それに伴う欧米諸国の経済停滞である。日本経済の実質GDP成長率は、2008年度には▲3.7%という戦後最大のマイナス成長を経験し、巷では「100年に1度の経済危機」という言葉が踊った。しかし、後退期間は通常の後退期間と同様の1年5ヶ月で終了し、4月以降は年率1〜3%のプラス成長に転じている。もちろん、08年度後半には年率10%以上のマイナス成長を記録したのであるから、この程度の回復は当然である。また、現在の経済水準は、リーマン・ショック以前の水準よりもかなり低い。したがって昨春以降の回復は、よく用いられる「V字回復」という語とは程遠く、むしろ「レ字回復」と呼ぶべきものである。
 されども、08年秋以降の日本経済のマイナス成長が外的ショックに過剰に反応した結果であったことは、その後の回復で証明された。現在の日本経済は、正常な姿に戻りつつある過程であると捉えるべきであろう。

(2)2010年度の経済はリスクが山積
 さて、問題は今後である。暗い時代だけに前を向いて歩かねばならない。しかし、2010年度についてみると、リスクの方が目立つ。
 第1に、昨春以降の回復の原動力となった外需が再び下落するリスクがある。中国は何とか高成長を持続してくれそうだが、危機の元凶である米国経済は脆弱である。米国の時代はリーマン・ブラザーズとともに去ったと考えるべきであり、これから米国経済の長い調整期が始まる。
 第2は、円高のリスクである。円の対ドル為替レートは、2009年11月27日には84円台まで上昇したが、その後年末にかけて92円台まで低下した。今後円安が進展する可能性もあるが、おそらく再び円高に向かう可能性の方が強いであろう。米国経済の停滞が深刻であれば、95年4月28日以来の70円台(史上最高値)を伺う可能性もある。
 そうなれば輸出型製造業の業績は落ち込み、日本経済に大きなショックが及ぶ。また、「再び90円/ドル以上の円安水準には戻らない」という認識が定着すれば、海外生産シフト、すなわち産業の空洞化も加速することになろう。それもこれまでの加工組立工程のみの空洞化とは異なり、部品製造、素材製造業の海外生産シフトを伴う、全般的な空洞化が進む可能性もある。これは、ベルリンの壁崩壊後のドイツや、80年代の米国、あるいは戦後の英国が経験した空洞化と同様であり、一朝一夕に対応できるものではない。まさに日本産業は正念場を迎える。
 第3は、国内金融システムに関する懸念である。2008年の厳しい経済環境の中でも、日本の金融機関に目だったほころびは見えなかった。しかし、バーゼルVの導入により、邦銀は従来以上の厳しさで資本の増強を迫られることになる(詳細は、下記の2009年12月27日のコラム参照)。この規制強化は、長期的には日本の金融機関及び金融システムの強化につながる面もあるが、短期的には企業への貸出抑制と銀行の増資による株式市場の下げ要因となることは避けられない。短期的には、景気の足を引っ張る要因である。

(3)“ChangeをChanceに”変える企業が増えれば成長は持続可能
 しかし、明るい要素もある。
 第1は、エネルギー価格など、資源価格が低下したことである。その恩恵は、素材型製造業・農漁業だけでなく消費者にも広がっているはずである。
 第2は、円高メリットを受ける産業の裾野が広がってきたことである。市場開放やFTA(EPA)締結、大メーカーの海外生産シフトなどにより、日本の輸入の価格弾力性は高まっている。
 第3は、90年代末からの厳しい経済環境を乗り切った企業は、財務面での体力をつけていることである。厳しいリストラは雇用・賃金の抑制という対価を伴ったが、そのおかげで財務体質が肥満体から筋肉質に強化された企業も多い。
 これらのメリット・強みをどう生かすかが、今後の企業経営の勝敗を分ける。この厳しい経済環境下でも、増収増益を続ける企業がある。外食、衣料・履物の小売、家具など、業界全体は停滞しているにもかかわらず、著しい躍進を示している企業が数社ずつある。これらは例外なく、安価ではあるが良質な商品・サービスを提供しており、前述の資源価格の低下や円高のメリットを十分に活用している内需関連の企業である。こうした経済環境の変化(change)を機会(chance)と捉えられる企業が増えれば、自ずと日本経済に活力が生じるはずである。
 筆者は、2010年度の日本経済の実質経済成長率を1.0%、2011年度の成長率を2.0%と予測する。潜在成長率の3%弱には及ばない為、景況感はさほど盛り上がらずデフレも続くであろう。しかし、着実に07年以前の経済状況に戻ることが出来ると期待する。ただし、「changeをchanceと捉える企業が多ければ」という注釈付きではあるが・・・。

(4)2010年代の最重要課題は産業構造変革
 「changeをchanceと捉えて変革する」というのは、企業経営にとって大切であると同時に、日本経済全体にとっての課題でもある。したがって、経済政策における最重要の指針ともなる。
 日本経済は、@財政再建、A高齢化に対応した社会保障制度の構築、B金融システムの整備、C労働市場の柔軟化、など数多くの課題を抱える。しかし、これらの課題にも増して重要なのは「産業構造の変革」である。日本の産業構造は、外需(輸出)関連産業から内需関連産業へ、官需・企業設備需要関連産業から個人消費関連産業へ、モノ作り(製造業)からサービス(知財)生産へ、シフトしていかねばならない。すなわち、需要が減退し供給過剰に陥っている産業から、潜在需要が大きい産業へと経済資源(労働力、資本など)が移っていく必要がある。その過程では、不振産業で倒産や解雇が多発するであろう。冷たいようだが、これはやむをえない。シュンペーターの言を借りるまでもなく、成長には新陳代謝が必要である。
 こうした産業構造の変化は、小泉純一郎政権下での「構造改革」でも意識はされていた。しかし、小泉改革は行政面、とりわけ郵政、特殊法人の民営化に終始し、産業を作り上げることまで至らなかった。
 民主党政権は、この一点に絞る覚悟で、日本経済をリードする産業を作り上げていって欲しい。少子化対策の名を借りた補助金バラマキや高速道路無料化、といったくだらない政策はそこそこにして、もっと真剣に日本の産業の在り方を考え、政策のターゲットをそこに絞って欲しい。
  「真の成長戦略」とは、公共投資でも減税でも、子供手当てでも、中小企業救済策でもない。厳しい「産業調整策」なのである。(了)


★2009年12月27日『スイス・バーゼルからの素敵なクリスマス・プレゼント』

クリスマスが間近に迫った12月17日、バーゼル銀行監督員会(日米欧などの銀行監督当局の国際会議、BISに本部を置く)が、金融規制案を発表した。予想以上の厳しい規制内容であり、邦銀関係者からはため息が漏れている。これまでのように、小手先の策で自己資本比率規制を凌ぐことは出来そうにないことを見通しているからであろう。今回の規制強化は、確かに邦銀にとって重い課題だが、逆に言えば因果応報でもある。邦銀は、今度は本格的に資本増強と収益力増強に励まねばならない。

(1)自己資本比率規制の穴を埋めるべく大急ぎでなされた合意
 今回のバーゼル規制の見直し作業は、かなりの急ピッチで進められた。2008年9月のリーマン・ブラザーズ破綻に端を発する国際金融危機を受け、様々な危機対応策・防止策が検討されたが、銀行の自己資本比率規制の見直しもその大きな柱の一つであった。
 そもそも銀行の自己資本比率規制は、銀行が最低限の自己資本を持つことで経済危機やバブル崩壊による予期せぬ損失(Unexpected Loss)への抵抗力を持つことを第1の狙いとしている。同時に、銀行のレバレッジ(負債/資本、自己資本比率の逆数に近い)を抑制することにより、銀行の投機的な行動を抑制し、銀行経営の健全性を確保すると同時にバブル経済の形成を防止することも狙いとしていた。
 今回の金融危機において、前者の銀行破綻を防ぐという目的はある程度達成された。欧米では、英国のノーザンロックをはじめ多くの中小銀行が破綻し、多くの大銀行が公的資金の資本注入を受けたが、もし自己資本比率規制がなければ、もっと多くの銀行が破綻し、危機はもっと深刻になっていたであろう。
 しかし、レバレッジの抑制効果は十分ではなかった。21世紀に入り、住宅・不動産価格の上昇を背景に、米国・英国の金融機関は資産(貸出など)を拡大し、その資産を証券化した商品に先進国の金融機関の多くが投資を拡大させた。また折からの世界的な金融緩和と財政赤字の拡大により、金融機関の国債投資も拡大した。これらにより金融機関、とくに投資銀行や投資ファンドのレベレッジは急速に上昇していった。自己資本比率規制のもとで、このようにレバレッジが拡大していったのは、規制に抜け道・欠陥があったからに他ならない。そうした問題意識から、今回の規制見直しがなされたのである。

(2)新規制の4つの柱
 今回の改正の細部は未確定だが、要点は以下のとおりである(詳細はBasel Committee on Banking Supervision “Strengthening the resilience of the banking sector”参照、金融庁HP;http://www.fsa.go.jp/inter/bis/20091217.html から入手可能)。
@自己資本比率の最低水準を現行の8%(国際的銀行)から引き上げる。
A資本の質をより厳しく問い、普通株と内部留保を「コア中核(Tier1)資本」と定義した上で、その一定比率以上(比率は2010年後半に決定)の保有を義務づける。
B国債などの安全資産を含む総資産に対する自己資本比率についても、補完的な指標として規制に導入する。
C現金・国債などの流動資産を一定割合保有する規制を新設する。

 これらの新規制の導入に当たっては10年以上の猶予期間を設けるようだが、いずれも邦銀にとって厳しい内容である。とくにAのコア中核資本に関する規制は、これまで優先株や劣後債で自己資本の増加を図ってきた邦銀にとって大きな負担となる。昨今の邦銀の普通株式増資は、この新規制を意識したものである。
 もう一つ厳しいのは、Bの「総資産に対する自己資本比率」に関する規制である。邦銀は、国内の貸出需要が乏しいため、預金などで調達した資金を国債などの安全資産に投資して、ささやかな利鞘を稼いで凌いできた。従来の自己資本比率規制では、国債などは分母のリスク資産から除かれていた為である。こうした窮余の策が、今後は続けられなくなる。また、同時にCの流動性規制により、国債を一定比率は保有しなければならない。バーゼル委員会は、この一見矛盾する両規定を両立させるような水準に規制を作り上げるであろうが、いずれにせよ、規制が銀行の国債保有を狭い範囲で規定するようになることは間違いない。

(3)邦銀の苦しみは身から出た錆
 邦銀や日本の金融当局は、この厳しい新規制にため息をつき、憤りを覚えている。しかし、厳しく言えば、この新規制の邦銀にとって厳しいのは、邦銀が本来の銀行業を真摯に追求してこなかったからである。まさに身から出た錆である。
 新規制が要求する銀行とは、どういう銀行か。まず集めた預金は、きちんとリスク管理を行った上で民間への貸出などのリスク資産として運用すること。そして、レバレッジをきちんと管理し、むやみに資産を膨らませないこと。逆に、預金を集めすぎないこと。そして、資産に対する資本は、小手先の資本増強策ではなく、きちんと投資家の付託を受けた普通株式で調達し、株主のガバナンスの下で企業経営に当たること。いずれも企業、銀行としては当然のことであるが、残念柄ら邦銀はこうしたあたり前の行動をとってこなかった。自業自得である。
 この新規制は、いくつかの重複が見られること、近年話題になった規制によるプロシクリカリティ(pro-cyclicality)に対応していないこと、証券会社・投資銀行・保険会社・ファンドなど銀行以外の金融業態を取り込めていないこと、など十分とはいえない。しかし、新規制が導入され、銀行がこれを遵守した時、日本の金融市場はかなり正常化することも期待される。
 例えば、上述の規制が求める銀行業の姿が実現されるには、第1に銀行は利鞘の取れる民間向け貸出、証券投資を中心に資産運用する必要がある。邦銀がそうした努力をしてこなかったわけではないが、追い詰められた形でそうした努力を加速せざるを得ないであろう。その結果、企業向けの貸出金利はリスクを反映して上昇し、銀行の本業での採算が向上するであろう。第2は、預金を集めるインセンティブが減り、口座維持手数料などを導入する余地が生まれ、邦銀の総合採算が向上することが期待できる。第3に、銀行の国債投資が抑制され、国債金利が正常化し(上昇し)、財政規律が効くようになるであろう。現在の国債市場は巨額の財政赤字にもかかわらず金利が低位に抑えられるバブル市場であり、そのバブルが財政規律を緩めている。銀行が国債への投資を抑えれば、国債金利が跳ね上がり利払い負担が増すが、政府・国民の財政赤字への問題意識が高まり、安易な財政出動が抑えられるようになれば、長期的には日本経済にとって好ましい。
 金融機関、政府、国民は、新規制を前にため息をつくだけでなく、これを前向きに捉え、金融市場を正常化するチャンスと捉えてはどうだろうか。(了)

★2009年11月8日『G20の政策相互監視構想:
            画期的だがルーブル合意と同様に形骸化の恐れ』


 11月7日に発表された、英国セント・アンドリュースでのG20財務相・中央銀行総裁会議の共同声明では、世界経済の不均衡(Global Imbalance)の是正がとりあげられ、各国の政策を相互監視する枠組みが発表された。これまでの「国際協調」から一歩踏み込んで、各国の経済政策にタガをはめる点では画期的だが、その実効性には疑問符がつく。

(1)来年11月までに相互の政策評価と提言を実施
 G20は、昨年来、先進主要7カ国の財務相・中銀総裁や首脳の会合であるG7に代わり、国際的な政策協調の中心となりつつある。経済成長が著しく国際金融市場でのプレゼンスも高めつつあるが、G7には加わっていないBRICsなどの新興諸国が加わる会議だけに、文字通り世界経済の主要部分の方向性を決する会議と位置づけられている。
 そのG20は、国際金融危機を再び起こさない為の議論の中で、国際的不均衡に関する問題意識を高め、本年9月のピッツバーグ・G20首脳会議(サミット)では、「不均衡是正の為の新たな枠組みを創設する」との合意を得ていた。そして、今回のセント・アンドリュースG20では、その枠組みと具体的なスケジュールが提示された。
 まず、2010年1月末までに各国は均衡ある経済成長の為の政策の枠組み・計画・予定を提示する。次に4月には、IMF・世界銀行等の助力を得つつ各国の政策について最初の相互評価を行い、6月のサミット(カナダ)で政策パッケージの選択肢を提示し、11月のサミット(韓国)では政策の再評価を行った上でより詳細な政策提言を実施する、といったスケジュールである。
 政策の目標としては、各国の経常収支・外貨準備高・貸出量などが想定されているようだ。声明文は、財政再建・物価安定・金融システムの安定・雇用創出・貧困削減など多様な目標が記されているが、各国の経常収支不均衡(赤字・黒字)が最大の眼目であることは間違いなかろう。

(2)実効性に疑問
 今回のG20は、G7においては単なる口約束に過ぎなかった国際政策協調に、具体的な枠組みとスケジュールを設定した点で画期的である。しかし、その実効性については様々な疑問が残る。
 第1に、最終工程の2010年11月の「政策提言(recommendation)」が、どの程度の拘束力を持つか疑問である。「政策評価(assessment)」は容易だが、他国の政策に介入することを意味する政策提言は様々な軋轢を生む。IMF協定という国際法上の権限を有するIMFでさえ、サーベイランスは容易だが、政策への直接介入は支援対象国以外には難しい。ましてやG20は国際社会で最も重要な会議とはいえ、なんら根拠法も権限もない。
 そのような難しい環境下では、政策提言はどうしても抽象的な穏やかなものになりそうである。そうでれば、せっかくの新しい枠組みも骨抜きとなる。
 第2は、最も重要な政策目標である「対外不均衡」について、これを真に是正すべきかどうか、どうやって是正しうるか、についてコンセンサスが出来ていない。筆者は「Imbalanceは持続可能でない為、是正すべき」と考えるが、米国などは必ずしもそうは考えていない。米国の政策中枢部は「米国が対外赤字を通じて世界の需要を創出している」と反論し、おそらく本音では「米国は基軸通貨国である為、赤字を垂れ流してもなんら問題は無い」とすら考えている。また、経常収支黒字と外貨準備の急増を背景に諸外国からの非難を浴びがちな中国や日本は、真剣に黒字減らしを考えてはいないであろう。
 さらに、対外不均衡の縮小のために為替レートの調整が効果あるのか、貯蓄投資バランスの改善を政策で進めることが可能なのか、についても伝統的な議論があり、そのけりはついていない。例えば、黒字を計上している中国や日本は、黒字をへらす為の政策を求められるであろうが、その為に何をやればよいのであろうか。日本には内需拡大が求められようが、そんなことが出来るのであれば苦労はしない。黒字減らしのための内需拡大要求がいかに空しい結末となるかは、1980年代の前川レポートで経験済みであろう。

(3)ルーブル合意の二の舞に
 これらを考えると、今回のG20声明は、単なる「絵に描いた餅」に見えてくる。やや悲観的に過ぎるかもしれないが、来年の11月には各国に玉虫色の穏やかな政策提言が与えられ、各国はこれを単なる努力目標とし解さなくなるであろう。まさに9月に亀井静香金融担当大臣が打ち上げたモラトリアム法案が、最終的には努力目標を課すに過ぎない「中小企業金融円滑化法」に堕したのと酷似した経緯である。
 そして、結局は中国の人民元の自由化(すなわち対ドルでの切り上げを意味する)への圧力が高まり、米国が折に触れて保護主義の導入をほのめかす、というお定まりの光景が繰り広げられるであろう。まさに、デジャヴ(Deja vu)である。そう、1987年2月のG7財務相・中銀総裁会議でなされたルーブル合意の二の舞である。ルーブル合意は、85年9月のプラザ合意によるドル安(円高・独マルク高)の行き過ぎを是正する為になされた主要国の為替レートに関する合意であり、目標相場圏の形成を意識したものであった。しかし、この合意はあえなく打ち破られた。市場の圧力の前には、国際協調為替政策は無力であることを思い知った局面であった。
 経済政策における国際協調は、それほど難しいということである。今回のG20声明のような具体的な硬い枠組みよりも、従来のG7のような「抽象的な文言による穏やかな取り決め」の方がかえって効力を持つとも考えられる。G20は参加国が多過ぎる為仕方がないが、過去の国際協調への試みと経験を十分に踏まえ、立ち位置を再確認した方がよさそうである。 (了)

★2009年10月2日『貸出モラトリアムは希代の悪法/民主党の理念をも汚す恐れ』

亀井静香金融担当大臣が、とんでもないモラトリアムを発動しようとしている。これがどれほどの多くの問題を生むのか、民主党連立政権の政策にとってどれほどの禍根を残すものなのかを論ずる。

(1)今時、モラトリアム?
 民主党を中心とする新連立政権の郵政・金融担当相に就いた国民新党の亀井静香氏が、「中小企業向け融資・住宅ローン元利金の3年間の返済猶予(モラトリアム)」の方針を打ち出している。10月9日にも案がまとめられ、10月中に閣議決定され、11月上旬には国会に法案が提出されるとのことである。最初は、亀井氏の「単なる話題づくり」と思っていたが、どうやら本気らしい。もしこのままこの策が成立すれば、希代の悪法となろう。
 「モラトリアム」は、戦前の金融恐慌の際に発動されたと言われるが、その際のモラトリアムは銀行預金の取り付けを食い止める為に、「銀行に対して」預金の返済を猶予した策であった。今回は、銀行の借り手の返済を猶予するものであり、銀行は戦前とは全く逆に「返済を猶予される」側に回る。したがって、戦前のモラトリアムとは、その目的が全く異なり、比較することすらおかしい。むしろ、江戸時代に商人に対して発動された「徳政令」に近いものである。

(2)大小、様々な問題が
 問題は、根本的な抽象レベルから具体的な個別の問題まで、数多くある。
 第1に、最も抽象的なレベルでは、私的な貸借契約に政府(法律)が介入することの恐ろしさである。民間の貸し手と借り手が合意して成立した貸借契約を事後的に政府が歪めることを許せば、法治国家は成り立たたない。「借金の元利金は当初の契約に応じて返済するもの」という大原則を崩せば、金融は麻痺する。その代償は計り知れない。
 第2に、民間のリスク認識を無視して強制的に貸出を維持しようとの発想自体が問題である。市場原理に則らない貸出を強制すれば、市場メカニズムが働かなくなり、金利体系が歪み貸出市場が益々不健全化する。さらに、ゾンビ企業が温存され資源の最適配分が疎外される。筆者は市場原理主義では無いが、やはり市場機能はなるべく阻害しない方がよいと考える。
 第3に、悪化した貸出の返済が猶予されるのであれば、銀行は怖くて融資できなくなる。より正確に言えば、貸出の返済が猶予される可能性が高まることにより新規貸出のリスクが高まり、リスクプレミアム分貸出金利を上げざるを得ない。また不良債権に計上される為、貸倒引当金の負担も生じる。バーゼル委員会の自己資本比率規制上のリスクアセットも増加し、新たな資本コストが生じる。このように銀行の負担が各方面から増す為、新規貸出がかえって抑制されることは間違いない。今回の亀井プランの狙いは、中小企業向け貸出を維持することにより資金繰りを支援することにある。その目的に逆行するわけである。信じられないことだが、亀井氏はそうしたロジックを全く理解していなかったようである。それだけで、金融担当大臣の資格は無い。
 第4に、対象を「業績が芳しく無い中小・零細企業」に絞るというが、その基準をどうするかも悩ましい。どんな基準を設けても無理が生じるであろう。
 第5に、「3年」という期間を設けるようだが、期限が切れる時にどうするつもりであろうか。おそらく強烈な貸し剥がしが生じ、企業倒産が急増するであろう。この貸出返済のモラトリアムは、実は「企業倒産のモラトリアム(先延ばし)」に過ぎないのである。

(3)銀行に対する利子補給・保証をするというが・・・
 このモラトリアム法案は各方面から批判を受け、それを受けて亀井氏は、元利金返済を猶予した貸出債権について「銀行に利子補給をする」「政府保証をつける」といった方針もちらつかせている。不良債権への計上を求めないことも検討しているようだ。これらの対応措置は、全銀協会長をはじめとする金融界の批判・反論に、ある程度納得した結果なのであろう。
 確かに、銀行が返済猶予する元利金を政府が完全に利子補給し、保証してくれるのであれば銀行の損益は変わらない。
 しかしそこまでするのであれば、民間金融機関の貸出債権のすべてを日本政策金融公庫などの公的金融機関に肩代わりさせることや、信用保証協会の全額保証をつけるのと同じである。そこには、公的セクターによる全額信用保証の弊害(詳細は2008年9月1日付け本コラム参照)と同様の弊害が生じる。民間金融機関のモラルハザードや貸出市場(貸出金利体系)の歪みの懸念だけでなく、国民負担が生じることも必定である。
 また、ここまで民間金融機関の行動を否定するのであれば、いっそすべての銀行を国営にしてはどうかとさえ言いたくなる。亀井氏は、「社会主義に転換する」と言ったほうが分かりやすいのではないか。

(4)民主党の理念との整合性も気になる
 もう一つ気になるのは、企業の過剰保護の思想である。
 民主党は、企業を重視してきた自民党とは一線を画して生活者(個人)に重心を置く姿勢を示してきた。前回コラム(2009年9月3日付)でも述べたとおり、民主党と自民党は、互いに理念の差異を明確にしていかねばならない。その際、民主党が拠るべきポジションは、「大き目の政府」と「個人重視」であろう。その路線から言えば、企業保護に使う金があれば、労働のセーフティーネットや生活者の保障に用いるべきとの結論になる。
 そうであれば、企業を救済する徳政令は筋が通らない。同様に、日本航空など事業会社への公的資金の資本注入も筋が通らない。
 今回のモラトリアムは、自民党の古い体質を色濃く継承する亀井静香氏・国民新党の政策である。民主党は、こういう水と油の政党と連立を組むこと自体が失敗だったかもしれない。モラトリアム、事業会社救済といった企業過剰保護政策が、民主党政権の理念崩壊につながる恐れもある。
 民主党は、直ちに国民新党との連立を解消して、金融担当大臣を更迭した方がよいのではないか。(了)


★2009年9月3日『政権交代は、日本の政治復活の第1章に過ぎない』

筆者はエコノミストであるので、政治に関する議論を文字にすることを控えてきた。しかし、この半世紀ぶりの大きな政治情勢の変革を前にして、政治に関する筆者の見方を記しておきたい。

(1)自民党の崩壊は1994年の自社さ連立から始まった
 民主党が総選挙で大勝し、政権交代が実現した。というよりも自民党が崩壊した。筆者は、自民党の崩壊の原因は、麻生前首相の読み間違いや失言でも、安倍元首相以来の短命内閣の連続でも、小泉構造改革に対する批判でも十分に説明できないと考える。おそらく、1994年6月に成立した「自社さ連立政権」あたりから着々と進行してきた制度疲労が根底にあると思う。
 1993年8月、自民党は1955年の結党以来初めて野党に転落し、8党連立による細川護熙内閣が誕生した。細川氏が首相を辞任すると、新進党の羽田孜が代わって首相となったが、新進党と相いれない社会党が連立を離脱した。この混乱に付け込んで、自民党は社会党の村山富一氏を首相に担ぎ上げて自社さ連立政権を成立させ、わずか1年足らずで与党に返り咲いた。イデオロギーを全く異にする社会主義政党と連立を組み、社会党党首を頂いてまで政権にこだわった自民党に、多くの自民党支持者・自民党新派はあきれ返った。政党の理念、政策よりも与党としてのポストを優先する姿勢は、まさに世も末であった。
 その後、村山富一氏を継いで首相に就任した橋本龍太郎氏は、真っ当な政策である「六大改革」をうちだし自民党の失地回復を実現するかに見えたが、アジア通貨危機と拓銀・長銀などの破綻による金融危機にお煽られ、国民の支持を失った。その後、2001〜06年の小泉純一郎内閣は国民の高い支持を取り付けたが、その人気の源泉は小泉氏の「自民党をぶっ潰す」という公約にあったことを忘れてはいけない。すなわち、小泉人気は自民党政権に対する反対票によるものであり、小泉氏が政権を離れると案の定自民党の支持率は低下の一途をたどった。
 自民党は、90年代半ばから一貫して支持を低下させ続けてきたのである。

(2)政権交代は、それ自体がすばらしい事
 このように自民党の自爆による政権交代であったが、政権交代自体はすばらしいことである。自民党と民主党のいずれが優れているかという以前に、「政権交代」自体が民主主義の基本である。50年以上も同じ勢力が政権を握れば、癒着・不正・保身・既得権益が生じるのは当たりまえである。そうした膿が表に出ることだけでも大変な成果である。その為の小選挙区制度である。
 歴代世襲してきた議席を失った自民党議員は、さも自身を麻生氏の失敗の被害者のように語っているが、議員とは時には落選するものということを忘れているのではないか。「議員は落ちればただの人」であるが、代議士は、そうした不安定な割に合わない職であることを認識した上で、自己を犠牲にして国民の為に尽くす志を持った人物がやるべきである。親や知人から譲り受けた安泰なポストであってはならないのである。そうしたことを思い出させるためにも政権交代は必要である。
 政権交代をすれば、当然、民主党を中心とする新政権は、従来の自民党独裁体制との差別化を図るであろう。そこに、既得権益や不正を暴露し是正する為のエネルギーが生じる。民主党には、遠慮なくこの国の政府の膿を出してもらいたいものである。

(3)民主党が背負う重い十字架
 しかし、この政権交代は、日本の政治を壊滅させる恐れもある。民主党の政権運営があまりに稚拙な場合、政策が自民党政権時と大差ない場合、自民党政権下での膿が表面化しない場合、国民は急速に失望するであろう。細川政権誕生により躍った心が1年もたたずに裏切られた経験を持つ日本国民にとって、2度目の落胆は致命的である。民主党政権が失敗すれば、日本国民の政治意識は地に落ちるであろう。これは日本における政治の崩壊を意味する。
 そうした悲惨な事態に陥らないためには、まず民主党が頑張らねばならない。民主党は、民主党の浮沈だけでなく、日本における議会制民主主義の命運をも握っている。たいへん重い十字架を背負っているのである。政権交代は成ったが、これは日本の政治が機能する為の第1章に過ぎないことを肝に銘じなければいけない。
 それだけでなく、野に下った自民党にも節度を持って欲しい。堂々と政策を戦わすことに専念し、民主党の揚げ足をとって政権から引きずり下ろすことばかりに力を注がないで欲しい。政争により民主党をおとしめても、自民党の支持は復活しない。またそうしたネガティブキャンペーンを繰り返せば、議会制民主主義自体が崩壊し、国会議員という職業全体のステータスが地に落ちることを頭に入れておくべきである。選挙は、あくまで相対的な勝敗を決めるものだが、絶対的な支持が高まらなければ自民党の再生はない。旧来型の政策なき揚げ足取りは政界全体に不利益をもたらす。

(4)民主党はビジョンを鮮明にせよ
 もう一つ懸念されるは、民主党の理念(ビジョン)が今一つ鮮明でないことである。自民党は、右から左への多様な意見を党内に取り込み、デパートのようにあらゆる局面に対応して長期に政権を維持してきた。しかし、民主党がそのまねをすれば、早晩、民主党も自民党と同様の仕打ちを受けるであろう。
 他の先進諸国では、市場を重視し小さな政府を標榜する保守系政党と、公平性(所得再配分)を重視し、規制や国家の介入を容認して大きめの政府を支持する左派政党とが2大政党を形成し、政権交代を繰り返してきた(独仏など多数の政党が有り連立内閣を常とする大陸欧州諸国も、概ね左右の2大勢力に分類できる)。
 しかし、日本ではこうした左右の色分けは不鮮明である。民主党が左寄り、自民党が右寄りと漠然と認識されているが、個々の議員の考えや政党のマニフェストからは鮮明な差異は出てこない。今後こうした状況が4年ほど続けば、国民は民主党・自民党はおろか、政治自体を見限りかねない。
 具体的には、民主・自民両党の設立経緯を考えれば、民主党が平等(所得再配分)を重視した大きめの政府を志向し、自民党が市場機能を重視した小さめの政府を志向するのがすっきりする。そうした方向性の差異を明らかにするには、まず民主党が明確なビジョン(理念)を前面に打ち出さねばならない。党内の多様な考えを整理し、鳩山由紀夫党首のリーダーシップのもとで明確な1本のピクチャーを示して欲しい。とくに民主党内の保守的な考え方を押さえ込むことが不可欠であり、その際には小沢一郎幹事長の扱いが鍵を握る。
 自民党も理念を明確にすべきであるが、あえて理念を不明確にしつつ延命を図ってきた癖は、そう簡単には払拭できないであろう。おそらく民主党が理念を左向きに明確にすれば、その対抗馬として自民党がおもむろに右に陣を張るというシナリオが、最も現実的かつ望まれるところである。その際には、自民党は「自由党」に名称を変更するともっと良いのだが・・・)

(5)産業保護、消費税増税に対する態度が試金石
 民主党が理念を鮮明にし、それを貫く際にはいくつかくぐらねばならない関門が。安全保障や外交における方針も重要だが、経済政策面に限っても以下の2つは大きな課題である。
 一つは、麻生政権下で進められた「産業保護」を継続するかどうかである。とくに、エルピーダ救済に用いられた改正産業活力再生法を用いて、不振な大企業をさらに救済していくのかが重要である。筆者は、税金を用いて事業会社に公的資金を投入することは決してすべきで無いと考えるが、雇用の保護を重視すべき立場の民主党にとって、失業増加に直結する産業保護の取りやめの決断はかなり難しいであろう。
 また、中小企業救済の為に復活した全額信用保証(緊急保証制度)も同様である。本コラムで再三述べたとおり、この全額保証は金融・経済に多大な歪みをもたらす。しかし、中小企業を支持基盤とする民主党が、筋を通してこれを止められるであろうか。
 もう一つは、消費税増税の問題である。社会保障の整備を実現し「安心社会」を作る為には、消費税増税が不可欠である。それが民主党の理念と合致するはずである。岡田元代表は「消費税増税」を掲げて選挙に臨んだが、小沢前代表はこれを封印した。「増税を口にしない」ことがいくら選挙の常道とはいえ、いずれしなければいけないことはどこかで看板に掲げねばならない。消費税増税論議をいつから遡上にのせるのか。これも悩ましい。
 それ以外の論点は、実はさほど難しくは無いかもしれない。
 例えば、年金制度については、民主党が主張する「最低保障年金制度」が現行制度より明らかに優れている。細部や日程面での議論はあるが、超党派で是非実現して欲しいものである。
 子育て支援や高速道路の無料化は、元来リップサービスの面が強く、「財源」「地球環境」への配慮を理由におそらく実現段階では縮小するであろう。郵政民営化の見直しについては、連立他党とも意見が一致しておりこれも難なく実現するであろう。
 これに対し、産業保護と消費税という2つの難題は、民主党が理念をどれだけ明確にし、貫けるのかの試金石となる。是非、筋の通った議論を提示して欲しいものである。(了)


★2009年8月14日『嫌悪感を抱かせる株式持ち合い復活』

企業間の株式の持ち合いが復活している。それも昨今はライバル社どうしの持ち合いが目立つ。これをどう評価したらよいのであろうか。そこには財界内の癒着の嫌な臭いがたちこめる。

(1)株式持ち合いの復活
 上場企業の発行株式時価総額に占める持ち合い株式の比率は、2006年度から上昇し08年度には12.7%(野村證券調べ)になった。1980年代までは、企業集団(旧財閥)やタテ系列の間で、あるいは事業会社とそのメインバンクとの間での株式の持ち合いが盛んであり、これが日本的な産業構造の一つの特徴であった。しかし、90年代のバブル崩壊に伴い、含み益を産んできた保有株式が含み損を産むようになり、また90年代半ば以降は時価会計の導入に伴い、企業は株式保有を負担に思うようになり、持ち合いも解消していった。
 ところが、2003年に株価が底をうち、同時期からM&Aが活発となり、株式持ち合いが復活した。国内の5証券取引所における株式分布を見ると、都銀・地銀の株式保有比率(金額ベース)は1990年度の15.7%から06年度には4.6%まで低下したが、07年度から再び増加基調にある(東京証券取引所『株式分布状況調査』)。同時に事業法人の保有比率も、90年度の30.1%から06年度には20.7 に低下した後、08年度には22.4%まで上昇している。これは持ち合い復活を裏付ける数字である。
 最近は、東芝とキャノン、日本製鋼所と住友金属工業、学習研究社と早稲田アカデミーなどの同業者どうしの持ち合いも目立つ。これは従来では考えられない現象である。理由としては「取引先との関係強化」を挙げる経営者が多いが、本音は敵対的買収に対する防衛であろう。

(2)持ち合いは株主の利益にはならない
 しかし、株式持ち合いは、企業のバランスシートを不健全なものにし、時には大きな損失をもたらす。例えば、今般の世界金融危機に伴う株価の急落により、多くの企業が株式損失を計上した。日経平均株価は、直近ピークの07年7月からボトムの09年3月にかけて61%下落しているのであるから、いかなる株式保有者も損失を逃れ得ない。株価下落は銀行をも直撃した。全国銀行の株式損益(売却損益、償却額)は、07年度までは黒字基調であったが、08年度には一挙に約2兆円の赤字に転落した。内訳は、大手行が1.4兆円の赤字、地域銀行が4千億円の赤字である。
 事業会社や銀行の株式保有は、株価上昇局面では評価益や実現益をもたらすこともあろうが、リスクと収益性を総合判断すれば一般的には妥当でない。また、企業が自社の事業に振り向けるキャッシュフローを削って他社の株式に投資することは、税負担などを考慮するとそれ自体が不合理である。
 さらに、一般には、株式持ち合いは当該株の株価上昇要因と考えられているようだが、これは疑わしい。株式の需給に着目すれば、持ち合いは設定時に当該株の需要を拡大しそれ以降は供給を抑制するため株価を支える。しかし、当該企業が互いに自社の事業に投資する方が、互いに株式を持ち合って配当を受け取るよりも明らかに両社の収益性は高くなるはずである。従って収益を考えれば、株式持ち合いは株価の下落要因となってもおかしく無い。
 すなわち、株式持ち合いは、どこから見ても株主に利益よりも損失をもたらすものである。

(3)背景に財界内の談合の臭い
 それなのにどうして株式を持ち合うのか。そこには財界内の癒着、談合体質が見え隠れする。買収防衛の為には、株主に不利益を与えてもかまわないという発想を、財界のセレブ達が共有しているのである。法人企業は(特に上場企業は)、元来株主のものであり、経営者は株主が委託したエージェントに過ぎない。そうであれば、買収者であっても新しい株主である以上、経営者はそれを退ける権利は基本的には無い。
 日本では「企業を防衛する」という言葉が安易に用いられるが、「誰が誰から何を防衛しているのか」と問えば、この言葉がいかにナンセンスかは明らかであろう。端的に言えば、買収防衛策は、現経営者が既存株主の利益を犠牲にして、新しい株主を排除し、自らの保身を図っているに過ぎない。これは、エゴイスティックなだけではなく既存の株主への背信行為である。
 その背信的保身策の一形態である株式持ち合いが大手を振るって復活している。ライバル企業どうしでも持ち合いに至るのであるから、企業家精神はどこに行ったのかと嘆きたくなる。その背景には、大手企業の経営者間の馴れ合い、談合体質が垣間見え、そのさらに奥には、日本社会に着実に浸透しつつある階層化社会、世襲といった吐き気を催すような光景がある。たかが持ち合いと軽視すべきではなかろう。

(4)銀行の株式保有はさらに問題
 なお、90年初頭のバブル崩壊以降、内外の多くの論者が「銀行の株式保有」に警鐘を鳴らしてきた。また、BIS規制においても、株式保有は大きな負担を伴うものとなっている。それなのに何故、銀行は懲りずに株式を手放さないのであろうか。旧来の企業集団のしがらみ、過去・未来の銀行の増資時の協力の見返り、など様々な理由が考えられるが、コア業務での収益が思わしくないことも理由ではなかろうか。すなわち貸出や手数料などの収益性が乏しく、その中で信用コストを賄えないため、株式関連の利益で補おうとする発想である。これはまさに一発逆転を狙う博打の発想であり、健全性を最優先すべき預金取扱金融機関にはふさわしくない。
 銀行は自らの為に、株式保有をやめるべきであろう。そうした観点では、金融庁が検討している持合い株式残高と保有理由の開示を義務付ける制度は支持できる。同時に、銀行は株式売買益に依存しないビジネスモデルを一刻も早く確立しなければいけない。(了)。


★2009年7月24日『2008年の世界同時金融危機は、通貨危機でもグローバルマネーの暴走でもない。
              むしろ伝統的なバブル崩壊と信用危機』

2007年に表面化したサブプライム・ローン問題、それに続く08年9月のリーマン・ブラザーズの破綻を受け、昨秋以来世界の金融市場は大揺れとなった。この世界同時金融危機を解説する書籍・記事が溢れている。その中で、少々気になる論調がある。今般の金融危機を、アジア通貨危機をはじめとする90年代の数々の国際金融危機と同じ分脈で捉える論調である。(今回のコラムの内容の詳細は『エコノミスト臨時増刊号』毎日新聞社、2009年8月10日号における拙稿「巨大マネーの暴走を防止できるか」ご参照)

(1)グローバルマネーは膨張しているが・・・
 本年4月から7月にかけて、NHKが『マネー資本主義』と題するNHKスペシャルを計4回に亘って放映した。サブプライムローンが証券化され膨張した過程や、今回の危機の象徴であるCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)が生み出された背景などを、当事者へのインタビューを交えて編集した、大変貴重な番組である。しかし、その根底に「世界を飛び交うマネーが膨張し、これが危機を引き起こした」という認識があるようであり、これは解せない。
 確かに世界を駆けめぐるマネー、すなわち“グローバルマネー”は膨張を続けている。例えば、世界の金融資産残高の名目GDPに対する比率は80年代から一貫して上昇を続けており、これはマネー経済化が加速していることを示している。また、国境を越える資金(内外資本取引)や外国為替取引高も急速に拡大している。

(2)90年代の一連の通貨危機とは異なる
 このグローバルマネーの膨張は、90年代に様々な事件を引き起こした。EUの通貨制度EMSを巡る1992-93年の英ポンドと伊リラの危機、94年のメキシコ・ペソ危機、97年のアジア通貨危機とそれが伝播した98年のロシア・ルーブル危機といった通貨危機であり、そのあおりを受けた99年のLTCMショックなどである。これらの通貨危機の直接の原因は固定相場(ペッグ)制度がヘッジファンドなどの投機筋に狙い撃ちされたことにあるが、その背景に国境を越えるグローバルマネーの膨張があったことも事実である。いずれの国の危機でも、その直前に国内への過剰な外国資本の流入があり、これが逆流出することによって、危機が発生している。この為、90年代末にはマレーシアやチリの資本規制の是非などが議論になり、一部では世界中の為替取引に課税する「トービン税」に関する議論まで沸き起こった。(詳細は拙著『グローバルマネー』日本評論社参照)
 しかし、今般の危機は、内外資本移動の激しさによるものではない。現象としては、証券化を通じて世界中に危機が伝播したが、奔放なグローバルマネーがあちらこちらで悪戯を繰り返した結果の90年代の通貨危機とは、原因が全く異なる。したがって、アジア通貨危機の後になされたグローバルマネー制御策の議論は今回は当てはまらない。

(3)伝統的な不動産バブルと過剰なレバレッジが根本原因
 今回の危機の原因は、むしろ日本のバブル崩壊後の金融危機や90年代初の北欧諸国の金融危機に近い。もちろん、今回は米国・英国に生じた危機が、証券化やデリバティブ取引を通じて世界に広がった点は、日本や北欧の危機とは異なる。しかし、不動産市場に生じた信用バブルの崩壊に伴う国内金融危機が根底にある点は共通している。
 このため、危機再発防止策として現在議論されているのは、90年代の国際資本移動抑制策ではなく、信用バブルを2度と膨らませない為のファンド等へのレバレッジ規制、あるいは被害を拡散しない為の証券化商品などへの規制が中心となっている。今般の危機は、伝統的なバブルとその崩壊、そしてその際に生じた金融機関の過大なレバレッジが根本原因である。

(4)国際金融規制が花盛り
 2008年秋以降、世界中で「規制論」が花盛りである。08年11月15日、09年4月2日のG20金融サミットでは「各国当局の規制・監督の対象をすべての金融商品、金融市場に広めること」を確認し、ヘッジファンドと密接な関係にあるタックスヘイブン掌握への意志も示した。IMF、BIS、FSB(旧FSF)も様々な意見を表明している。
 米国では09年6月17日、オバマ大統領が危機再発防止に向けた「金融規制改革案」を発表した。FRBが金融機関を一元管理・監督する、金融機関の破綻処理スキームを再考するといった方針とともに、デリバティブや証券化商品への規制強化案が織り込まれた。例えばABS(資産担保証券)を組成するオリジネーターにローン等の原債権の5%分(最劣後部分)を保有することを義務づける案が示された。
 一方欧州では、ファンド規制の議論が盛んである。一定以上の規模のヘッジファンドや買収ファンドに、当局への詳細な報告義務を課し、域外からのファンド販売を禁じるといった措置とともに資本規制をも検討している。
 このように規制論は多様だが、先読みをすれば焦点は投資銀行(証券会社)やファンドのレベレッジを抑制するための措置に収斂するであろう。例えば、商品規制は技術的に困難である。

(5)ノンバンクのレバレッジ抑制策は間接規制で
 では、どうやって投資銀行や(ヘッジ)ファンド等のノンバンク金融のレバレッジを抑制すればよいのか。まず、証券投資を行うノンバンクのレバレッジそのものを規制する方法を考えつくが、これは容易でない。銀行におけるBIS(バーゼル委員会)のような国際的に規制する枠組みが無く、ファンドに至っては先進国の影響が及ばないタックスヘイブンに登記しているからである。
 このため、銀行の証券会社やファンドへの資金供給を制限する方法のほうが現実的である。洪水を防ぐには水源の蛇口を閉めるのが一番確実である。世界の主な銀行はBIS規制の影響下にある為、既存のBIS規制を通じて資金供給抑制を果たすことが可能であろう。
 思い起こせば、LTCMショック後の議論でも、直接規制が議論されながら、最終的には間接規制に落ち着いた。歴史は繰り返す。(了)


★2009年6月1日『銀行自己資本比率規制バーゼルUにおけるプロシクリカリティ論議
                    /民間銀行の景気変動への自己対応に期待すべき』

 銀行の自己資本比率規制の新しい国際基準である「バーゼル(Basel)U」が、世界の経済・金融市場の悪玉となっている。景気変動を増幅し、バブルの形成と崩壊を演出する元凶だとのことである。では、バーゼルUを手直しする必要はあるのだろうか。

(1)バーゼルUの求める3本の柱
 バーゼルUは、国際決済銀行(BIS)に事務局を置く世界各国の銀行監督当局の国際会合であるバーゼル銀行監督委員会が2004年に合意した新規制である。1988年に合意し92年度末から実施された銀行の自己資本比率に関する規制(いわゆるBIS規制)が、様々な問題を有することから、その問題の抜本的な解決を目指したものである。日本は2007年3月末、欧州連合(EU)は2008年末に既に実施し、米国は2009年末に実施する予定である。
 バーゼルUは規制において要求する信用リスクの認識(リスクウェイト)が粗すぎる為、民間銀行の先進的なリスク管理を生かすべく規制上の信用リスク認識をより緻密にするものである。こうした目的のために、バーゼルUでは、第1の柱として銀行に「内部格付けを用いるか、より細分化した規定上のリスクウェイト(標準的手法)を用いてリスクアセットを算出し、その8%以上の自己資本を積むこと」を要求している。また、第2の柱としてリスク管理について銀行の自己管理と監督当局によるその検証を求め、第3の柱として銀行がリスク状況を広く開示し市場によるチェックが可能になるよう求めている。

(2)バーゼルUに対する批判が続出
 しかし、昨年来の国際金融危機の中で、このバーゼルUが悪者扱いされている。バーゼルUの対象を銀行だけでなく「証券会社・ファンドにも広げるべき」といった提言や、有価証券の評価損益を自己資本にカウントする(自己資本から評価損失の60%程度を控除、評価益の45%を加算)は銀行の投機行為を助長する為好ましくないといった意見はうなずけるが、どうも理にかなわない議論も横行している。
 代表例は、「プロシクリカリティ」の論議である。好況期には信用リスクの低下により分母のリスク資産が縮小する一方で、分子の自己資本が増加する。この為、自己資本比率が上昇し与信拡大の余地が高まる。不況期には、逆に与信を縮小せざるを得なくなる。その結果、景気循環が増幅されるという議論である。
 これは、90年代後半にバーゼルUに関する議論が始まった当初に、日本が先導して指摘してきた議論である。欧米はその時は無視してバーゼルUの議論を進め、いざ金融不況に陥ると、プロシクリカリティを持ち出してきた。いかにもご都合主義である。はしごをはずされた形の日本の金融界も、元来の「BIS規制嫌い」の風潮からこのプロシクリカリティ論議に便乗している。

(3)民間銀行の景気循環を考慮したリスク管理・資本政策に期待
 確かに、バーゼルUが従来のBIS規制に比べて、より大きなプロシクリカリティを持つことは否定できない。しかし、だからといって昔の粗いリスク分類による幼稚な規制に戻るべきなのであろうか。そんなことはありえない。
 民間銀行のリスク管理が高度化し、規制上のリスク認識との乖離が広がり、これを放置すれば不良銀行、規制しり抜け銀行が続出しかねない。自己資本比率規制を銀行に課す以上、その際のリスクアセットの計算は緻密で実態に則していなければならない。
 むしろ、プロシカリティ問題には別の視点で対応すべきであろう。
 第1に、好況期に銀行が余裕を持って高めの自己資本比率(例えば12%)を保ち、不況期には8%ぎりぎりの自己資本比率で凌ぐといった方策が考えられる。これを規制の第1の柱に組み込み、所要自己資本比率を好況時には12%以上、不況期には8%以上と変動させることも机上では考えられる。しかし、各国で景気循環や経済構造が異なるため、そうした変動比率について国際合意を得るのは不可能であろう。かといって各国それぞれが変動比率を設定すれば、各国は不況期であると主張し、結果的に低位の自己資本比率が固定化するであろう。そうなると、予期せざる損失に対する銀行の財務抵抗力が低下し、規制自体の有効性が損なわれる。こうしたことを考慮すると、民間銀行が景気変動に応じて好況期には厚めの自己資本を自ら用意することを期待するのが最も現実的である。
 第2に、そうした民間銀行の景気循環を考慮したリスク管理と資本政策を、監督当局と市場がきちんと監視することが望まれる。実は、バーゼルUの「第2の柱」においては、「民間銀行が景気循環を考慮したリスク管理を行うことを監督当局が求める」と謳っている。この、方針を最大限発揮することが重要である。同時に銀行は、景気状況の認識とそれに対するリスク管理方針・自己資本比率の設定方針を開示し、市場のチェックを積極的に受けるように心がけるべきである。

(4)時価会計懐疑論に乗るべきではない
 なおプロシクリカリティは、バーゼルU(あるいは銀行の自己資本比率規制)のみに固有のものではない。バーゼルUの根本思想である「時価会計」自体にプロシクリカリティがある為、財務・会計にかかわるあらゆるシステムにおいてプロシクリカリティが高まっているといっても過言ではない。
 伝統的に英国・米国を中心とするアングロサクソン諸国が採っていた時価会計主義が国際会計基準(IAS)の浸透とともに世界標準となり、その外圧の下で日本も時価会計に舵を切り会計ビッグバンなどを行ってきた。その痛みは、90年代後半以降、株式市場・不動産市場のみならず、企業経営全般に及んだ。ところが、米国のサブプライム・バブルの崩壊を機に広がった国際金融危機を境に、その時価会計を英米自身が棚上げいつつある。市場で価格のつかない金融商品について、時価評価を求めないといった措置が横行している。いくら緊急事態とは言え、あれほど「時価会計こそ唯一の会計基準」と豪語してきた本家の英米がこれほど簡単に旗を降ろすとは、必死で世界標準に対応してきた日本としては呆れるばかりである。
 では冷静になって考える時、果たして時価会計と、その延長線上にあるバーゼルUを改め、昔に戻るべきなのであろうか。答えはノーである。会計制度と銀行監督に関する思想は大きくぶれているが、やはり時価会計の方が取得原価会計よりは真正な会計に近く、銀行の財務管理において綿密なリスク認識が求められることは変わらない。
 日本としては、「プロシクリカリティ論」の台頭をみて「それ見たことか」と誇ってもよいが、同時に時価会計の遵守と、より緻密なリスク管理を世界に訴えていくべきではなかろうか。



★2009年5月7日『麻生政権の経済政策は、どこがおかしいのか』

(1)高速料金引き下げ、定額給付金の経済効果はあっただろうが・・・
 ゴールデンウィークには、「高速道路、どこまで走っても1000円」という麻生政権のご褒美を活用して、高速道路はずいぶん混雑したようである。おかげで、各地の行楽地も結構潤ったであろう。おそらくその経済効果は、流通業や運輸業者や鉄道・船会社が被った被害を上回ったであろう。この間に放出された大量のCO2と窒素酸化物のことを考えると、頭がクラクラするが、少なくとも日本全体でのGDPの嵩上げには幾分寄与したであろう。
 定額給付金も、評判は悪いが少しは景気にプラスだったであろう。筆者の場合は、頂いた56,000円は住宅ローンの返済口座に入金されさっそく負債の減少に置き換わっている。このため、筆者の家族の消費行動は変わらない。しかし、給付金をもとに普段食べない和牛ステーキを買ったり、外食したり、旅行したりする人も少なくないであろう。仮に、給付金総額2兆円のすべてが追加的な消費に回ったとすればGDPは0.4%増える。この試算はやや過大であろうが、それでもいくばくかの個人消費は誘発されたであろう。
 しかし、麻生政権のこのバラマキ政策を支持する声はほとんど聞かれない。内閣支持率は上がったが、これはおそらく民主党のオウンゴールによる「どんぐりの背比べ」に類する現象に過ぎない。この支持率上昇が「麻生内閣の経済政策が好感された」ことの証と捉えているのは、おそらく麻生総理1人であろう。
 では、麻生政権の経済政策のどこがいけないのか。

(2)大規模景気対策と財政収支のtrade off
 麻生政権の経済政策に対しては、様々な切り口・論理から批判がなされている。@景気対策としては力不足、Atoo small, too late(小さすぎ遅すぎる)、B財政赤字の急拡大をもたらす、Cバラマキである、D一部のセクター(自動車・家電業界など)の救済策である、E弱者への配慮が足りない(富裕層優遇である)、等が代表的であろう。しかし、これらの批判はそれぞれ矛盾している。
 まず一見して分かるのは、@AとBの矛盾である。「景気対策」とは裁量的なマクロ経済政策により有効需要を創出し、需給ギャップを縮小させることである。実質的にゼロ金利の現状では、財政支出の拡大や減税などの財政政策に頼るしかなく、景気対策を行えばその分財政赤字は確実に拡大する。中川前幹事長や竹中平蔵元経済担当大臣が主張していた「上げ潮戦略」によれば、財政拡張(支出増・減税)を行っても、財政赤字は中期的に縮小しうるということになるが、そんな都合の良い話はありえない。
 いかにありえないシナリオであるかは、財政乗数と税収弾性値の前提をおいて簡単なシミュレーションをしてみればすぐに分かる。「財政拡張をしつつ財政収支が改善する」といった拡大均衡路線には、「財政乗数が4以上+税収弾性値1.4以上」、あるいは「乗数が5以上+税収弾性値1以上」、といった実現不能の前提が必要となる(詳細は、拙著『反常識の日本経済再生論』日本評論社、2003年、第3章参照)。
 そうであれば、@Aの「もっと大規模な景気対策を」という要求を充たせば、Bの財政赤字拡大への批判は避けえないものとなる。景気対策と財政収支は、trade offの関係にあることを忘れてはならない。

(3)バラマキ政策は間違いか?
 Cの「バラマキ批判」と、Dの「一部のセクター救済策」及びEの「弱者への配慮が足りない」という批判も矛盾する。Cの批判は事業規模57兆円に上る追加経済対策にあまりに広範囲な脈絡のない政策が並んだことと、定額給付金をバラまいたことに対する批判であろう。他方、Dは環境への配慮の名を借りながら自動車業界・家電業界の救済色が強い策が盛り込まれたことを指しているようだ。またEは、贈与税減税や、自動車・家電などの高額消費を促進する策が目立つことに根ざしているようだ。これらが矛盾することに説明は不要であろう。
 では、「バラマキ」と「特定セクターの支援」とどちらが良いであろうか。その答は、政策の目的によって異なる。有効需要創出による景気対策が主眼であれば、なるべく資源配分を歪めずに均等に所得をつける「バラマキ」が正しい。例えば、評判の悪い定額給付金も、もし純粋な景気対策と捉えるのであれば、理に適っている。納税していない者も含めてすべての国民に恩恵を与えるには、こうしたやり方しかないのも事実である。
 従って、「景気対策」を求めるのであれば、「バラマキ政策」も「定額給付金」も非難すべきでない。 
 もちろん、弱者は救済する必要がある。それが近代国家の責務である。冬を越せないホームレス、派遣村になだれ込む失業者、医療費支出に脅かされる高齢者、など手を差し延べるべき対象は多い。こうした弱者救済は不可欠だが、これは社会政策であり景気対策とは切り離すべきである。したがって、景気対策の議論の中でEの批判を繰り出すのは、アンフェアである。

(4)景気対策に期待することがそもそもの間違い
 しかし、定額給付金はやはり支持できない。それはバラマキだからでも、規模が小さすぎるからでもなく、その効果に多くの期待が出来ないからである。
 前述のとおり、2兆円の定額給付金は、GDPを幾ばくかは嵩上げするであろう。しかし、これで日本経済が成長軌道に戻るとは誰も考えていない。第1に、給付金の多くは貯蓄に回るであろう。その理由は、不安感と将来の増税期待をむしろ高めてしまうことにある。リカードの中立命題が成り立つとは思えないが、減税や給付金のGDP嵩上げ効果が、経済の成熟化と情報化などにより長期的に低下してきていることは間違いない。
 第2は、景気対策の多くは1回限りであることである。事業規模57兆円もの対策を打てば、さすがに2009年度の経済成長率は幾ばくか上がるであろうが、2010年度も同規模の対策が続けられるとは思えない。そんな余裕は日本の財政には無い。そうであれば、2010年度以降の経済成長率は、再び低下することになる。1年だけ経済成長率が高まっても、総選挙には影響するであろうが、我々の生活には気休めにしかならない。
 これほど意義が希薄な景気対策なのであれば、あまりやらない方が良い。労働市場や中小企業金融のセーフティーネットを補強するといった「緊急対策」は仕方なかろうが、総需要創出策は程々にすべきである。むしろ、財政再建や産業構造強化など、いわゆる構造改革の火はきちんと残し、将来の増税を明示しつつ社会保障を整備するといった策のほうが必要ではないか。
 これが、筆者が麻生政策、定額給付金などに反対する理由である。(了)


★2009年4月20日『地域再生の為の公的機関は都道府県が出資すべき』

(1)産業調整は地域活性化の条件
 地域経済が疲弊している。地域経済の復興がなければ、日本経済の活力は戻らない。しかし、地域経済再生のためには、不振企業・産業をどうするかを真剣に考えねばならない。過去20年近くに至る日本経済の停滞により陳腐化した産業はますます苦境に立たされ、これが地域経済の活力を大いに減じている。2003〜2007年には、「円安・米国・中国バブル」により自動車・機械など輸出関連の大企業製造業が潤い、その恩恵で様々な業種が見せかけの繁栄を謳歌した。しかし、その夢の時代もサブプライム・ショック、リーマン・ショックと円高によって潰えた。今や、あらゆる産業で供給過剰が生じ、90年代からの宿題である産業調整が改めて問われている。
 こうした状況下、地方経済の復興の鍵は、いかにして不振の地場企業に退出してもらい新しい地場産業を育てるかにある。経済には新陳代謝が必要であり、構造の変革期には不振企業・産業の整理がある程度必要である。シュムペーターが述べた「創造的破壊」が無ければ、経済は発展できない。

(2)改めて事業再生の重要性を認識すべき問う
 しかし、企業の整理・破綻によって、貴重な技術や人材・ブランドなどの経営資源が失われれば、これは経済に深刻な損失を与える。この為、企業を安易に消滅させてはならない。出来れば、企業が保有する重要な経営資源は次世代にきちんと引き継ぎつつ、財務の悪化した企業や無能な経営者には退出してもらうのが好ましい。これを実現するのが企業再生・事業再生である。 
 日本では、21世紀になって「再生」が注目され始め、民間再生ファンドが林立し、2003年には政府の一機関として「産業再生機構」が設立された。企業(事業)再生は、減資などにより既存の株主には経営責任をとらせ、銀行など債権者には債権放棄をさせ、不振事業は清算あるいは売却した上で、価値のある事業に絞ってそこに出資金を仰ぎ再出発することを旨とするスキームである。これは、既存の株主と経営者にとっては抵抗があるやり方であろうが、企業破綻により貴重な経営資源まで霧消してしまうよりははるかに良い。
 そうした意識が21世紀初頭には少し浸透し、産業再生機構の下でダイエーやカネボウの再建も進められた。しかし、産業再生機構は2007年に業務を終了し、政権も代わり再生の重要性は再び忘れ去られてしまった感がある。今般の不況においては、90年代と同様、倒産防止、企業保護ばかりが打ち出される。信用保証協会による「緊急保証制度」の創設、日本政策投資銀行などを通じる大・中堅企業の救済構想など、昨今の政府による過剰保護は目に余る。救うべきは既存の経営者・株主ではなく、大切な技術や人材・ブランドであることを再確認すべきである。

(3)公的な再生支援機構が必要な訳
 地域経済再生においても、このことは肝に銘じるべきである。今後、破綻懸念に陥る地場企業は続出するであろう。その時、「老舗だから」、「地場の代表的な企業だから」というだけで救済していては、財政負担は嵩み、地場産業はいつまでも強化されない。こうした不振な地場企業は、それがいかに老舗であっても断腸の想いで解体し、技術や暖簾・ブランドなどの優良な資源をもとに事業を再構築し、新しい資本と経営者のもとで再生する方が良い。「新しい皮袋には新しい酒」を入れて、捲土重来を期すべきである。
 そうした再生を円滑にするには、不振企業の債務の整理と事業再構築を支援する公的機関が必要であろう。もちろん民間の再生ファンドや民間金融機関に事業再生を委ねる手もあろう。しかし、現在のような全般的な不況においては事業の買い手が見つかりにくい、優良な事業が過少評価されがちである、といった問題がある。実際、90年代末の金融・経済危機においても、事業再生が動き出したのは最も経済が深刻であった90年代末ではなく、金融システムが安定した2002年以降であった。
 また、日本においては、民間再生ファンドや金融機関の再生セクションの層が薄く、全国に広がる再生案件を十分に処理できない。さらに企業が複数の銀行からの借り入れに依存する日本では、債務整理を進めるのは容易でない。これらが再生を手がける公的機関が必要な理由である。

(4)事業再生のエンジンは地域主導でなければいけない
 今般の景気悪化は、全産業・全地域にダメージを与えている。90年代末のように、不動産・建設・流通の大企業に過剰債務が集中している状況であれば、その数十社を集中して再生すればよく、国の機関が媒介となればよかった。しかし、現在の不況においては、より小規模なより多くの過剰債務企業が全国に散らばっている。また日本経済再生の原動力は、おそらく内需(とりわけ消費)関連の非製造業であろう。そしてその中心となるのは、地方に分散する中堅・中小企業であろう。そうであれば、今般の事業再生は、地方主導でなければならない。
 地域での事業再生の枠組みとして「地域再生協議会」があるが、これは再生の為の見合いの場に過ぎず、ほとんど実効性をもたない。また、昨年提案された「地域力再生機構」は第三セクターの整理にウェイトがかかりすぎており、これでは不充分であった。こうした反省から、与党と民主党は地方版の産業再生機構として「企業再生支援機構(仮称)」を立ち上げるそうである。その形態や機能は不明だが、政府にそうした問題意識が高まってきたことは大いに結構である。
 ただし、報道ではこの機関はあくまで国の機関であり、地方自治体からの資金は求めないとのことである。これは解せない。先述のとおり、今求められるのは地方経済の再生である。その為には、各地方が知恵を絞って身銭を切らねばならない。霞ヶ関が各地方の再生の方向性を示せると思っているのであろうか。
 
 新たに作る「地方版産業再生機構」は、国ではなく都道府県が出資すべきである。今からでも遅くない。(了)



★2009年3月7日『政府紙幣、どこから見てもナンセンス、ましてや銀行紙幣・・・』

 政府紙幣を巡る議論がくすぶっている。紙幣(日本銀行券)は日本銀行が発行するが、日本銀行に代わって政府が紙幣を発行して経済を刺激しようとする議論らしい。おまけに、「民間銀行が『銀行紙幣』を発行せよ」という珍説まで飛び出している。いやはや奇策、珍説のオンパレードである。筆者は、これらの議論を論ずるに値しないと無視してきたが、相応の影響力を持ってきているようなのでそのあほ臭さを記しておこう。

(1)政府・中央銀行は通貨発行量をコントロールできない
 まず、紙幣は需要が無ければ出て行かないことを認識すべきである。市中銀行の顧客が、預金を下ろして紙幣(日本銀行券)を銀行から引き出す。市中銀行は、日銀預け金を対価として日本銀行から日本銀行券を払い受け、これをもって顧客の現金ニーズに応える。ここまでの説明で分かるとおり、日本銀行券は、日本銀行が発行しようとして発行するのではなく、家計や企業などの非銀行部門が通貨を要求して初めて市中に流通するのである。日本銀行は日銀券の市中流通量を基本的にはコントロールできない。せいぜい金利を上げ下げして間接操作するぐらいが関の山である。
 ましてや政府には、紙幣を発行する権限も無ければ、発行量を間接的にすらコントロールする術も無い。おそらく政府が発行量を自由に出来るとの考えは、バランスシートを念頭におかないからでてくるのであろう。金融論の教科書にある、「日銀券と準備預金の合計であるハイパワードマネーの乗数倍マネーサプライが増える」といった足し算と掛け算の公式でしか考えないから、根本から間違えるのである。日銀券は日本銀行の負債であり、その裏側には必ず資産がある。市中銀行にとって日銀券は利子を産まない資産であり、銀行は顧客の要望に応じて支払うだけを残してなるべく持ちたくない。こうした状況を理解すれば、紙幣発行を政府や中央銀行が意図的に増やすことが出来ないのは自明であろう。

(2)政府紙幣は結局、国債と変わらない
 もちろん、政府が資金需要をつけつつ紙幣を発行するのなら、発行は増えるであろう。例えば、公共事業や給付金・減税などの為の民間への支払いを政府発行の紙幣で行えば、政府紙幣の発行量は増加する。しかし、政府紙幣は国債と同様、政府にとって負債である。すなわち、一見政府紙幣発行は打ち出の小槌に見えるが、実は借金に過ぎない。
 ただし通常の国債とは、@利子が無いこと、A償還期限が無いこと、B予算とともに国会の審議を経る必要が無いこと、で異なる。(@Aは無利子国債、永久債と同じ性格であるが、実際には日本にこれらの国債は無い。)この為、政府は安易に、コスト負担感覚無しで借金を重ね、支出増(あるいは減税)を進められる。これが政府紙幣支持派の論拠らしい。
 しかし、実はここにもまやかしがある。政府紙幣は銀行に入金し、日本銀行に持ち込むことが出来なければならない。そうでなければ、誰も政府紙幣を受け取りたがらず、通貨としての機能を失う。そうであれば、利子のつかない政府紙幣を受け取った者は急いで市中銀行に持ち込み(預金し)、市中銀行は日銀に持ち込み日銀預け金を増やすであろう。そうなれば政府は紙幣を償還せざるを得なくなり、その資金は国債やFBに頼らざるを得ない。このため、実態的な償還期間はかなり短くなり、結局国債発行をせざるを得なくなる。そうであれば、政府は結局利子を払うことになり、国会での審議も受けねばならなくなる。打ち出の小槌ではないのである。

(3)日銀の国債引き受けと同じく歯止めがかからない
 それでも政府紙幣の発行を拡大し続ければ、政府はその分支出増や減税を出来るため、これは景気対策の財源に苦しむ政府にとっては魅力に映る。しかし、これこそが政府紙幣発行の最大の問題点なのである。
 すなわち、麻薬と同様、歯止めが利かなくなる恐れがある。先進諸国のほとんどは中央銀行の国債引き受けを禁止しているが、それは歯止めがかからなくなるからに他ならない。中央銀行の国債直接引き受けの禁止は、過去に多くの国が度重なる戦争において戦費調達を中央銀行に依存し、その結果ハイパーインフレに陥るという失敗から、最低限の財政節度を守る為に見いだした貴重な掟である。ましてや利子がつかないのであるから、国債の日銀引き受け以上に魅力的であり、それだけに危険である。
 「今のようなデフレ期にはインフレの心配など無用」「100年に一度の危機であるから禁じ手もやむをえない」という主張もあろう。しかし、百歩譲ってそうだとしても、それならば何故財政法・日銀法を改定して、日銀の国債引き受けを解禁すればよかろう。政府紙幣発行といったカンニングの如き姑息な手段に頼ってはいけない。こういう姑息なことを持ち出す論者には、襟を正すとともに、政策論議を乱している罪を感じてほしい。
 もちろん筆者は、いくらデフレ、不況だからといって中央銀行の国債引き受けを許すべきではないと思う。これは、過去の悲しい歴史から得た貴重な人類の知恵に基づく掟なのであるから。中世、多くの君主が通貨発行特権(シニョリッジ、Seigniorage)をもって浪費した付けは、いずれインフレとなってより大きな負担をもたらした。そうした歴史を学ぶべきである。

(4)意味不明の銀行紙幣
 最後に、「銀行紙幣」という珍説に言及する。昨年来、何人かの論者が「民間銀行がそれぞれ紙幣を発行し、これを原資に企業に融資すればよい」という論を展開している。どうやら中央銀行制度と預金制度が確立する以前の状況を想定しているようである。
 この構想の無意味さは、冒頭に記した「紙幣は発行しようと思って発行できるわけではない」「紙幣の利用(受容)者次第である」という論に則れば明らかであろう。例えば、みずほ銀行がいくら紙幣を発行しようとしても、利用者は紙幣よりも預金を志向するであろう。また、諸支払いの為の現金通貨も必要であろうが、民間銀行の紙幣が日本銀行券より選好されるとは考えにくい。また、銀行もコストのかかる紙幣など発行したくは無いであろう。
 このような珍説まで飛び出すのは、「金融」「マネー」の力がいかに過大評価されているかを示しているように思う。(了) 

★2009年2月14日『改正産業再生法に待った! 事業法人の公的資金注入には明確な基準と条件を』

(1)エルピーダ救済への疑問
 エルピーダメモリ救済の為に公的資金を注入する構想が、議論を呼んでいる。昨年来、非常事態との旗印の下で欧米諸国が無節操な公的資金注入を実施しており、米国ではビッグ3救済まで議論が進展している(本コラム2008年12月6日参照)。こうした「何でもあり」の風潮に、日本政府も乗っかった格好である。
 今回のエルピーダメモリ救済構想は、2月3日に閣議決定された改正産業再生法のスキームに則るものである。同社が数百億円の優先株を発行し、これを日本政策投資銀行などが引き受け、損失が生じた場合には国が日本政策金融公庫を通じて損失の5〜8割程度を補填するという仕組みである。世界的な景気悪化によって過小資本に陥る大・中堅事業法人を財政支援することが狙いである。紆余曲折はあろうが、与党が押し切る形で成立するであろう。
 エルピーダメモリの再建劇には、一般的な増資や台湾企業をも巻き込んだ再編構想も絡み、また各方面の産業再生法を巡る思惑の違いも垣間見え、様々な視点から注目されている。しかし、そもそも事業法人に対する公的な資本支援が正当化されるかどうかの議論の方がより重要である。

(2)事業会社の公的救済の際は減資が前提
 まず「何のために救うのか」が問われる。銀行に公的資金を資本注入するのは、あくまで金融(決済)システムを守る為であり、これは大恐慌の教訓による人類の知恵である。金融業務のボーダレス化、コングロマリット化、グローバル化により、昨今は証券会社・保険会社も救済せざるを得なくなったが、事業法人まで救う理由は見出しにくい。資金繰り支援(貸出)ならまだしも、公的な資本注入(出資)には、相当の理由が必要である。
 雇用維持も念頭にあろうが、そうなるとあらゆる大企業を救わねばならず際限がない。「優良な技術・人材など経営資源を守る」という理屈もあろうが、技術などが優良かどうかの線引きは至難の業であろう。安易に救済すれば、経営者にモラルハザード(甘え)が蔓延する。そもそも優良な技術や人材があるのなら、買収する民間企業も次々に出てくるはずである。
 モラルハザードを防ぐには、せめて既存の株主と経営者に財務悪化の責任を採らせる必要がある。すなわち、減資をした上で新たに資本を注入するといった再生手続きの定石を踏むことが重要である。
 業績が悪化した重要な企業は、まずは民間の金融機関・ファンドの再生スキームやM&Aの土俵に乗せ、「大きすぎる為に再生できない企業」に限って減資をした上で公的な資本を注入する、という手法が正解であろう。
 こうした手法を実現するには、2003年から07年にカネボウやダイエー等の財務リストラと事業再生を手がけた「産業再生機構」のような公的機関が必要である。同様の機関を急ぎ再設置する必要がある。

(3)事業会社の公的救済の際は減資が前提
 今回の改正産業再生法のスキームは、日本政策投資銀行の出資を組み込んでいる点も奇異である。日本政策投資銀行は民営化の途上であり、これに公的な役割を担わせるのであれば、そもそも民営化などすべきでなかったはずである。
 片や、郵政民営化に関し、首相が「自分は反対だった」と述べ、これが政界を揺るがしている。かんぽの宿のオリックスへの売却における入札も糾弾されている。これらは皆、政府機関であったものが民営化される過程で避けて通れない議論かもしれない。すなわち、公共的な事業を「官」がやるか「民」がやるかは、非常にナイーブな議論であり、誰もが納得する明確な線引きは難しい。この為、小泉政権での郵政民営化路線に政策論として反対であった自民党議員は山ほどいるであろう。また、民営化企業は公共サービスを担いながら収益力を高めねばならないので、様々な矛盾が生ずる。入札方式を巡る議論もその一端である。
 今般のような深刻な不況下では、裁量政策や市場機能の公的補完の重要性が高まる。そうであればその一翼を担う政策金融機関や郵政事業の民営化をやめる、あるいはせめて一時凍結しても良いのではなかろうか。麻生首相は「本当は反対だった」などと姑息な発言はせず、むしろどう堂々と民営化をストップしてはどうだろうか。


★2009年1月9日『日米欧のゼロ金利下での量的金融緩和策の帰結は』

先進国がこぞってゼロ金利に近づいている。その先には、当然「量的金融緩和」が展望される、しかし、その道筋や影響は、国によってずいぶん異なる可能性がある。当然、実体経済や株式・為替市場への影響も異なる。さて、どのような相違であろうか?

(1)日米欧ともゼロ金利直前
 先進諸国は厳しい景気後退に陥っている。日本・米国・欧州とも2007年第4四半期から景気後退に陥っており、2008年9月にリーマン・ブラザース破綻に伴い国際金融市場が麻痺した後は、先進国経済はまさにメルトダウンの様相を呈した。物価も急速に鎮静化し、国のよって異なるがデフレ、ディスインフレに突入している。これらを受け、いずれの市場でも株価が急落し、不動産価格も下落している。
 新興国、発展途上国経済もこぞって低調である。一時期もてはやされたBRICs諸国も今や数年前の勢いはなく、産油国も原油価格の反落と投資損失により、往年の勢いを失っている。国によって濃淡はあるが、経済成長が加速している勢いのある国は見当たらない。
 このように眼下の世界経済は、まさに「世界同時不況」である。いずれの市場においても信用収縮が深刻であり、政府や中央銀行の信用供与によりかろうじて命脈を保っている状況である。こういう状況であるから、世界の中央銀行はこぞって金融緩和を実施している。世界的な協調金融緩和である。政策金利をみると、日本が0.1%(コール翌日物金利誘導目標、08年12月19日引き下げ)、米国が0-0.25%、ユーロ圏が2.5%、英国が1.5%(09年1月8日引き下げ)とゼロ金利目前となった。日米欧とも景気後退は当分続き、ディスインフレあるいはデフレも続くと考えられる為、中央銀行はおそらく今年一杯「金利の引き下げ」か「現状維持」かの判断を続けることになる。その際、下限である0%の壁が大きく立ちはだかることになる。

(2)蜃気楼に過ぎない量的金融緩和策への期待が再び高まる
 金利ゼロ%の壁が目前にひかえると、当然、非従来型の金融政策の可能性が取りざたされる。2001年から06年の間、日本では政策金利が実質0%に至り、金融政策の目標を金利から準備預金に切り替える、所謂「量的金融緩和策」が導入された。量的緩和の実体経済への効果については、この策が議論され始めた1999年頃から筆者は否定的な見方を表明してきた。簡略化すれば、「銀行の準備預金をいくら積みましても、非銀行部門への与信が拡大しない限りデフレ解消や成長率向上に資するはずがない」という論調である(詳細は拙著『反常識の日本経済再生論』(2003年)、『中小企業金融のマクロ経済分析』(2006年))。その後、名だたる経済学者、金融専門家が市場の期待形成に働きかける効果などを持ち出して量的緩和推進論を展開したが、実際にその効果がほとんどなかったことは歴史が証明した。
 しいて言えば、ゼロ金利・量的緩和策の中で日本銀行が打ち出した「時間軸効果」については、論理的にも、また実際も実質金利の引き下げに一役買った。しかし、この時間軸効果はゼロ金利における策としては意味があるが、厳密には量的金融緩和の効果ではない。これを混同した議論が未だに見られるが、両者は峻別すべきである。量的金融緩和策は、金融機関への流動性供与のセーフティネットとしては意味が認められるが、それもロンバート貸出制度で十分であろう。
 そういう中で、量的金融緩和策への期待が、再び経済学者や金融市場関係者の間で高まっている。とくに量的緩和論の推進者の1人であったバーナンキ氏がFRB議長に就いていることから、米国で量的金融緩和策がとられるのではないかとの期待が高まっている。

(3)日米欧が同時に量的緩和策を採れば日本に負担が
 しかし、各国の賢明なセントラルバンカーが、日本の量的金融緩和策とその帰結を見た上でその効果を高く評価しているとは思えない。もちろんゼロ金利下での何らかの対策は考えざるを得ないし、アリバイ作りのために、あるいは金融機関救済の変形として実際に量的緩和を進める国も出てくるであろうが、本音ではそれは景気浮揚効果を期待してのことではなかろう。
 さてそうなったときに金融政策の実体経済や金融市場への影響はどう考えればよいのであろう。
 第1に、期待インフレ率が高い国ほど金融政策の効果が大きくなると考えられる。需要サイドはどの国も停滞しているのであるから、コスト面、とくに為替レートの物価への影響が重要となる。例えば、円高基調に転じた日本ではインフレ期待は遠のいた。逆に、為替レートが大きく減価したユーロ圏では期待インフレ率が高まり、実質金利の低下効果が現れやすくなるであろう。おそらく欧州の景気回復が、日本や米国よりも先行するであろう。
 第2に、市場での受け止め方が鍵を握る。日本でも、結果的には量的金融緩和の効果はなかったとはいえ、時間軸効果と合わせその最中では効果を期待して市場は反応した。長期金利は低位に保たれ、株価も2003年4月末を底に急上昇した。これは一種の幻影による「だまし効果」である。今般、仮に日米欧の中央銀行が量的緩和策に踏み切ったとき、日本の投資家はもはや2度だまされることはなかろうが、欧米の市場関係者はだまされるかもしれない。そのとき、日本では市場は反応しないが、欧米市場では長期金利の低下や株価上昇がもたらされるといった事態が考えられる。一回限りとは言え、市場が騙されれば市場は反応するのである。
 
 そういう状況下では、日本の長期金利が高止まり、また内外金利差の縮小により円高が進みこれらが日本経済に打撃を与える可能性がある。いずれにせよ、金融政策の手詰まりの負担は、日本が一番被りそうである。(了)


★2008年12月6日『米自動車“BIG3”救済を巡る議論の混迷は、理無き金融市場救済に根源が』 

米国自動車大手3社(BIG3)の救済策が紛糾している。様々な論点があるが、根本には「何故、自動車メーカーを救済するのか」という疑問がある。こうした根本的な疑問にいつまでも答が出ないのは、本年夏の金融危機において、金融機関を野放図に救済してきたことに元凶がある。

(1)BIG3救済策と国民の反発
 米国の金融市場で信用収縮が進行し、米国経済が急速に減速するなか、米国産業を象徴する自動車BIG3の経営が危機に瀕しその救済策が急浮上した。BIG3は最大340億ドルもの緊急資金支援を求め、11月には民主党からも「金融安定化法に基づく7000億ドルの公的資金をBIG3に用いる」との提案がなされた。
 しかし、BIG3救済策を巡る議論は紛糾した。共和党もブッシュ政権も救済には慎重であり、民主党の金融安定化法を用いた救済案を退けた。また、最大の障害は世論であった。国民はBIG3の雇用の維持の意義よりも、税金を一部の民間企業の救済に用いることの弊害を重視した。また、BIG3社長が自家用飛行機で議会に乗りつけたといったことをあげつらって、大手企業の甘い経営姿勢に憤慨した。こうしたことから、救済策は徐々に勢いを失った。12月4-5日には上院・下院で公聴会が開かれ、BIG3の社長が首を揃えて、議会にて救済を求めた。しかし、多くの国民はBIG3救済策を支持はしなかった。
 最終的には、既に成立している環境技術開発向けの政府融資枠250億ドルの一部を活用して150億ドル(約1兆4000億円)程度の「つなぎ融資」を行うことで決着しそうである。 

(2)BIG3救済策の根拠
 こうした議論の混迷は、ひとえにBIG3という民間企業を国民の税金を用いて救済する根拠が乏しいことに原因がある。改めて、BIG3救済策の根拠はどこに見出しうるのであろうか。
 第1は、雇用の維持である。3社の従業員数は26万人、関連会社などでの雇用を含めれば255万人(全米の1.9%)に上る。10年前より半減したとはいえ、未だに米国の雇用の一定部分を支えている。この3社が破綻すれば大量の失業が生じる。破綻に至らずとも不振であるだけで、巨大なレイオフがなされる。これは米国のマクロ経済に直接ダメージを与える。こうした不安が、救済策浮上の直接の動機である。
 しかし「雇用維持」を目的に民間企業を救済するのは筋が通らない。それがまかり通るのであれば、不況期にはすべての不振企業を救済せねばならずきりが無い。その行き着く先は米国が忌み嫌う社会(共産)主義である。また、公的資金の資金注入や資金繰り支援を行った企業には厳しいリストラが求められる。そうならば、失業防止の狙いに逆行する。
 根拠の第2は、金融市場の大混乱がBIG3の危機の一因となったことである。金融危機によりBIG3の資金調達が困難になったこと、証券化商品やデリバティブズで損失を被ったこと、金融危機受け自動車販売が不振に陥ったことなどが、複合的に作用してBIG3を危機の淵に追い込んだ。すなわちBIG3も金融危機の犠牲者であるとの見方である。これがBIG3救済の、とくに金融安定化法による救済の根拠とされる。
 しかし、これもナンセンスである。金融危機のダメージは、自動車業界のみならず米国のあらゆる企業に広がっている。ダメージを被った企業を救い始めれば、これもきりが無い。

(3)金融市場の混乱回避の為の救済の危うさ
 第3の根拠は、BIG3が破綻すれば金融市場がさらに混乱するとの懸念である。BIG3の発行する社債・CPがデフォルトした時の市場へのダメージは大きい。また、BIG3、およびその関連企業、年金基金の運用資産は巨額であり、本体企業の危機によりそれらの金融資産が売却されれば、これは市場に多大な影響を及ぼす。
 この考え方は、2008年に発動された様々な金融機関救済策の延長線上にある。ベアー・スターンズ証券への資金支援、ファニーメイとフレディマックといったGSE(政府機関)への資本注入、シティーコープへの支援、保険会社AIGの救済などと同じく、目的は金融市場の混乱回避である。
 そもそも伝統的な金融論では、預金者保護のために預金取扱金融機関を救済することは許容されたが、証券会社やファンドなどの非預金取扱機関は救済の対象とはならなかった(詳細は2008年7月29日付け本コラム参照)。しかし、今回の国際金融危機では、欧米諸国は「市場の混乱回避」の為に非預金取扱金融機関にも公的資金を投入してきている。そうであれば、救済の対象は金融機関に留まらない。事業会社でも金融市場に多大な影響力さえあれば、救済対象とせざるを得ない。
 しかし、これもきりが無い。金融市場の混乱回避という根拠でBIG3を救済するのであれば、今度はヘッジファンドなども救済せざるを得なくなる。またまたきりが無い。
 このように議論が混乱するのは、8月の金融機関救済劇が無節操でありすぎたことのツケであろう。やはり非預金取扱金融機関の救済には、もっと慎重であるべきであった。慎重であれば、BIG 3救済案などは出てこなかったであろう。
 今更ではあるが、米国は「公的資金を投入して救済することが許されるのは“預金取扱金融機関”のみ」と再確認した方がよいのではなかろうか。さも無くば、大企業が危機に陥るたびに公的資金での救済を巡る不毛な議論を繰り返さねばならなくなる。この米国での教訓は、日本にも通ずるものである。 (了)



★2008年10月31日『米国発の金融危機:幻想からの覚醒はいつも突然』

米国の金融危機が留まるところをしらない。日本の株価も、「もうそろそろ下げ止まりだろう」と思っているうちにつるべ落としとなり、あっさりと2003年4月のバブル後最安値を更新した。こうした流動的な状況下で総括を試みるのは勇気がいるが、これだけの大事件だけにここらで中間とりまとめをせねばならない。

(1)実体経済面:米国のバブル崩壊・三つ子の赤字が根底に
 今次の国際金融危機は、実体経済面と金融市場面の両面に原因がある。実体経済面での根本原因としては3つあげられる。
 第一は、米国・英国とその周辺国で繰り広げられていた不動産を中心とする資産バブルである。とくに米国のサブプライム・ローンは、その焦げ付きが危機のきっかけとなっただけでなく、今回の異常なバブル崩壊劇を象徴するものであった。そして住宅市場だけでなく、株式市場、一次産品市場と次々とバブルが伝播し、其々の市場で順次バブルが崩壊していった。バブルの背景には、常に金余りと陶酔(ユーフォリア)がある。今回のバブルもご多分に漏れない。米国はITバブル崩壊後の景気調整を受け2002 〜05年にかけて実質金利を低位に保ち、その過程で増刷されたマネーは株式、不動産に向かった。そして資産価格に割高感がでるとマネーは一次産品に向かった。これはまさに1980年代後半の日本と同じである。
 そしてバブルの崩壊過程も、いつか来た道(デ・ジャブ)である。金融引き締めが住宅市場を冷やし、次に全般的な資産価格の調整をもたらし、多くの証券取引において巨額の損失が発生した。2007年夏ごろから大騒ぎになったサブプライムローン・ショックである。
 第二は、米国の赤字体質である。米国が巨額の財政赤字とそれを背景とする経常収支赤字との「双子の赤字」をかかえると言われるが、実は民間部門の赤字、とくに借金漬けの家計の赤字も深刻である。むしろ、これらをあわせて「三つ子の赤字」と呼ぶべきであろう。これらの赤字は海外からの資本流入でファイナンスされてきた。しかし、かつての基軸通貨国の威光にも限界がある。その限界が2008年9月であったのだ。米国からの資金の引き上げにより、米国の金融市場は干上がり、誰も米国に積極的に資金を投入しようとしなくなりドル為替レートは急落した。
 想えば、米国経済の春は長すぎた。筆者を含む多くのエコノミストが「アメリカ・リスク」を口にしながら、その陰鬱な予告は裏切られてきた。しかし、米国経済も夢から覚めざるを得なかったのである。

第三は、米国以外の経済もちょうど調整期に入っていたことである。欧州も日本も昨年秋から景気が後退局面にある。BRICsなどの新興国経済にも急ブレーキがかかっていた。このような世界同時不況の中で、米国リスクが顕在化し、一挙に株式他の証券、不動産などの資産価格が低下したのである。

(2)自由な金融市場の挫折

金融市場は90年代以降、技術革新と世界景気の拡大、金融緩和の中で繁栄を謳歌してきたが、上述の実体経済の歪みの中で挫折を味わうことになった。

第一の挫折は、証券化やデリバティブズのリスクが制御できていなかったことである。サブプライム・ローンは、米国内の住宅ローンであるにもかかわらず、証券に組みなおすことで全世界にばら撒かれた。その証券化の過程で格付け会社の甘い認識により本来のリスクが覆い隠され、最終保有者がリスクを認識せずに投資した為、後にリスクが顕在化するにつれて損失が止め処もなく拡大した。原債権が高リスク貸出なのだから、これを組み替えてもリスクは消えるはずがない。そんな当たり前のことが、07年半ばまで忘れ去られていたのである。

また、信用部分に対する保証を取引するCDS(Credit Default Swap)といった怪しげな取引も信じられない規模に膨らみ、その損失がどの程度か今なおわからない。98年のLTCMショックをも乗り越え我が世の春を謳歌してきた「金融工学」にとって、初の本格的な挫折であろう。こうしたハイテク金融の挫折が、金融市場の混乱を増殖した。

第二は、市場主義に対する不信が高まった。1980年代のサッチャー、レーガン期に伸張した新自由主義、市場至上主義は、その後の社会(共産)主義諸国の崩壊やインターネットを起爆剤とするIT化の進展により力を得ていつしか唯一無比の価値観の如く語られるようになった。その市場主義が転機を迎えている。今回の金融危機は、金融工学のみならずその背景にある自由市場信仰にも不信感を植え付けた。また、欧米諸国は危機の収拾の為に、公的資金で不良債権を買取り、市場に介入し、金融機関の国有化を進めるなど、これまでの市場主義とは相容れない政策に急転換した。

同時に、金融工学と並ぶ市場主義のもう一つのエンジンである「時価会計」にも転機が訪れている。(時価会計の行方については、別の機会に述べよう)。

(3)「複合不況」ならぬ「複合危機」
 このように今回の国際金融危機は、実体経済の深刻な歪みに、金融市場の暴走のツケが重なったものである。バブル崩壊の開始直後に我が師の故・宮崎義一先生(元京都大学教授)が『複合不況』(1992年、岩波新書)という書を著し話題になった。これになぞらえれば、今般の混乱はさしずめ『複合危機』とでも言うべきであろう。
 そうした観点からは、90年代の日本は愚か、1929年以降の世界恐慌より複雑であり、深刻であるかもしれない。市場関係者は比較的楽観的である。米国経済と市場への信奉が強いことと、「結局、資金は米国に戻るしかない」と信じているからである。しかし、こうした考え方は、もはや迷信に堕している。
 これまでの米国経済とそれを支えてきた自由市場は、長い夢を見すぎたのである。「持続不可能な不合理なこと」は続かない。ファンダメンタルズの歪みは、いつか市場にしっぺ返しをする。これらを総合すると、世界経済が再び勢いを取り戻すには、米国の赤字体質にメスが入り、改善の方向性が示される必要である。そうであれば、相応の時間が必要である。米国株式、ドルについては、これからも相当なリスクを認識しておくべきと考える。(了)



★2008年9月1日『総合経済対策の目玉/信用保証増枠は百害あって一利なし』

8月29日、政府は総合経済対策を決定した。言うまでもなく、景気悪化、それも諸物価上昇の中での景気後退というスタグフレーションに直面し、これを何とか打開しようとの策である。しかし、90年代の度重なる「対策」がことごとく効果を示さず、財政赤字の拡大ばかりをもたらしたという悪夢は忘れてはならない。とくに今回の対策の目玉である「信用保証枠の拡大」は、効果が疑問なだけでなく、中小企業金融をかえって悪くするのではないとの懸念を抱く。

(1)いまさら「経済対策」?
 今回の総合対策の事業規模は11.7兆円であるが、真水(財政負担)は1.8兆円である。事業規模11.7兆円のうち9兆円は、中小企業向け信用保証制度の拡充という直接財政負担が生じない措置が占めるからである。1995年の村山政権以降の9回の経済対策と比べても、真水の規模は小泉政権の2001年の対策に次いで小さい。
 こうした省エネ型の対策とするのは、いうまでもなく財政状況が深刻だからである。しかし、真水が少ないと効果が乏しいのも事実である。
 筆者は「財政乗数が低く消費者の不安が大きい中では、公共支出増や減税(定率減税を含む)の効果は小さい」と考える為、財政政策の出動そのものに否定的である。百歩譲って、財政政策に効果があったとしても、その規模が小さいのなら効果が有るはずがない。信用保証によって見せかけの事業規模を拡大しても何の意味があるのであろうか。姑息なことをするものである。
 90年代以降の経済停滞の中で、政府は計130兆円の経済対策を実施したが、経済の回復は果たせなかった。その教訓をいいかげん学習して欲しいものである。

(2)信用保証制度の経緯
 では、今回の目玉である「信用保証」の効果はどうであろうか。信用保証協会の保証は伝統的なものだが、1998年10月、折からの貸し渋りに対応して、総額30兆円の枠の特別信用保証制度を作った。これはネガティブチェックのみの緩い審査で保証するものであり、多くの中小企業がこの枠を利用した。この特別信用保証制度は、2001年3月で終了し、その後は「セーフティネット保証」という通常の保証制度に近い制度に引き継がれた。
 今回の保証枠の増額は、このセーフティネット保証を拡充するものであり、原油、原材料、仕入価格の高騰を販売価格に転嫁できない業種を対象に加えたものである。9兆円の枠を追加し、保証債権の焦げ付きの際の財政負担として4千億円を計上している。

(3)信用保証の効果・意義
 では、眼下の中小企業金融の動向を踏まえ、この保証枠増額の意義はどう考えればよいのか。
 公的な信用保証制度は多くの先進国が持っているが、日本ほど大規模なものではない。また、貸出債権の100%を保証する制度は珍しい。こうしたことから、プロの間では「日本の保証制度は手厚すぎる」との認識が一般的であろう。(もちろん中小企業や現場の金融機関、あるいは政治家はそうは捉えていないであろうが。)
 弊害としては、債権が焦げ付いたときの代位弁済による財政負担がある。とくに98年からの特別信用保証制度については、審査が甘かったこともあり、国民負担はかなり高まった。また、貸し手である金融機関、及び借り手のモラルハザードの問題も指摘される。貸出の現場では、確かにリスクの高い債権には無条件で公的保証をつけ、金融機関はノーリスクで融資する傾向が見られる。
 また、貸出金利体系を歪めるという弊害もある。保証さえつけば、リスクの高い貸出でも低金利で実行できる為、貸出金利全体が引き下げられ、金融機関の貸出採算が悪化するという論理である。保証制度を厚くすることで、一時的には貸出が増加するが、貸出市場での価格体系が破壊され、長期的には中小企業向け貸出市場の停滞を招くとも考えられる。
 今回の目玉である公的信用保証枠の拡大もいただけない策である。(了)


★2008年8月15日『『麻生太郎幹事長、またそんな無意味な株式市場介入策を提案なさるのですか?』

(1)麻生太郎幹事長のスタンドプレイが始まった
 自民党の麻生太郎幹事長が、またぞろ馬鹿なスタンドプレイを繰り出している。「新たな証券優遇税制を創設せよ」という主張である。「1人あたり300万円までの株式投資に関し、そこから得られる配当を非課税にすべき」との案だそうだ。麻生氏は2009年度から実施すべきとしており、俄かに議論がホットになっている。茂木敏充金融担当大臣は前向きに検討すると述べ、福田康夫首相も、消極的ながら肯定の姿勢を示している。自民党・現政権は、景気対策の目玉にするつもりのようだ。
 しかし、これは何度もみてきた光景である。2007年10月18日の本コラム『前略、財界の皆様。証券優遇税制、未だ続けるのですか?』でも述べたとおり、株式市場が低調になる度に金融税制が人身御供となり歪められる。もう、ウンザリである。

(2)さらなる「複雑、不公平、歪み」
 そもそも現行の無茶苦茶な証券優遇税制は、2001年11月に株価低迷の中で成立し、2003年(平成15年)初から実施されている(2008年末終了の予定)。日経平均株価は、2003年4月には7608円にまで下落した後に04年4月には12,164円まで急騰するが、証券優遇擁護派はこの株価急回復を「優遇税制の効果」と捉えているようだ。しかし2007年10月18日のコラムに記したとおり、譲渡所得税率が20%から10%に引き下げられることで株式を購入する人は、そんなにいるはずがない。利益の10%の差は、(税引き後の)利回りで言えば数%の差であり、その程度の利回り差は、株式市況のちょっとした変化で吹き飛んでしまう。むしろ株式売却を促進する効果があり、その分株式需給を緩める要因にもなりかねない。
 また、税の三原則である「公平」「簡素」「中立」のいずれにも反する税制である。金融所得に対する税率は、本則では20%であり、預貯金や公社債の利子に対する税率は20%である。すなわち、証券の譲渡所得・配当所得に対する税率は他の金融所得に対して不当に優遇されている。「公平性」の問題とはこれである。「簡素」「中立」に反していることは説明を要しないであろう。
 このような歪んだ証券税制の期限が迫り、この延長論が根強い中、麻生氏はさらに複雑な、不公平な、非中立的な税を創設しようとしているのである。まさに恥の上塗りである。

(3)むしろ「金融一体課税」実現に注力を
 株式市場に資金を呼び込み、「貯蓄から投資」を実現するには、このような姑息な優遇税制を行うのではなく、公平性を徹底的に追求して、なるべく総合課税に近づけるのが最も効果があると考える。例えば、すべての金融取引で生ずる損益を合算・通算した所得に課税する「金融一体課税」を一刻も早く実現すべきであろう。利子と証券キャピタルロスの損益通算を認めることにより、株式の投資家はより積極的にリスクをとることが出来るようになるであろう。その為には、まず金融所得の税率は、統一されていなければいけない。

(4)永田町の懲りない面々
 それにしても、どうしてこのような愚策が数年ごとに、株価が低迷する度に浮上するのか。これは、政治家の問題よりも、民度とメディアの知的水準の低さに根本原因があると考えられる。そう考えると暗澹たる気分となるが、少なくとも「税」についてはもう少し国民も学習すべきであろう。
 その為には、いずれの財政学の教科書にもある「公平」「中立」「簡素」という「税の三大原則」が、経済の長期的な発展を実現する為の原則であることを理解しなければいけない。数年前には、この三原則のうちの「中立」を「活力」に入れ替えて恣意的な税制を実現しようとした経済財政担当大臣と財政学者が現れ、これにはいささか驚いた。税の専門家ですら理念を曲げて大衆におもねる誘惑にかられるようだ。
 そうした政治的な曲解は論外だが、この三原則の重要性が国民に認識されていないことが根本原因である。自民党・幹事長などの永田町の懲りない面々だけでなく、もう少し広く国民にも啓蒙が必要なようだ。(了)

★2008年7月29日『理なき米国のファニーメイ・フレディマックへの公的支援策』 
    (本コラムの詳細は『週刊エコノミスト』2008年9月2日号に掲載されます。あわせてご覧下さい。)

(1)急遽決まった政府の支援策
 米国の連邦住宅抵当金庫(ファニーメイ;FNMA)と連邦住宅貸付抵当公社(フレディマック;FHLMC)の経営危機を受けて、米国政府(財務省)が、@両機関への与信枠の拡大、A必要な場合の出資(公的資金注入)、といった支援策を定めた。FRB(連邦準備制度理事会)も両機関を公定歩合での連銀貸出の対象とした。
 この救済策は、米国内外の金融関係者からとりあえず歓迎されている。しかし、この救済策が金融健全化策(プルデンシャル・ポリシー)として果たして妥当なものかどうかは疑問が残る。

(2)預金保護・システミック・リスク回避が公的支援の唯一の根拠
 政府が税金を用いて金融機関を救済(支援)するには、明確な根拠と条件が必要である。救済(支援)は公平性を阻害し、モラルハザードをもたらし、国民負担につながる懸念があるからである。
 一般には、“Too big to fail”という語のとおり、金融機関の規模が救済の条件のごとく語られる。確かにファニーメイ、フレディマックの規模は巨大である。両機関の資産規模は合計1.6兆、オフバランスの証券化商品の保証残高3.6兆ドルを加えると与信規模は合計で5.2兆ドルに上る。このような大規模な金融機関が破綻すれば、世界の金融市場が被る損失は計り知れず、その点からは救済するのは当然に見える。
 しかし、規模が大きいことだけをもって救済するわけにはいかない。例えば、巨大な存在となったヘッジファンドが大きな損失を抱えた際に、これを救済しようとの議論は生じなかった。
 金融機関への公的な救済(支援)が肯定される唯一の根拠は「預金者保護」である。銀行などの預金取扱金融機関が破綻すれば零細預金者のなけなしの資産が毀損する。また預金は「決済」機能を担っているため、銀行破綻が連鎖し決済システム全体が麻痺すれば、経済・社会全体に多大な悪影響が及ぶ。そうしたシステミック・リスクを回避する為に預金を保護する、あるいは銀行を救済することはある程度正当化される。
 逆に、預金を扱わないノンバンク金融機関を救済対象とすることは正当化できない。1990年代の日本でも、銀行に対しては納税者の資金をもちいて国有化や資金援助がなされたが、証券会社などはいくら規模が大きくても救済しなかった。こうした観点からすれば、ファニーメイ、フレディマックの2機関を政府が救済する根拠は乏しい。両機関は、債券発行により資金を調達し、民間の住宅ローンを買い取り、証券化し、その証券化証券(RMBS:住宅ローン担保証券)の元利金を保証することを業としている。預金を扱っているわけではないので、これらが破綻しても決済機能が傷つくわけではない。

(3)両住宅金融機関救済の実際の2つの根拠
 実際には今回の救済措置の第1の目的は、「投資家の保護」だったようだ。両機関が発行・保証する債券が巨額であり、広く世界に拡散している。とくに諸外国の外貨準備として組み込まれているものも多い。こうなると、米国政府は国の威信をかけて、あるいは外交上の配慮から外国政府に迷惑をかけないために両機関を救済せざるを得ない。これは、日本を含む海外の投資家から見ればありがたい話だが、米国国民はもっと憤慨すべきであろう。ファニーメイ、フレディマック救済は、米国民の財産よりも諸外国の対外資産の保護を優先したことを意味するからである。
 第2の目的は「借り手保護」であろう。米国では、昨年来のサブプライムローン・ショックに伴い、同ローン市場のみならず通常の住宅ローン市場も低調となり、これが社会問題にまで発展している。こうした事態を受け、政府はファニーメイ、フレディマックに住宅ローン債権を積極的に買取ってもらい、住宅ローン市場の下支えの役割を期待している。両機関が破綻すれば、住宅ローン市場は崩壊し貸し渋りが深刻化する。そうした事態を避け「借り手を保護する」為に救済した面もある。
 しかし「借り手保護」など出来ないことは、90年代末の日本の経験からも明らかである。この点でも、ファニーメイ、フレディマック両機関を救済する理屈は正当なものとはいえない。 

(4)公共的な機関への暗黙の政府保証
 実は、救済の最大の理由はファニーメイ、フレディマックの半官半民の位置づけにあったのではないかと筆者は考える。ファニーメイ、フレディマックは、ニューヨーク証券取引所に上場する純然たる民間株式会社である。政府が全額出資するジニーメイ(連邦政府抵当金庫)とは、性格が全く異なる。しかし、ファニーメイ、フレディマックも実態的には公共的な色彩を有している。両機関はOFHEOという政府の監督局の管轄下にて公共的な役割を担っており、その発行債券は投資家から「暗黙の政府保証がついている」と目され最高位の格付けを有している。このため、政府にはそもそも破綻させるという選択肢はなかったのかもしれない。
 これは日本にも無関係ではない。2007年10月には「株式会社ゆうちょ銀行」が誕生し、2017年9月末までに完全民営化される。商工組合中央金庫、日本政策投資銀行は2008年10月に株式会社に移行し、その後2013〜15年度をめどに完全民営化される。いずれも現在、ビジネスモデルを定めている最中であるが、いずれにせよ収益を上げていくためには相応のリスクをとることになる。この為、経営破綻のリスクが伴うことになる。
 これらの民営化機関が破綻しそうな場合に、政府は救済するのであろうか。政府出資が残る間には間違いなく政府は救済の手を差し伸べるであろう。これ自体、民間金融機関との競争条件上すでに問題視されている。加えて、今回のファニーメイ・フレディマックの救済劇をみると、日本の3つの民営化金融機関について、完全民営化した後にも政府の暗黙の保証が残る可能性が高い。市場原理を重視し政府の関与を嫌う米国ですら公共的な民間機関を救済した。「官」の関与が強く金融機関破綻を嫌う日本において、民営化機関を政府が保護しないことは想定しにくい。そうだとすると、政府(すなわち国民は)これら3つの民営化金融機関について既に膨大な潜在的リスクを負っていることになる。

(5)世界的な過保護の風潮
 昨年来のサブプライムローン・ショックにおいては、各国政府は予想以上の大盤振る舞いでの救済を行っている。英国政府が中堅地方銀行であるノーザンロック(Northern Rock)銀行が、預金取り付けに直面するのを見て07年9月、預金の全額保護を表明し、08年2月には一時国有化を宣言した。米国でも、08年3月危機に陥った証券会社の(銀行ではない)ベアー・スターンズにFRBが流動性供給を行うこととした。そして今回の、根拠を見出し難いファニーメイ、フレディマックの救済である。明らかに欧米諸国の金融当局の救済に関する基準が緩和されてきているようである。
 今回のファニーメイ、フレディマックへの政府支援による財政コストは、米議会予算局(CBO)の推計では250億ドル(2009―2010年度)と巨額である。CBOは、このコストが顕在化する可能性は高くないと付言しているが、少なくとも米国民にとっては大きなリスクとなる。その付けは将来世代が被ることになる。それでよいのだろうか。 (了)


★2008年6月5日『時間軸効果の清算の観点からは金利引き上げはまだまだ先』

 “デフレ脱却”が近い、あるいは既に終わっているという認識から、金融緩和の終了が取りざたされている。まず、デフレが終わったのかについて議論がある。また、デフレが解消しているとして、これがそのまま「金利引き上げ」につながるのかどうかにも議論の余地がある。その議論は、量的金融緩和の前提となった「時間軸効果」をどう考えるのかに依存している。

(1)デフレは終わったのか
 まず、デフレが終わったのかどうかについては、どの物価指標を用いるかによって結論が異なる。消費者物価(生鮮食品を除く総合)の前年同月比の上昇率は、昨年10月からプラスになっており、本年3月には1.2%に高まった。国内企業物価指数の前年比上昇率は、ずいぶん前からプラスになっており、3月には3.9%にもなっている。また、GDP統計における国内需要のデフレーターの前年同期比上昇率も本年に入りプラスに転じ、1-3月期には0.5%になっている。
 しかし、日本経済の付加価値全体に係わる物価指標として定評のあったGDPデフレーターの上昇率は、最近マイナス幅を広げており、本年1-3月期には▲1.4%になっている。これは需要面からみたGDP(すなわちGDE)の一角を形成する輸入の価格が、原油などの一次産品価格の上昇により急騰しているためである。
 これはなんとも解釈が難しい。需要面から捉えれば、輸出入の価格は国内経済には関係ないため、金融政策の判断の上で見るべきは国内需要デフレーターということになる。その場合、金利上げの根拠が増す。しかし、金融政策はあくまで企業活動に関わる物価を考えるべきであるとすると、供給・生産面の指標であるGDPデフレーターが最重要となる。石油価格の上昇などにより関連の物価が上昇しているが、国内の生産活動にかかわる価格は相変わらずデフレが続いているということになる。
 私は後者、すなわちGDPデフレーターが下落速度を速めていることをもって、デフレはまだ続いているとみる。そうであれば、利上げなど出来る地合には無い。このデフレが終焉したかどうかの議論については、おそらくなかなか決着がつきそうもない。

(2)時間軸効果の意味
 仮にデフレが終了したと考えても、先述の時間軸効果を考えると直ちに「金融引き締め⇒政策金利引き上げ」ということにはならない。時間軸効果の後始末が残っているからである。
 私は、量的金融緩和政策については、ほとんど意味を成さなかったと思っている。ただし、その中で、量的金融緩和の重要な根拠の一つである「時間軸効果」だけは、ある程度の意味を認めうる。すなわち、「デフレ脱却が確認されるまでゼロ金利を持続する」と宣言することで、市場参加者や家計・企業の期待インフレ率を高め、実質金利の低下効果を実現するというロジックである。これは名目金利がゼロの下限にある時には、実質金利引き下げの為の唯一の策である。
 ここで大事なのは、「デフレ脱却が確認されるまで」というのは、「通常の金融政策判断で得られる期間よりも長く」という意味である。つまり、通常なら金融緩和を止めるような程度まで物価が上がっても、我慢して金融緩和を続けるということである。
 つまり、デフレが昨年末に終了していたとしても、4年間に及んだゼロ金利下での金利下げ不足の借金があるので、その分は緩和状態を続けるのが筋である。そうなると、少なくとも2009年末ぐらいまでは緩和をしないと間尺が合わない。

(3)実質金利高時代の債務者に対するつけを無視してよいのか
 一方、「過去は過去」という考え方もあろう。すなわち、過去に時間軸効果の考え方から下げるべき金利を下げられなかった分の借金は反故にして、現在と未来の経済状況だけから金融政策を決するべきとの考えである。これは意見、合理的である。しかし、金利下げ分の借金を返さないということは、多くの企業や住宅ローン世帯などの債務者が実質金利高の時代に被った損失を補填しないことになる。
 金融政策の目的は、物価の安定だが、こうした債務者の負担を反故にすれば、公平性の観点から非難が起こるであろう。また、日本銀行が嘘をついたことになり、中央銀行の信頼性に傷が付く懸念もある。債権者・債務者の公平性にも目配りが必要である。
 政界や世間では、「預金者の利益」を重視して利上げを主張する声が高い。これは誠に偏向した見方だが、食料品など諸物価が目に見えて上昇してきた現在、これを放置すべきでないという見方には説得力がある。
 私は、過去の時間軸効果の付けをきちんと清算してから利上げに踏み切るべきだと思うが、おそらく議論は混迷するであろう。ただし、本コラムのような観点ではなく、「年金生活者」対「企業」という低次元の議論が中心になるであろうが。(了)

★2008年5月15日『新銀行東京のスケープゴートにされたスコアリング融資/このまま潰してはならない』 
(1)スコアリング融資は諸悪の根源?
 筆者が、日本の中小企業金融の革新の鍵として期待していた「クレジット・スコアリング(以下スコアリング融資)」が葬り去られようとしている。スコアリング融資とは、簡単な審査をもとに迅速に実行する融資方式であり、日本ではビジネスローンと呼ばれることが多い。東京都民銀行がいち早く1998年に開始し、その後メガバンク、さらには他の地方銀行が相次いで導入した。一時は、中小企業金融に新たな風を吹き込む方式として、各方面から期待されていた。(2004年9月25日付け本コラム、及び拙著諸論文ご参照)
 しかし、最近はメガバンク・地方銀行のいずれもが、この方式から撤退したり、あるいは戦線を縮小したりしている。おまけに、昨年来の新銀行東京の失敗の原因を探る過程で、このスコアリング融資がスケープゴートにされた。いつしか「スコアリング融資は、米国とは違って日本の中小企業金融には馴染まない」という認識が一般化してしまった。
 しかし、これは本当だろうか。スコアリング融資は、その方式そのものではなく、その運営方法に問題があったのではなかろうか。

(2)新銀行東京の失敗の原因はビジネス・モデルそのものにある
 まず、新銀行東京のスコアリング融資について考えよう。
 この瀕死の公営銀行に関しては、様々な批判が浴びせられている。確かに耳を疑うような話が多く、このような惨状をもたらした原因は枚挙に暇がない。その中で「スコアリング融資方式をもとにミドルリスク市場を狙ったが、このマーケットにメガバンクが参入した為に収益が予想に反して伸びず、そうした見込み違いが不振の原因である」といった解説がなされることがある。東京都や都知事も、こうした主張を繰り返して釈明している。
 しかし、これはナンセンスである。まず、ミドルリスク市場の厚みが存外乏しいことは、金融関係者の間では半ば常識である(詳細は拙著『中小企業金融のマクロ経済分析』ご参照)。有るかどうかわからない市場をあてにして参入を試みるのは、ドンキホーテと同じである。案の定狙った市場は見つからず、過当競争の優良企業向け融資に低利鞘で参入するか破綻懸念先に貸し込むしかなくなった。その結果、収益が上がらず貸倒ればかり増えるのは当たり前である。
 新銀行東京は、運営手法ではなく、当初のビジネスモデルが間違っていたのであり、その責任は、この馬鹿げた銀行の設立を発案し都民の税金で強引に設立した石原慎太郎東京都知事に全面的に帰する。銀行の経営者はむしろ被害者かもしれない。
 ましてやスコアリング融資に罪を被せるのは、「長崎の仇を江戸でとる」に等しい。スコアリングというスキーム自体に罪はない。

(3)運営手法を誤ったメガバンク
 メガバンクなどのスコアリング融資も、失敗すべくして失敗したといわざるを得ない。
 本来はドライな審査で済ますべきなのに、面談を求めた。情報の非対称性が大きい貸付方式であるのであるから高めの金利を設定すべきであるのに、通常の貸出と同等の金利を設定し取り扱い件数を競った。なぜか「無担保・無保証」を看板に掲げ、これにこだわりすぎた。スコアリング融資はモラルハザードや逆選択が生じやすい融資形態なのであるから、第三者保証は別としても代表者の個人保証は不可欠であろう。代表者の信用履歴も重視すべきであったろう。担保をとらない理由もない。「迅速さを損なう」という懸念も有ろうが、IT化の進んだ現在では迅速な担保設定も可能である。すなわち、日本における現実のスコアリングの適用は、実に不合理な方法でなされたのである。
 もし、ドライな審査方法を徹底し、高い利鞘をとって一定の貸倒れ損失を呑み込みつつ、限界的な資金需要に対応する方針でスコアリング融資を運営していれば、有力な中小企業融資のツールとなるはずであった。それなのに、スコアリング方式の特色を完全に殺してしまった。まさに「仏作って魂入れず」である。

(4)金融庁他の曲解にも罪
 こうしたミスリーディングの背景には、このスコアリング融資を「リレーションシップ・バンキングの一手法」として定義した金融庁と一部の大物学者にも責任がある。スコアリング融資は、本来はリレーションシップ・バンキングの対極である「トランザクション・バンキング」に属する手法であるのに、これは驚いた曲解である。おそらくアクションプラグラムにおいて、2003年のアクションプラグラムにおいて「リレーションシップ・バンキング」の普及を焦るあまり、正反対のものまで無理やり詰め込んだのであろう。これは単なる言葉の問題ではなく、こうした曲解がスコアリング融資の性質を歪めたと考える。
 銀行には、スコアリング融資の本来の特色を生かしつつ、この手法を再構築することを望みたい。(了)



★2008年4月13日『G7声明の真の意義は、FRBによる公的資金注入が追認されたこと』 
(1)久しぶりに意味のある会合
 2008年4月11日にワシントンで行われたG7(7カ国財務相・中央銀行総裁会議)は、久々に意義のあるものであった。日本では、就任に際して政治的な混乱がみられた日本銀行の白川方明総裁の言動ばかりに焦点が当たったが、ここで興味深いと述べたのは、議論の中身のことである。
 2005年2月10日の本コラムで述べたとおり、G7は形骸化してきている。メンバーが多すぎること、米国の現政権が金融音痴であることといった根本問題には変化はなく、「いっそ日本、米国、ユーロ圏、英国、中国のG5に改編すべき」という2005年時点の意見も変える必要はなかろう。しかし、今回のG7は少し切迫感が異なったようだ。言うまでもなく、サブプライム・ローン・ショックのダメージが予想以上に深刻であり、米欧日に共通する国際金融問題に浮上したからである。

(2)今回のワシントンG7で確認された重要な方針
 今回のG7声明のポイントは、4日前の4月7日に発表されたFSF(金融安定化フォーラム)のレポートを追認する部分である。すなわち、FSFレポートを下敷きに、以下の4つの基本方針を示している。
@金融機関は、複雑で流動性のない商品に関し、リスクへのエクスポージャー、償却および公正価格(fair value)の見積りを徹底的かつ即時に情報開示すべき。G7は、金融機関に対し、次回の中間決算において、リスクに関するしっかりとした情報開示を求める。
A国際会計基準審議会(IASB)およびその他の基準設定機関は、オフバランス関連会社に対する会計および情報開示の基準を改善するとともに、特に市場が緊張下にある場合の金融商品の評価について、時価評価会計のガイダンスを向上させるため、迅速に行動を開始すべき。
B金融機関は、当局の監督を受けつつ、厳格なストレス・テストを含め、リスク管理の慣行を強化すべき。金融機関は、必要に応じその自己資本を強化すべき。
C2008年7月までに、バーゼル委員会は、流動性リスク管理に関する改訂ガイドラインを発出し、証券監督者国際機構(IOSCO)は、格付会社のための行動規範を改訂すべき。

その上で、以下の5点に関して、2008年末に実施することを宣言している。
@資本、流動性、リスク管理についての健全性監督強化(主にバーゼルIIの実施を通じて)
A透明性および価格評価の向上(バーゼル委員会は、銀行監督指針を改善する)
B格付けの役割および利用法の変化(格付会社にIOSCOの行動規範と整合的な行動を要請)
Cリスクに対する当局の対応強化(リスク評価等に関する協力と情報交換の強化)
D金融システム危機への対応強化(中央銀行は金融システム緊張の際に効果的に流動性を供給し、当局は体力の低下した銀行に必要に応じ強化する方針を確認)。

メディア報道は、世界経済の現状に対する認識や中国人民元に関する文言などに焦点を当てるが、今回は国際金融危機への対応策を示したこのマニアックな部分の方がよほど重要である。述べていることはシンプルである。バーゼル委員会やIOSCOといった既存の枠組みを通じて、金融機関、市場に対する監視を強化し、情報開示を促進し、必要に応じて中央銀行は機敏に流動性を供給するといった常識的な方針を確認するものである。

(3)米国も「中央銀行の資金供給」方針を認めた点が重要な意義を持つ
 このように一見、常識的な方針のどこに意義があるのであろうか。実は、今回のG7 会合において国際金融界が最も注目していたのは、「米国政府が金融機関への公的資金注入に対してどのような態度を示すか」であった。周知のごとく、日本ではバブル崩壊後の長い議論のすえ、90年代末にようやく銀行に公的資金を注入し、不良債権問題を処理し、バブル崩壊の痛手から脱した。今回のサブプライム・ショックにおいても、欧州諸国はすでに資本不足に陥った金融機関への公的資金注入への腹積もりを示している。
 片や米国政府は、サブプライム・ローンの借り手の救済は口にしても、貸し手、あるいは証券化証券への投資で傷ついた金融機関への公的資金注入には否定的である。大手米銀が増資の際に奉加帳方式にて欧州・日本の金融機関の資本提供を求めたり、政府系ファンドの出資を求めたりといったことには賛同しているが、納税者の金を投入することは拒絶している。これは、共和党政権というよりも、公的な介入と救済を嫌う米国ならではの市場主義の面目躍如であろう。
 しかし、実態的には米国でも既に公的資金は投入されている。FRB(連邦準備理事会)は、危機に陥った証券会社ベアー・スターンズに対して流動性を供給すべく緊急融資を実行しており、これが焦げ付けば結果的に納税資金が投入されたことになる。
 今回のG7声明において、「各国中央銀行の迅速な流動性の供給」の方針が確認された。これは教科書に記された中央銀行の使命を確認すると同時に、ベア−スターンズに対するFRBに行動を追認するものと捉えられないであろうか。そうであれば、今後米国の金融機関の損失がさらに膨らむと予想されるなかで、中央銀行が「流動性供給」の名を借りて「資本注入(支払い能力に対する支援)」を行う道筋が示されたのかもしれない。
 筆者は、中規模以上の預金取扱金融機関が資本不足に陥った際には、躊躇なく公的資金を注入すべきであると考える。そうした観点からは、今次のG7を通じて、頭の固い米国においても公的資金注入の抜け道が用意されたことは歓迎すべきことであると考える。 (了)


★2008年3月14日『政府系ファンドは、そんなに魅力的?』
 
 政府系ファンドという妖怪がさまよっている。時には救世主として語られ、時には攪乱材料として恐れられる。その政府系ファンドを日本にも創設しようとの声が高まっている。果たして、その正体は何か?日本にも、本当に必要なのであろうか?

(1) 政府系ファンド(SWF)とは
 政府系ファンド(Sovereign Wealth Fund、以下SWFと略す)とは、政府が運営する、対外資産を主な投資対象とするファンドである。各国政府は、外貨準備を保有し、通常これは米国債のような安全性・流動性の高い資産に運用されている。しかし、より高い収益性を求めて、民間ファンドの手法を活用する為に組成されたのがSWFであり、その投資対象は株式、不動産にも広がる。その運用残高は、世界の外貨準備残高の約半分にあたる3兆ドル近くに達したといわれる。
 特定の資源・商品の輸出代金の運用を目的に設けられた商品系ファンドと、一般的な国際収支の黒字を原資とする非商品系ファンドがある。この為、原油価格の高騰と新興国の国際収支黒字による外貨準備の増加に伴い、SWFは急速に注目されるようになった。
 SWFは、民間ファンドに比べて、長期運用が多い、償還義務が無く外貨比率が高い為リスクを採りやすい、といった性格を有するといわれる。

(2)世界の救世主か攪乱材料か
 昨年来、SWFは救世主のように語られることが多い。サブプライム・ショックで傷ついた欧米金融機関の資本増強の際の資金の出し手として存在感を強めているからである。とくに震源地の米国では、昨秋以降、政府・FRB関係者がこぞってSWFの擁護に転じているが、これはSWFの資金力に頼らざるを得ないからであろう。背に腹は変えられぬということか。
 他方、警戒感も強い。まず、情報開示が乏しく民間ファンドと行動原理が異なる為、市場を攪乱するといわれる。ドイツのメルケル首相がSWF批判の急先鋒だが、フランス、EUも同調している。
 また、安全保障上の懸念も浮上している。中東諸国や中国・ロシアのSWFが、軍事、航空宇宙、エネルギー、不動産開発などの国益にかかわる企業に巨額の投資をするたびに、この種の懸念が高まる。これを受け、米国、ドイツ、フランスなどで外国政府(機関)の国内投資を監視・抑制する制度の創設が検討されている。
 このようにSWFは、救世主にも悪魔にも擬えられるが、筆者はいずれでもないように思う。SWFは、民間ファンドと幾分行動様式が異なるが、政治的な思惑が支配しているわけではない。たまたま西側欧米諸国が警戒する中東諸国や旧共産諸国の政府が巨大マネーを手にしているが、それは欧米の民間ファンドがマネーを持つことと本質的に違わない。過剰反応は禁物である。

(3)日本でも創設を求める声
 日本においてもSWF設立を求める声が高まっている。113兆円(2008年1月末)の外貨準備を持つ日本にとって、その効率的な運用による金融収入の増大は極めて重要な課題である。安倍内閣の官房長官であった塩崎恭久氏あたりがSWF創設論の急先鋒であり、伊藤隆敏氏など学者の支持も強い。
 しかし、SWF創設よりも、外貨準備の圧縮により為替リスクを減らす事の方がよほど重要であろう。政府(外為特会)は、外貨資産(113兆円)の反対側に95兆円の円建て負債(政府短期証券)を負っており、巨大な為替リスクにさらされている。また、これまでは日米金利差と円安により収益を稼いできたが、今後はそうは行かない。米国金利は急低下し、円レートは100円を超える円高に至っている。日本政府は、世界で最大の円キャリートレードによって儲けてきたが、潮は変わったのである。
 日本の外貨準備は明らかに過大であり、対外支払いに本当に必要な流動性だけとすれば現在の2割程度で十分である。それにしてもここ数年、日本でSWFを待望する声がなぜかくも高まったのであろうか。いささか奇異である。よもや、政策担当者・政治家の提言の背景に、民間金融機関の利害が交錯しているようなことはあるまいが、何か不自然である。  (了)

★2008年2月29日『日本の金融はセーフティネット無しで大丈夫?』 
 金融のセーフティネットが、いよいよはずされる。果たして大丈夫であろうか? これまで冷徹に自己責任の原則を貫いてきた英国政府も、ノーザン・ロックの国有化に踏み切ったというのに、日本では4月から国有化・公的資金注入はぐっと難しくなる。ここは議論のしどころである。

(1)金融機能強化法が失効 
 金融機能強化法が本年3月末で期限が切れる。今のところ、政府は延長をしない予定らしい。1990年代末から2003年にかけての金融危機の最終章において、政府は多くの銀行に公的資金を注入し、いくつかの破綻銀行を国有化し、金融システム全体の崩壊を防いできた。その成果は明らかであった。
 しかし2003年12月に足利銀行を特別危機管理下(国有化)においた後は、公的資金は金融界に注入されていない。そして、2005年4月には、金融システムの安定化を確認した上で、長らく延期してきた「ペイオフ」を全面解禁すると同時に、預金保険法を改正した。
 改正預金保険法では、「国または地域の信用秩序維持に重大な支障が生じる恐れがある」と認めた場合に限って、公的資金注入や国有化、預金の全額保護を認めるとしている。しかし、「『重大な支障が生じる恐れがある』時にだけ発動できる措置では、規模の小さな地域金融機関などの破綻(懸念)には対応できない」ということから、ペイオフ解禁を前にした2004年にこの「金融機能強化法」が生み出されたのである。それが3月末でなくなるというのである。

(2)政府と信金・信組の食い違い 
 政府(金融庁)は、今のところこの金融機能強化法の延長は考えていないようだ。延長の是非を議論した後、2007年末には同法の廃止と、代替的な措置(新たなセーフティネット構築)も採らないことを決めた。
 これに対し、信金・信組やその上部団体などは、新しい公的セーフティネットの構築を求めている。現状の第3のセーフティネットである協同組織中央機関の資本支援制度への負担が高まるからである。
 こうした対立軸は国会でも見られる。新たなセーフティネット構築に関して、渡辺喜美金融担当大臣は好意的だが、これまで公的資金による銀行支援を批判してきた民主党は批判的である。2008年3月末までにこの議論が決着することは無いであろうから、公的セーフティネットはとりあえず一枚になる。問題は、その後、時をおかずして新たなセーフティネットを作るかどうかに移ることになる。

(3)論点は?
 新たな公的セーフティネットを設けるか否かの論点は、以下のとおりであろう。
 第1は、中小金融機関の破綻による預金者の損失を許容するかどうかである。戦後の日本では、預金者は金融機関破綻による損失を一銭たりとも被っていない。タブーを破り、預金者にロスを与えるかどうかである。この伝統的な議論に決着をつけるのは難しそうであるが、英国のノーザン・ロックの国有化といったことをみると、どうやら「小さな金融機関とてなるべく破綻させない」という考え方が世界の潮流になってきたようだ。
 第2は、金融機能強化法が成立した2004年当事に比べて、現在の金融システムが脆弱かどうかである。想い起こせば、2004年当事はゼロ金利下にて景気も急拡大していた。現在の方が金融環境は悪いとしか思えない。
 第3は、民間のセーフティネット(協同組織中央機関の資本支援制度)で、補完可能かどうかである。もし可能であれば、新制度を設ける必要は無い。しかし、協同組織中央機関の財政基盤はそれ程大きくない為、これで十分であるとの結論には至りにくい。

以上を総合すると、中小金融機関の破綻時の為の公的なセーフティネットは必要であり、なるべく早く手当することが求められる。


★2008年1月1日<謹賀新年> 『2008年の日本経済、不穏な空気再び』 
 新年である。めでたい日である。しかし、新年早々気分は晴れない。どうやら久しぶり(おそらく5年ぶり)に、日本経済に暗雲が垂れ込める中での正月だからであろう。

(1)1年前の経済成長率予測はほぼ的中
 筆者は仕事柄、「新年の経済展望」について年末年始にいくつか執筆したり講演で話をしたりする。そこで(本当はやりたくは無いのだが)、毎年「経済予測」なるものをする。自分の予測結果がどこかの雑誌等に残っているので、その的中率は一目瞭然である。因果な商売である。
 エコノミストは、気象予報士と同じく、その予測が外れた時には大いに非難されるが、当たった時には誰も褒めてくれない。仕方が無いので自画自賛するしかない。
 某雑誌の07年1月号において筆者が示した2007年度の実質経済成長率の予測は1.2%であった。先月12月に発表された政府経済見通しでは、07年度の成長率は1.3%と見込まれているのであるから、小生の予測はほぼど真ん中に的中したことになる。
 ちなみに、1年前には07年度の実質成長率を、政府は2.0%、民間機関は1.8〜2.5%あたりに予測しており、1%台前半を予測する機関はほとんど無かった。

(2)1年前の景気感は?
 また、昨年の1月1日付の本コラムには、以下のような「予測?」が記されている。
 「しかし、筆者は景気に関してそれほど楽観的にはなれない。日本経済は、米国経済失速、円高、公的負担増など様々なリスク(負担)にさらされている。これらのリスクはこの1年間、幸いにも顕在化しなかったが、その分高まっている。そして、景気拡大が長期化しているのであれば、景気の寿命のリスクも高まっている。日本経済は、どうも2007年には失速しそうな気がする。ひょっとすると既に昨年9月から景気後退になっている可能性すらある。
 政策についても、希望を持てない。2006年12月24日のコラムのとおり、安倍政権のビジョン・戦略の乏しさは呆れるほどである。一刻も早く政権が代わってほしいが、参議院選挙敗退ぐらいでは政権は覆らないであろう。」

 この予言のうち、既に景気後退に陥っているかどうかは未だ不明である。筆者は、昨年3月から景気は実質的に後退期に入っていると見るが、政府はおそらくそうは認定しないであろう。しかし2007年度に入り、景気が減速、あるいは停滞期に入ったことは明らかであり、これは1年前にはあまり指摘されていなかった。むしろ、「利上げは近い?」「デフレ脱却はいつか?」などという威勢のよい声が盛んであった。
 ただし、後段の「安倍政権は交代して欲しいが、それは難しいだろう」という展望は、見事に外れたが・・・。

(3)2008年度、成長率低下が素直な見方
 景気が既に後退期に入っているとすると、2008年度の経済成長率が07年度を下回ると考えるのが普通である。しかし、この12月に発表された政府見通しでは08年度の成長率は2.0%に高まるとし、民間機関もほとんどが、08年度の成長率は07年度より高まると予測している。この成長率が高まるとする根拠はどこにあるのだろうか? 景気後退期は、通常1年半ほど続くため、少なくとも2008年央までは停滞すると考えるのが自然であろう。設備投資循環の上昇局面初期にあるわけでもない。外需と設備投資の環境悪化を考えると、景気の牽引役も見当たらない。
 これらを考えると、低めの成長率を予測するモルガン・スタンレー、クレディ・スイスなどの外資金融機関のエコノミストやOECDの予測の方が説得力を持っているように思える。筆者は、2008年度の実質経済成長率は0.9%に低下すると予測している(詳細は、日本税務研究センター『税研』2008年1月号参照)。これは、他の機関に比べて最も悲観的な部類の予測だが、決して奇をてらったものではない。現状の各需要項目の環境とトレンド、そして景気循環のパターンから考えると、2008年度の経済成長率が1%を下回る可能性は高い。どうやら本当の正念場である。

(4)金融システム上のリスクが散見
 経済成長が滞ると、経済のあちこちに軋みが生じる。税収の伸び鈍化によりプライマリーバランス均衡に赤信号がともり、安部、福田政権下で緩みがちになっている財政運営にも喝を入れざるを得ない。すなわち増税が不可避である。労働市場も心配である。団塊の世代の退職によって増加した若年者の雇用も一巡し、09年度以降はフリーター・ニート問題も再燃しそうである。
 何よりも心配なのは、金融システム上の不安である。2003年のりそな銀行の実質国有化以来、大手行の不良債権の減少に伴い金融システムは急速に安定化した。しかし、利鞘の低さに象徴されるとおり、その収益基盤は未だ磐石なものではない。とくに下位業態は依然として、不良債権比率が高く、今後企業収益が悪下するにつれて、再び経営が不安定になる可能性がある。
 2005年4月にはペイオフが解禁されており、金融機関の破綻時に05年以前のように政府が無条件に預金保護に乗り出すことは困難である。この為、金融機関破綻時のシステム不安防止には万全を期す必要がある。
 新年から辛気臭い話で恐縮だが、今年は色々な面で正念場である。褌を締めなおす必要があろう。(了)


★2007年11月29日『証券化は貸し手のモラルハザードと過剰債務の温床?』
 小口住宅ローンであるサブプライムローンの不良化というアメリカ国内の問題が、世界の金融市場を震撼させるに至った犯人として、「証券化」があげられた。これに対し、証券化に係わる金融実務家やファイナンス論学者から、「証券化自体に問題はない」との反論が寄せられている。この論争をどう考えれば良いのであろうか。

(1)証券化は諸刃の剣?
 伝統的な与信においては、債権者は与信実行から返済完了まで変わらない。この為、債権者は元利が完済されるまでの長期リスクを考慮して信用を供与する。しかし、債権の証券化がなされると、リスクは原債権の与信者(オリジネーター)から証券化商品の保有者(投資家)に移転する。これにより、オリジネーターはリスクの切り離しが可能となり、投資家は投資証券の多様化という恩恵を受ける。
 しかし同時に、証券化はリスクの所在とリスクを担うべき主体を不明確にする。サブプライムローンというアメリカのドメスティックな債権の不良化が、欧州や日本の金融機関やファンドに想定外の損失をもたらした所以である(詳細は2007年9月1日付け本コラムご参照)。
 こうした証券化の諸刃の剣が、証券化の是非をめぐる論争を呼んでいるのである。

(2)証券化の仕組み自体が貸し手のモラルハザードに
 証券化を擁護する論者は、「今回のサブプライムショックは、原債権(住宅ローン)のリスク認識が不十分であったことにより発生したに過ぎない」と言う。「元をたどれば、アメリカの住宅ブームのリスクを過小評価し、信用度が低いローン利用者の返済能力を過大評価したことに原因があり、これは伝統的なバブルの崩壊、放漫貸出と同根である」と言いたいのであろう。
 こうした見方は一理ある。不良債権問題の根本は、古今東西を問わず資産価格や景気展望の間違いとリスクを省みない与信態度にある。しかし、問題は、「証券化」がそうした甘いリスク管理の原因になったか否かである。
 筆者は、証券化という仕組みがあればこそ、サブプライムローンのオリジネーターのリスク感覚が麻痺したのではないかと考える。これが損失額1500億ドルに上る不良貸出を産み出す原因となったと考える。理由は2つある。
 第1は、住宅ローン業者は、証券化により直ちにリスクを切り離せるため、極めて短期にしかリスクを負わない。数ヶ月間住宅価格が低下せず、延滞率が高まらなければ、なんら痛痒を感じることなく与信を続けられる。すなわち証券化により、貸し手にモラルハザードが生じていた可能性が高い。
 こうした証券化商品において、リスク判断の重責を担うのは「格付け会社」である。だからこそサブプライムショックを受け、多くの論者が格付け会社の責任を追及したのである。しかし、これは少々無茶な批判である。格付け会社の判断は確かに甘かったが、格付けは元来、一つの見解に過ぎない。それを盲信してファンドに組み込むファンドマネージャーや、疑いなしに購入する投資家にこそ責任はあるのである。証券化というスキームにとって、「格付け」は不可欠ではあるが、これまでのような格付けに対する過度な依存は是正する必要がある。

(3)証券化は住宅バブルと過剰借入れの元凶にもなった?
 第2は、証券化が過剰な融資を助長した可能性である。サブプライムローン市場は、本来、それほど大きな市場ではない。取扱いローン会社も、限定的であって然るべきであった。
 ところが、証券化という出口があり、ローンが直ちに全く異質の証券商品に化けることから、適正な規模を度外視して、本来ありえない規模にローンが膨らんでいったのだと考えられる。そして必要以上に多くの業者が、この市場に参入してきた。これは1980年代のジャンクボンド市場の興隆と凋落によく似ている。
 こうした証券化による、まやかしの市場創出が、住宅価格の高騰(すなわち住宅バブル)を生んだ。また、低所得者は、過大な信用供与を低金利で享受し、小さい負担感で過剰債務を膨らませていった。これが後に、有り得ない規模の損失をもたらしたのである。一種の合成の誤謬が生じていたのであろう。
 
(4)それでも証券化は重要
 しかし、筆者は証券化自体を否定するつもりは毛頭ない。証券化は、貸出市場と証券市場に厚みをもたらす。先述のとおり、銀行にも証券投資家にも利益を与えてくれる。また、直接金融が未熟な日本の弱点を補うための「市場型間接金融」の中心的なツールである。これだけの大発明を否定すれば、金融イノベーションなど望むべくもない。
 しかし、上記のとおり証券化あればこそ発生する問題も深刻である。その問題の根本原因は、格付けに頼りすぎて、オリジネーターや証券投資家がリスク認識・管理を怠っていることにある。これは、早急に改善しなければならない。改善策は、各主体が「自らのリスク認識をきちんと行う」ことに尽きる。この地味な改善策が徹底された時、証券化は初めて危険な武器から安心な道具へと高度化するのである。(了)


★2007年10月18日『前略、財界の皆様。証券優遇税制、未だ続けるのですか?』
 2008年(度)末に廃止が予定されている「証券優遇税制」の延長が主張されている。「またか」という感を抱く。お上に依存する官製市場から脱皮するにも、税の公平性を取り戻す為にも、そして金融一体課税を実現する為にも、優遇税制は今度こそ止めねばならない。
 

(1)証券優遇税制の延長経緯
 筆者は、昨年11月10日付けの本コラム『官製市場をやめないと一流の株式市場には成り得ない』において、2007年末に廃止予定であった証券優遇税制を1年間延長する動きを批判した。
 証券優遇税制とは、上場企業の株式売却による譲渡所得(キャピタルゲイン)と配当に対する税率を、本則の20%から一時的に10%に軽減する措置である。小泉政権が成立して半年たった2001年11月に株価低迷の中で成立し、2003年(平成15年)初から2007年末(配当は2007年度末)までの5年間の時限措置として実施された。それを2007年度の税制改正において一年延期したのである。
 産業界(証券業界他)や金融庁は、これを2008年度の税制改正において再延長(配当課税軽減については恒久化)することを求めているのである。 

(2)税の三原則に反する優遇税制
 では、証券優遇税制の何が問題なのか。
 第1の問題点は、「公平性」である。金融所得に対する税率は、本則では20%である。預貯金や公社債の利子に対する税率は20%であり、そこに不公平が生じている。そもそも、直接金融拡充にむけて預貯金から証券に資金をシフトさせることを目的に導入された特別措置なのであるから、預貯金利子の税負担との公平性が失われるのは当たり前である。
 こうした、特別な目的を持った措置であるから、税の「中立性」にも反する。複雑な制度であり、「簡素」の原則にも反する。すなわち、税の三原則である「公平(公正)」「中立」「簡素」のいずれにも反していることになる。政府税制調査会や税学者が常にこの税制に冷たい目を向けるのは、これが理由である。 

(3)株価との関係も疑問
 第2に、こうした税の優遇に頼る不健全性である。この優遇税制は、株価低迷の中で導入された。しかし、日経平均は2003年4月28日に7,608円のボトムをつけた後上昇し、2007年7月9日には18,262円をつけ、その後サブプライムショック(前回コラム参照)などによりやや弱含んだものの依然17,000円程度で推移している。一体、株価がどの水準であれば生命維持装置をはずすことができるのであろうか。
 そもそも、この優遇税制が株価の下支え・上昇にどの程度寄与しているのかも疑問である。税率が10%低いことで株式や投資信託を購入する投資家がどの程度いるのであろうか。価格変動の激しい株式は、譲渡益の10%程度(すなわち株価の数%分)の価格変動などすぐに吹き飛ばしてしまう。また、不動産と同様、譲渡所得税の軽減は資産売却を促進する効果を持ち、これが株価の下落要因となる局面もあろう。
 優遇税制を支持する勢力は、香港やシンガポールなどのアジアのライバル金融センターで株式譲渡益を非課税としていることをしばしば指摘する。しかし欧米先進国では、株式譲渡益には課税する国が多い。やはり他の所得との課税の公平性を重視しているからであろう。 

(4)金融一体課税実現の為の第一歩
 税の公平性を徹底するには、金融取引で生ずる損益を合算・通算した所得に課税する「金融一体課税」が合理的である。金融技術の革新により、預金・貸出と証券との線引きは曖昧になってきている。投資信託や債務の証券化商品なども一般的になった。こうした中、伝統的な金融商品の線引きにより税率を違えることには無理がある。
 また、利子と譲渡益の損益通算を認めることにより、株式の投資家はより積極的にリスクをとることが出来るようになると期待される。
 金融一体課税を実現する為には、株式等の譲渡所得税の税率を預貯金利子の税率に統一することが前提となる。納税者番号制度の導入とともに、金融所得の税率の統一は不可欠である。
 配当に対する課税は、法人税との二重課税の問題があるため、むしろ廃止することを検討すべきだが、譲渡所得税の軽減は、予定どおり2008年度末でやめるべきである。(了)


★2007年9月1日『サブプライム・ショックから国際社会が学ぶべきこと』

 サブプライム・ローン問題が、本年半ば以降世界の金融市場を揺るがしている。とくに8月9日にBNPパリバが傘下の3ファンドを凍結したことを機に、欧米日の金融市場が動揺し、17日には日経平均が急落し、キャリートレードの手仕舞いによる円高も進行し、日本の金融市場も大混乱となった。
 こうした状況を受け、ECB、FRB、日銀などの中央銀行は、連日巨額の資金を市場に供給した。またFRBは公定歩合の0.5%の引き下げも行った。この結果、20日以降、世界の市場は落ちつきを取り戻したが、今般の「サブプライム・ショック」はいくつかの教訓と、今後の国際金融界の課題を突きつけている。

(1)表面的にはバブル崩壊に伴う不良債権問題だが・・・
 サブプライム・ローンは、信用力の乏しい個人を対象とするアメリカの住宅ローンである。住宅ブームにのって2004年頃から急増し、2006年に不動産ブームに陰りが出るとともに焦げ付きが発生し問題が表面化した。ここまではよくある不良債権問題に過ぎない。80年代末のアメリカのS&L、90年代の日本の住専問題と同類といえおう。
 問題は、このようなアメリカ内の小口融資の焦げ付きが、なぜ国際金融危機に発展したかである。90年代半ば以降、我々は何度も国際金融危機を経験してきた。94年にメキシコ、97年に東アジア、98年にロシアで通貨危機が起こり、98年にはヘッジファンドLTCMの破綻に伴う信用危機が起こった。97〜98年の拓銀、長銀破綻による日本の金融危機も、本年2月末の上海発の世界同時株安も、(実際はそうならなかったが)国際金融危機に発展する可能性があった。いずれもその根底には、国境を越えて飛び交うグローバルマネーの気まぐれな動きがある。その背景には、情報化、規制緩和、金融技術の革新といった世界潮流があることはいうまでもない。
 ただし、これらの度重なる危機により、国際社会も少しは学習している。上記のうち「通貨危機」、すなわち固定相場制をとっていた国の通貨が切り下げられ、固定性を維持できなくなったことで起こる通貨危機は、途上国の多くが変動相場制に移行したことで起こり難くなった。また、バーゼル委員会の自己資本比率規制や各国のプルデンシャル政策の精緻化により、銀行の不良債権に起因する国際金融危機の危険性も少なくなった。
 しかし、LTCM型のファンドの大損失に起因する危機は、まだまだ起こりうる。ファンドのリスク認識・管理には、各国の当局の手が及ばない。国際的なファンドが何らかの要因で損失を蒙った場合には、思わぬほどの影響が国際金融市場に及ぶ懸念がある。今回のサブプライム・ショックもその一種として捉えるべきである。IMFのカムドゥシュ元総裁は、アジアの通貨危機を「21世紀型危機」と読んだが、LTCM危機と今回のサブプライム・ショックのような、ファンドの損失による危機こそが「21世紀型」ではないかと思う。

(2)リスク分散のツールである証券化がリスク拡散
 今回、国内の住宅ローン債権の不良債権問題が国際金融危機に発展したのは、そこに証券化が介在したからである。サブプライム・ローンは、それを担保とする住宅融資担保証券(RMBS)に証券化され、それがさらに異なる形態の債務担保証券(CDO)に組み替えられ、様々な投資家・金融機関に保有されることにある。アメリカ内の個人住宅ローン債権の資金源が海外であるというのは常識では考えられないが、証券化を通じて超ドメスティックな債権がいつのまにかグローバルな投資商品に化けていたのである。これらが世界中のファンドや金融機関に拡散していた。フランスやドイツの銀行にまで打撃が及んだ所以である。
 また証券化の過程で形成される優先劣後構造が、リスクの所在を分かり難くした面もある。ローリスクのシニア証券といえども、原ローン債権の延滞率が上昇し不良化すればリスクが高まることを、保有者は忘れていなかったであろうか。証券化はリスク分散の重要なツールだが、皮肉なことにリスクを拡散しリスクの所在をわからなくしたのである。
 証券化商品のリスクの拠り所は格付けである。アメリカでは格付け会社の責任を問う声が高まっているが、民間企業に責任を問うのは無理がある。むしろ、格付け会社の判断に過度に依存することなく、投資家やファンド自身が独自のリスク判断によって証券を保有することが肝要であろう。

(3)ファンドの監視・管理が求められる
 証券化は、投資家がそのリスクをきちんと把握することが重要だが、証券化自体を否定することは間違っている。証券化によるリスク・コントロール効果は、様々な恩恵を経済にもたらすからである。また前述のとおり、格付け会社にその責任を帰すのも間違っている。
 しかし、国際金融危機の可能性は減らさねばならない。銀行融資については、バーゼル委員会の自己資本比率規制によりある程度管理できるようになったが、問題はファンドである。ファンドの動きは管理できない。また金融機関のコングロマリット化により、ファンドの危機が銀行の健全性に影響する傾向が強まったことが、今般のBNPパリバの経営不安によって証明された。
 本年6月の主要国サミットにおいて「ヘッジファンド規制」が議題に上った。しかし、ヘッジファンドは、カリブ海の小さな島などに登記されているため、G7諸国の管理の手が及ばない。この議論は、1998年のLTCM危機の後にも議論されたが、なんら手は打てなかった。参加国の多いIMFなどの強力な国際機関が、ファンドを管理するための国際的な取り決めを設定し、その規定に則らないファンドとの国際金融取引を禁止するぐらいの強硬措置を、そろそろ導入すべきように思う。
(詳細は『PHP Business Review』2007年11・12月号に執筆予定)


★2007年8月11日『2007年7月.9日をピークに日本株は長期の調整局面に?』
 歴史の節目は、後から振りかえって初めてそれと分かることが多い。そうした点で、株価(日経平均)がバブル崩壊後最高値の18,262円をつけた2007年7月9日は、ひょっとすると超金融緩和・円安の桃源郷のピリオドとして記憶に留められるべき日付となるかもしれない。

(1)7月後半の株式市場
 日本の株価は、7月9日にピークをつけた後、しばらく高値圏で踏ん張っていたが、7月23日頃から急速に悪化していった。その原因としては、@参議院選挙(7/29)での自民党惨敗の予想、及びその後の政局不安定化と諸施策の停滞に対する懸念、Aアメリカでのサブプライムローン(信用力の低い個人向けの住宅融資)の焦げ付き問題の拡大、Bアメリカの金融市場の混乱に端を発する円高・ドル安の進行などがあった。
 サブプライムを組み込むファンドの損失が明らかになり、8月9日にフランスのBNPパリバの傘下のファンドの凍結が発表されるに至って、この問題はアメリカ国内の問題からグローバルな問題に発展したのである。
 こうした事態を受け、欧州のECBが25兆円、アメリカのFRBが4兆円の資金を市場に供給したが、8月10日の世界的な株価下落は防げなかった。週明けの相場がどちらに向かうか不透明であるが、この8月10日の世界同時株安も、今後、折に触れて言及されることになろう。
 ただし、日本の場合は、昨今の株価調整の起点は1ヶ月前の7月9日に遡ることになる。

(2)過去四半世紀での大きな転機
 こうした市場の大きな転機として記憶に残るものには、以下のようなものがある。
 第1は、1985年9月22日のプラザ合意(先進5カ国大蔵大臣・中央銀行総裁会議)である。この合意による先進各国のドル売り円買い・マルク買い為替介入により、直前には235円/ドルであった円ドル為替レートは、1日で20円、その後の1年間で120円台にまで上昇した。この急速な円高による不況に対抗する為に採られた金融緩和が、80年代後半のバブル経済の下地となったのである。

 第2は、株価が史上最高値である38,915円(日経平均)をつけた、1989年12月30日の大納会である。まさにバブル経済の頂点に位置する輝かしい日である。しかし、年明けの1990年1月4日の大発会から株価は下落を始め、日本経済はその後の長いバブル崩壊に苦しむことになる。

 第3は、東京市場で円の対ドル為替レートが史上最高値79円75銭をつけた1995年4月19日である。その後、アメリカのルービン財務長官の「秩序ある反転」「強いドルはアメリカの国益」という発言に裏打ちされた日米の協調介入(円売り・ドル買い介入)によりドルは急速に上昇していった。そのドル高が、ドルにペッグしていた東アジア諸国の競争力を阻害し、これが1997年7月からのアジア通貨危機の大きな原因の一つとなったのである。

 最近では、2003年4月28日の日経平均株価のバブル後最安値(7608円)の記憶も鮮明である。りそな銀行が危機に陥り、その収拾策が注目を集めていた時期である。結局りそな銀行は、公的管理により破綻を免れ、金融危機は遠のいていった。おりしも2002年春頃から景気は上向き始めており、その下地も株価底打ちに寄与していたかもしれない。この03年4月の株価最安値は、97年から5年以上にわたって日本中を震撼させた金融危機の最終章に記録されるべき日付といえよう。
 今回の7月9日の株価ピークは、果たして歴史の一里塚になるであろうか? それはまだ分からないが、十分にその資格がありそうである。

(3)背景に世界的カネ余りと円安バブル
 では、ポストバブル期の株価最安値(7608円)をつけた03年4月から現時点での最高値(18,262円)をつけた本年7月まではどういう時期であったのであろうか。この4年余りの長い上昇局面(04年4月から05年5月にかけて1300円ほど低下した時期があるが、それを除くと長期的には上昇トレンドにあった)を説明する要因は複数ある。
 まず、戦後最長の景気拡大(2002年2月〜)とほぼ重なる。2001年4月に誕生した小泉政権のもとで特殊法人の改革や金融システム安定化が図られ、これらを株式市場が好感したこともあろう。企業の長年のリストラ効果が表れ、業績が改善したことも要因である。しかし何よりも大きかったのは、以下の2つの金融環境であったと考える。
 一つは、世界的なカネ余りと新興国の相次ぐ台頭に伴う世界的な株価上昇である。何度も調整の気配を示しながら、しぶとく日経平均が上昇してきた背景には、世界的な株式ブームがあったことは明らかである。
 もう一つは、日本の異常な金融緩和によってもたらされたゼロ金利(あるいは超低金利)である。低金利はそれ自体が株価上昇要因だが、それに加えて内外金利差による外貨投資の急増、投資ファンドによるキャリートレードを通じて円安をもたらし、これが企業業績を下支えしてきた。すなわち、4年あまりに渉る株価上昇は、低金利と円安という環境が長期に及ぶという観測によって実現したものといえよう。

(4)一層の警戒が必要に
 問題は、今後である。日銀は既にゼロ金利政策を終え、3度目の利上げの機会を伺っている。アメリカの景気動向、金融市場の混乱を考慮すると、米国金利の低下が予想され、日米金利差は縮小するであろう。投資ファンドは、キャリートレード解消の機をうかがっており、金利差縮小が明らかになればこぞって解消に向かう恐れがある。その際、円高が進み、これがキャリートレードの解消に拍車をかけ、円高の悪循環が起こる恐れもある。同様の現象は、ロシアの通貨危機後の98年10月にも起こり、この時は2日で20円の円高が進行し、アメリカではLTCMショックが起こった。
 円高は、企業収益の悪化をもたらす。5年半にわたる戦後最長の景気拡大も、さすがに一休みの時期を迎える可能性が高まっている。
 こうした状況では、株価が再び上昇トレンドを取り返すとは考えにくい。やはり、しばらくは低調に推移するであろう。
 実は、こうした悪い予感は、本年2月にもあった。2月27日の上海発の世界同時株安に世界の株式市場が震撼した事件である(詳細は、2007年3月3日付本コラム参照)。筆者は、この2月の世界同時株安もグローバルマネーの悪戯による部分が大きいと考え、その後の市場の調整のリスクを指摘した。幸い、その後、主要国の株式市場、為替市場は平穏を取り戻したが、7月下旬からの世界の市場の動揺は2月よりかなり深刻である。
 そろそろ本当に「狼」が来そうである。警戒モードをあげる必要があろう。 (了) 



★2007年6月18日『東京金融市場飛躍の鍵は公的年金が握る』
 東京市場の強化策を金融審議会が打ち出した。この策は骨太方針にも盛り込まれ、安倍政権の重要政策の一角を占めることになった。背景には、激しい市場間競争の中で、東京金融市場が埋没するのではないか、という危機感がある。

(1)世界第9位の屈辱
 本年3月ロンドンのシティがGlobal Financial Centres Index という指標を発表した。世界の46の金融市場の「人材」「ビジネス環境」「市場アクセス」「インフラ」「生活環境」の充実度を客観指標や有識者アンケートにより1000点満点で採点したものである。第1位はロンドンの765点、第2位はニューヨークの760点であり、東京は第9位(632点)に甘んじた。ロンドン、ニューヨークが上位を占めることは誰も異論が無かろうが、切ないのは東京が第3位の香港、第4位のシンガポールといったアジアの盟友にも大きく遅れをとったことである。どうやら、世界は東京市場をもはやメジャー市場とは見ていないようだ。
 1980年代の後半のバブル期には、東京市場は、ニューヨーク、ロンドンと世界の3極を形成する道を着実に歩んでいた。しかし、その夢はバブル崩壊とともに潰えた。どうやら、80年代の東京市場のプレゼンスも、海外に飛び交う膨大なジャパンマネーと国内証券市場の活況に煽られたバブルに過ぎなかったようだ。

(2)東京が目指すは「内外連携型」
 代表的な国際金融センターは、2つに類型できる。第1は、ニューヨークやフランクフルトに代表される「内外連絡型」である。背後にアメリカやユーロ圏という大きな経済圏を抱え、自国の投資家や企業が域外のプレーヤーと取引する市場である。その取引の多くは、自国通貨(ドル、ユーロ)建てとなる。
 第2は、ロンドン、シンガポールに代表される「グローバルセンター型」である。自国の投資家・企業ではなく外国人プレーヤー間の取引が市場の大半を占める市場である。自国通貨よりもドルなどの外貨建て取引が中心となる「ユーロ市場」である。
 東京市場が目指すべきは、明らかに前者の「内外連携型」であろう。日本の巨大な経済と金融資産を背景に、これらを外に向かって開く市場である。その為には「円の国際化」も重要な要件となる。現状では日本の投資家や企業がもっぱら外貨資産に投資する構図となっているが、海外の企業や投資家が積極的に円に投資し、円で調達するようにならなければいけない。

(3)東京市場浮上の鍵は?
 では東京市場のプレゼンス向上の為には何が必要か。金融制度、税制、取引所などのインフラ、人材、関連産業の裾野の広さなどに課題はたくさんある。
 その中で、鍵を握るのは「公的年金の運用形態」ではなかろうか。日本の公的年金の資産内訳をみると国内株式の比率が17%、海外資産の比率が19%であり、これは米国の41%、22〜44%をかなり下回る。公的年金は、安定性を重視するあまり多大な逸失利益を産んでいるといえよう。今後、高齢化に伴い急膨張する年金運用資金をいかにリスク資産、海外資産に振り向けるかが、東京市場の発展の鍵を握っているように思う。

(詳細は拙稿「東京市場を世界に冠たる金融センターにするために」『PHP Business Review』(2007年9・10月号)参照)


★2007年5月26日 『政府の景気判断に物申す;景気は既に後退?』
★2007年5月5日 『急速に進展し始めた日本のFTA戦略/その背景と不安』 (省略)
★2007年3月3日 『中国発の世界的株価調整の示唆するもの』 (省略)

★2007年2月12日 『やはり駄目だった新銀行東京/石原都知事はどう責任をとるのか』
 東京都が設立し、2005年4月に開業した新銀行東京が損失の塊となっている。開業3年で黒字化するという目標の達成が難しいどころか、赤字の累増に歯止めがかからない状況である。
 思い起こせば、石原都知事は派手な大衆受けする政策を打ち出すが、これらはほとんど失敗か未実現に終わっている。カジノ、横田基地の開放、そしてこの新銀行、などいずれも掛け声倒れである。オリンピックもおそらく実現しないであろう。
 東京都民、そしてその票を左右するマスメディアは、もっと地道に知事の政策の妥当性とその実績を振り返って選挙に臨んでほしいものである。

 「新銀行東京」は、『予想通り』失敗であった。後講釈ではない証拠として、恐縮ながら、2003年の本コラムを再掲させていただく。4年前に書いたコラムがそのまま通用するとは驚きだが、それだけ石原イリュージョンが剥げ落ちていないということなのであろう。都民はもっと危機感を持つべきである。
(再掲)★2003年6月16日『耳を疑う石原 東京都知事の新銀行設立構想』


★2007年1月21日
『財政再建目標:プライマリーバランス黒字化ではなく財政収支のGDP比に戻して適切な金融政策とのポリシーミックスの実現を』

(1)プライマリーバランス達成見込みが前倒しに
 政府の「財政健全化(再建)目標」を修正すべきかどうかに関する議論が、プロの間で話題になってきた。現状の政府の財政再建目標は、「2011年度までに、国と地方のプライマリーバランス(基礎的収支)を黒字にする」というものである。この目標は、小泉純一郎内閣において最重視されてきた財政再建目標であり2006年7月に決定された小泉政権最後の方針である「骨太方針2006」に盛り込まれた、安倍晋三政権に引き継がれた。
(プライマリーバランス=税・税外収入―債務の利払いを除く歳出。
「ドーマーの条件」によれば、プライマリーバランスがプラスであり、利子率が名目経済成長率を下回る場合には政府債務残高のGDPは頭打ちとなり、債務が発散しないことになる。)

 昨年半ばまでは、この目標も「決して楽に達成できるものではない」と思われていたため、目標を置き換えるべきという議論には至らなかった。しかし、経済成長が続き、企業収益が拡大し予想以上に税収が増加することにより、例えば、平成19(2007)年度の国の一般会計予算をみると、国債発行額は前年度比15%減少し25兆円まで圧縮されることになった。プライマリーバランス(国)も、前年度比7兆円近く減少し、4.4兆円まで縮小する。この為、近い将来にもプライマリーバランスが黒字に転ずる可能性が高まり、新たな目標の設定が必要になったのである。目標のバーが低すぎると、財政再建に対する努力が緩みかねないからである。

(2)国+地方の財政赤字のGDP比3%以下・・・いつか来た道
 新しい財政健全化目標として、最も有力なのが「国+地方の財政赤字のGDP比を3%以内にする」というものである。国だけでなく地方自治体も財政は苦しいのであるから、国だけの財政目標を立てても仕方が無い。また、三位一体改革の名のもとで地方への財源委譲、補助金・交付金の削減を進めている中では、国・地方の財政を一体化して考える必要がある。もうひとつ国、地方に社会保障基金の収支を加えた「一般政府」という概念もあるが、社会保障基金は将来の支払いの為の貯蓄であるため、目標に加えない方がよかろう。
 したがって、「国+地方の財政収支のGDP比」に一定の枠をはめることは、理にかなっている。この目標は、実は橋本龍太郎内閣の際にも一度掲げられていた。1997(平成9)年11月、橋本龍太郎内閣の下で成立した「財政構造改革法」には「2003(平成15)年度までに国+地方の財政赤字のGDP比を3%以下にする」という目標が掲げられた。
 また、国際経済の動向に詳しい読者は、この目標がEU(欧州連合)の通貨統合参加条件と同じ形態であることに気がつくであろう。EUでは、通貨統合に参加するには、「国+地方の財政赤字のGDP比が3%以下」、かつ「政府債務残高のGDP比が60%以下か、あるいは明確に60%にむけて低下しつつあること」が必要である(その他にもいくつか条件がある)。橋本政権は、このEUの通貨統合参加基準を日本に輸入したわけである。
 財政構造改革法は、その後の山一證券、拓銀の破綻に始まる金融危機を受けて「棚上げ」とされ、財政再建目標もその後消え去った。

(3)良い財政再建目標のあり方
 では、プライマリーバランスと通常の財政収支とではどちらが適切な目標なのであろうか。目標としての適性にはいくつかの基準がある。
 第1は、政策目的と論理的に整合的なことである。整合的で無ければ、目標が経済を間違った方向に導くことになる。まず、プライマリーバランスが黒字であることは、政府債務が発散して雪だるまのように膨らむことがない為の重要な要件である(もうひとつの条件は名目成長率>金利)。ただし、歳出と歳入のギャップの大きさや現実の経済成長率の低さを考えると、債務が収斂する為には、プライマリーバランスはある程度の黒字でなければならないことには注意を要する。
 一方で、一般的な財政収支が黒字になることは、公債発行がゼロとなり政府債務残高が減少することを意味する。ただし、政府は公共インフラ整備という使命を担っており、その為には借金を負うのは当然であり、財政収支の黒字化を求めるのはやや厳しすぎるかもしれない。そうした観点からEUや橋本内閣では「政府の財政赤字のGDP比3%以下」という目標を設定したが、この3%という数字に何か論理的な意味があるわけでもない。
 このように財政目標として掲げる理屈としては、プライマリーバランスと一般的な財政収支の双方に一長一短がある。
 第2は、分かりやすさ・明確さ、である。この点については「通常の財政収支」に軍配が上がる。国民の大半は、プライマリーバランスの定義を理解できないであろう。
 第3は、政策当事者(政府)がコントロール可能かどうかである。目標の達成に向けて努力することが出来なければ、いくら立派な目標でも意味を持たない。デフレ経済下でのインフレ率ターゲティングが無力であったことと同じ理屈である。そうした点では、プライマリーバランスに軍配が上がる。利子率に左右される公債費は、議会では決定できないからである。
 現実には、プライマリーバランスの赤字の方が財政赤字全体よりも小さいため、財政赤字が大きいときには中間目標として「プライマリーバランス黒字化」を掲げ、これが達成される見込みが出たら「一般的な財政赤字の一定レベル以下への削減」さらには「財政収支黒字化」を掲げるのが妥当である。プライマリーバランスの黒字水準(GDP比)に一定の目標を設定する方法もあるが、目標の分かりやすさの観点からそうした目標は説得力が乏しい。

(4)長期金利の上昇にも目配りせざるを得ない目標が望ましい
 さて、本稿で比較した2つの財政再建目標は、別の視点からもう一つの重要な違いを持つ。金融政策とのポリシーミックスの観点から、異なるインプリケーションを持つと考えられる。
 プライマリーバランスには金利支払いは含まれない為、これを改善するには名目成長率が高いほど良い。極端に言えば、物価がどんどん上昇すれば、プライマリーバランスは改善する。この為、インフレによって過去債務を清算する「調整インフレ」に対する誘惑が政府に働きやすい。
 これに対し、財政収支は金利動向の影響も受ける。物価上昇率が高まると、税収は増えるが同時に金利が上昇し、利払い費の増加を通じて財政収支が悪化する可能性がある。この為、政府は金利の安定にも目配りをしなければならなくなる。すなわち、政府は政府支出の削減と経済成長のみならず、物価安定をも希求せざるを得なくなる。
 こうした観点からは、プライマリーバランスよりも、利払いを含む財政収支を目標に掲げる方が健全なポリシーミックスを実現するには適していると結論付けられよう。
 1月の日本銀行の金融政策決定会合の直前には、与党の執行部などからあからさまな介入があった。すなわち政策金利の利上げを望む日銀総裁に対し、「利上げを見送るべきである」という政府の圧力が表面化し、これが日銀の利上げ見送りという結論に少なからず影響を及ぼしたように見える。こうした政府の金融政策への介入は、日本銀行の独立性の観点から好ましくないが、その背景には財政再建目標の形態も作用していたように思う。すなわち現在はプライマリーバランスを目標として掲げているため、名目成長率さえ高まれば、物価が上昇期待が高まって長期金利が上昇しても政府は痛みを感じないからである。
 今後、新たな財政再建目標を掲げ直すのであれば、(国・地方)の財政収支の目標を復活させるのが妥当であろう。


★2007年1月1日(Happy New Year)『グローカルという語を噛みしめよう』
(1)再編を経て生き残るべき産業が明確に
 新年にあたり、少し明るい前向きなことも書こうと思う。明るい話題としては、第1に産業界に少し地力が戻ったことがあげられる。1990年代を通じて日本の産業界を苦しめた「雇用」「設備」「債務」の3つの過剰は、日本全体ではどうやら平常レベルに戻ったようである。損益分岐点も、バブル期の水準近くに低下した。(詳細は内閣府『経済財政白書(平成18年度)』ご参照http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je06/pdf/06-00202.pdf)。建設業では未だに供給過剰が残っているが、不良債権3業種に列せられていた、流通業、不動産業は再編を経て収益力を回復してきている。
 製造業も、一時期の空洞化懸念が一服し、「日本で作るべきもの」を見定めたようである。未だに国内回帰よりも海外シフトが勝り、貿易収支上の負担は減じていない。しかし、90年代末に一部でささやかれた「日本にはもはや製造業は立地できないのではないか」といった危惧は遠のいた。ハイテク分野、インテグラル型の生産は、技術漏洩を避ける観点からも国内に生産工程を残す方が良いという認識が浸透してきたようだ。 

(2)雇用の改善:中身に問題はあるが悪いことではない
 第2に、雇用が回復してきたことである。2006年11月の失業率は4%に低下した。パートや派遣労働などの非正規雇用の増加による部分が大きいこと、25〜34歳の若年層の失業率は上昇していることなど、表面上の数字ほど中身は良くない。しかし、何はともあれ全体として雇用情勢が改善したのは間違いない。
 しかし、雇用情勢の改善にもかかわらず、個人所得は伸びない。これは上記の雇用の質が低下していることに加え、企業が賃金抑制の手を緩めていないからである。この所得の伸び悩みが、2002年以降まがりなりにも経済成長が続いたにもかかわらず、なかなか景気回復の実感が生まれなかった主因となったのである。
 問題は、今後賃金が上昇傾向を示し、これが個人消費の増加に結びつくかどうかである。民間シンクタンクの予測では、多くがこうした好循環を見込み、「景気拡大が持続する」というシナリオを描いている。果たしてそれほどうまくいくであろうか。企業のコスト削減意識と需給環境の弱さを考えると、それほど楽観的なシナリオは描けないとも思う。これが景気の見方を分けるポイントである。 

(3)景気にも政策にも希望が持てない
 こうした良い兆候を元に、景気については楽観論が支配的となっている。「拡大期間がいざなぎ景気を超えた」「設備投資が本格拡大」「年末の株価は4年間連続年初比上昇」といった声がしきりに聞かれる。しかし、筆者は景気に関してそれほど楽観的にはなれない。筆者は昨年も慎重論を述べたが(2006年2月25日の本コラム参照)、その際の根拠は1年たった今も変わっていない。日本経済は、米国経済失速、円高、公的負担増など様々なリスク(負担)にさらされている。これらのリスクはこの1年間、幸いにも顕在化しなかったが、その分高まっている。そして、景気拡大が長期化しているのであれば、景気の寿命のリスクも高まっている。日本経済は、どうも2007年には失速しそうな気がする。
 また現状についても、ひょっとすると既に昨年9月から景気後退になっている可能性すらあると思っている。景気の山谷は半年ぐらい経たないと判断できない。政府や日銀は、仕方が無いので過去の趨勢をもって「景気拡大は続いている」といい続けているが、その根拠は無いと思った方がよい。そうした政府・日銀の現状認識を真に受けて、マスメディアは「いざなぎ景気を超えた」などと書くが、これはカレンダーを計算しているだけの話でほとんど意味を成さない。民間エコノミストも、こうした政府の景気判断の意味や景気の山谷の決定方法などをきちんと解説すべきである。現在の景気局面を責任ある態度で表現すれば、「2006年8月までは景気は拡大していたが、その後はわからない」といったところであろう。
 政策についても、希望を持てない。2006年12月24日のクリスマスイブのコラムのとおり、安倍政権のビジョン・戦略の乏しさは呆れるほどである。一刻も早く政権が代わってほしいが、参議院選挙敗退ぐらいでは政権は覆らないであろう。そうなると次の総選挙の2009年まで待たねばならない。2005年の郵政民営化解散による総選挙で大勝した小泉前首相も罪なことをしてくれたものである 

(4)中小企業、地方経済の疲弊はそう簡単に救えない
 2007年の日本経済における最大のテーマは、「疲弊する中小企業、地方経済をどうするか」であろう。とくに中小企業と密接な関係にある「地方経済」の問題が深刻、かつ重要である。この問題は、与党も野党もしばしば指摘し、政策当事者の口端に上ることも多い。
 しかし、問題意識を持つことは簡単だが、実際にどうするかは至難の業である。以前のように公共投資や補助金を地方にばら撒けば、地方経済も復興するかもしれないが、財政赤字を考えればそんなことが不可能なことは一部の政治家を除き誰しもわかることである。また、道路網や新幹線の整備により、ストロー現象によって消費が大都市に吸い上げられるという皮肉な事態もあちらこちらで見られる。
 三位一体改革により地方財政の自主性が問われている。これは理にかなった方向だが、いくら地方自治体が独立独歩で頑張っても、「地場産業」が育たなければ(復興しなければ)、人口流出も税収の確保もままならない。 

(5)グローバルな視点で地場産業を見直そう
 結局、各地方がきちんとマクロ経済構造の変化を捉え、需要の見込める産業を育てていかねば、地方経済の活性化は図れない。その際に重要になるのは、「グローバルな視点」である。グローバル化による海外生産の拡大の中では、加工組立型の工場を地方に誘致して、雇用創出をもくろむことは、もはや不可能である。考えるべきは、グローバルな視点で、日本の産業地図を見据え、その地方に存する必然性のある産業を育成することである。その際、三重県のように、補助金を振舞って最新工場を誘致するのも一つの方法だが、シャープの亀山工場が日本中に立地することはありえないことも冷静に認識しておかねばならない。
 やはり頼るべきは、さほど国際競争にさらされないサービス業や農業・生鮮食料関連の産業ではなかろうか。とくにサービス業は、高齢化、アウトソーシングの拡大などの構造変化を考えれば、ビジネスチャンスが転がっている。ましてや、これからは多様なニーズを持った高齢者が増える。老人施設や旅行などでも、多様な趣味、ニーズを持った高齢者を採り込もうとすれば様々な展開を考えうる。
 地方経済活性化の鍵は、地方が「グローカル」の発想、すなわちグローバルな視点でローカルを考えることをどこまで追求できるかが握っているように思う。もう一度「グローカル」という語の真の意味をかみ締める必要があるように思う。
 新年早々、またまた辛気臭い話になってしまった。それぐらい日本経済は難しい局面に来ているということなのであろう。(了) 

★2006年12月24日『安倍政権の3ヶ月;Visionも戦略も未だ見出せず』 (省略)

★2006年11月10日『官製市場をやめないと一流の株式市場には成り得ない』

(1)官製市場が不透明性・不公平性の温床
 洗練された金融市場は、透明性のある安定的なルールの下で、多くの多様な参加者が同等の条件で売買をできることが基本的な要件とする。日本の金融市場は、この基準に照らしたとき、十分に洗練されていると言えるであろうか。どうもそうは思えない。
 証券取引所の組織形態やグローバル化対応の遅れ、会計制度の国際標準への対応の不徹底、短期売買に偏重した小口個人投資家の存在、株式持合いの復活など、悩ましい点が多々ある。加えて、未だに「官製市場」の色彩が色濃いことも、株式市場の不透明性・不公正の大きな原因となっていると考えられる。

(2)譲渡益課税の軽減税率は時限どおり廃止せよ
 「官製市場」と評する一つの根拠は証券税制にある。上場株式・投資信託の譲渡益や配当に係わる税率は、従来は20%であるが、2003年(平成15年)1月1日から2007年12月31日までの5年間は一律10%(所得税7%、住民税3%)に軽減されている(投資信託譲渡益と配当は2008年3月末まで)。この軽減税率は、小泉政権が成立して半年たった2001年11月に成立した。市場主義者の竹中経済担当大臣にしては、ずいぶんとあからさまな市場への介入である。当事はITバブルの崩壊や金融不安をうけ株価は1年半にわたって急ピッチで下落を続けていた時期であり、政権としては背に腹がかえられなかったのであろう。
 さて、時限立法による軽減税率も残すところ1年余りとなり、これを継続するか、約束どおり軽減をやめ20%の本来の税率に戻すかが政府税制調査会などでの議論に上ってきた。政府税制調査会の次期会長の本間正明教授(大阪大学)は「軽減税率は予定通り終了し預貯金利子と同じ20%の税率に戻すべき」と発言しているが、証券業界や自民党からは株価への悪影響を恐れて「軽減税率の継続」を求める声が強い。とくに株価が頭打ちとなっていること、2008年には景気の悪化も懸念されることなどから、軽減税率を継続すべきとする声が優勢にも見える。
 この議論は、単に株価や景気に関する認識ではなく、税そのものに対する考え方を背景としている。税には「公平・中立・簡素」という大原則がある。この「公平性」の観点からすると預貯金利子と株式譲渡益の税率は同等でなければならない。また過度に証券市場を優遇することは「中立性」に反する。
 これに対して、税は「公平・活力・簡素を旨とすべき」とする議論もある。前出の本間教授も当事の竹中大臣とタッグを組んで「中立」ではなく「活力」を前面に出して議論していたことがある。株価を支える為、あるいは「貯蓄から投資への流れを作るため」といった特定の目的をもって証券税制を軽減することは、この「活力」を根拠としている。
 しかしこの「活力」という語は、聞こえが良いが、やはり税の伝統的な理念には反する。これまで活力という名の下にいかに税体系が歪められてきたか、一度入れた政策減税を止めるのがいかに難しいか、を忘れてはならない。
 また、将来の目標として、金融一体課税(損益通算)を経て、金融所得と勤労所得などの総合課税が求められる。その為には、軽減税率を廃して金融所得税の税率を一本化することは第一歩である。こうした観点からは出来るだけ早く株式譲渡益課税の税率を20%に戻さねばならない。

(3)公的部門の株式保有の問題点
 「官製市場」と評するもう一つの理由は、いまだに公的部門が多量の株式を保有していることである。2000年には預金保険機構が一時国有化された旧日本長期信用銀行、旧日本債券信用銀行から合計で2.9兆円の株式を購入した。その後、新生銀行・あおぞら銀行が買い戻したが、いまだに預保の保有残高(簿価ベース、2006年7月末)は1.8兆円にのぼる。銀行株取得機構と日本銀行は、銀行が放出する持ち合い株式の受け皿として株式を取得し、その保有残高はそれぞれ1.6兆円(2006年4月末)、2兆円(2006年3月末)に上る。
 これらの株式は今後、順次売価されていく。売却スケージュールは明らかにされていないが、市場動向を見ながらの処分である為、おそらく処分が完了するまでには10年以上の長い年月を要すると考えられる。上記のうち銀行株取得機構と日本銀行の株式取得は、いずれも株価が低迷している時期に株価下支えの為になされた為、公的部門は巨額の売却益を得ると予想されている(株式含み益は、銀行株取得機構が約1兆円、日本銀行が約2兆円に上ると見られている)。この為、この公的部門によるビッグ・ディールは結果的には財政収支に貢献し、世論もこれを好感している。
 しかし、だからといってこうした公的部門の株式保有を手放しで容認することはできない。実現されたキャピタルゲインは(通期でみれば)ゼロサムゲームであるから、公的部門が売却益を得ることは、(長期的には)誰か他の者がその分損をしているのである。なによりも問題なのは、金融・財政政策に直接・間接にかかわり、経済変動に多大な影響を及ぼす政府部門や中央銀行が、大投資家として市場に参加することである。これはまさにはインサイダー取引に他ならない。
 また今後、売却過程の10年以上もの長期間、公的セクターは仕手筋として株式市場に君臨し続けることになる。公的部門の株式保有は、まさに市場の「透明性」「公平性」の原則に反する。すでに保有しているのであるから仕方が無いが、今後は、少々株価が下がっても公的部門が買い上げるようなことはしてはなるまい。(銀行株取得機構に対する否定的見解は、本コラム2003年3月10日号にも記した。)

(4)PKOは長期的には株価低下要因
 こうした、公的部門への株式市場への介入は、長期的にはむしろ株価に悪影響を与える可能性がある。日本の政治家、官僚、そして日本国民は「○×対策」が好きであり、そうした発想から「株式市場のPKO(価格支持政策)」といった策が多発される。何か具体的な策が打たれないと支持率が下がるため、長期的な効果・弊害を度外視して対策に走る。悪い癖である。
 株式に限らず、市場の需給に働きかける価格支持策(PKO)は短期的には価格上昇をもたらすが、長期的にはその市場の信頼性を損なう。市場の透明性・公平性を損なうような措置は、その市場に参加しようとする層を狭め、結果的にはその市場の発展を阻害する。長期的には価格(株価)の低下要因となるのではなかろうか。
 日本は、洗練された金融市場を構築するために長年改革を行ってきた。1984年の日米円ドル委員会を受けたその後の金融自由化も、1997年から実施した金融ビッグバンもその一環である。しかし、公的部門はいまだに市場に介入したがる。市場への介入をやめなければ、日本の金融市場はいつまでたっても「後進国の市場」との謗りを免れ得まい。介入を断じて行わないことは、先進国にふさわしいエレガントな市場を構築するための初歩の初歩である。(了)



★2006年9月18日『小泉政権の経済・金融改革の総決算』
(1)構造改革は一見進展しているように見えるが・・・
 5年半に及んだ小泉政権が終わろうとしている。次の政権(安倍政権?)の政策運営がどうなるかも気になるが、その展望は総裁選に経緯を表し政権発足まで待つとして、その前に小泉政権の実績を総決算しておかねばならない。総裁選を前に3候補の討論が繰り返されているが、彼らはいずれも小泉政権の閣僚なのであるから、本来であれば小泉改革の評価をきちんとしてから持論を展開すべきなのだが、どうもそうした議論はなされていない。
 北朝鮮問題やイラク派兵、対中関係といった外交・安全保障問題も重要だが、ここでは経済政策に絞って総括したい。小泉政権の経済政策の根幹は、いわずと知れた「構造改革」である。そして、その基本思想は「官から民へ」「民にできることは民に任す」という言葉に集約される。この思想をベースに、@財政支出の抑制、A規制緩和(市場化テスト)、B道路公団・郵政の民営化、といった策を推し進めてきた。これらの実績を見ると、表面的には達成度は高いように見える。
 財政支出は、5年間で曲がりなりにも3.6%減少している(一般会計当初予算歳出:2001年度82兆6524億円⇒2006年度79兆6860億円)。歴代の自民党政権が頼ってきた「公共投資」「景気対策」にも手を染めなかった。規制緩和も、情報通信・運輸分野を中心に進められ、中央政府レベルでは進展の余地がなくなると見るや、「構造改革特区」という地方主導で規制緩和を進めるという新しい発想で切り込んだ。この構造改革特区の実施は、おそらく小泉構造改革の中で最も目覚しい成果を示したと考えられる。道路公団・郵政事業の民営化も、衆議院を解散してまで執念深く実現にこぎつけた。

(2)実効性が伴っていない「官から民へ」の施策
 このように、表面的には「官から民へ」の改革は成功したように見える。小泉政権も、首相官邸のHPなどで、これらの分野についての成果を高々と誇っている。しかし、筆者の目には、「実効性が伴っていない」「歪んだ政策目標が自己目的化している」というように映る。
 まず、道路公団・郵政は、筆者も改革が不可欠であるとは思うが、その方法が「民営化」であるとは思わない。すでに本コラムで何度も触れているとおり(2005年7月17日、3月10日、2004年4月22日、2003年7月26日、2002年12月9日付けコラム参照)、道路・郵便といった公共性の高い事業はスリム化して税金を原資として公共部門が担うべきであり、民間と競合する郵便貯金や簡易保険は、廃止すべきである。それを無理して民営化しようとするから、案の定、肥大化し、民業圧迫度が増している。
 歳出削減も、日本銀行に圧力をかけて超低金利を持続させ、循環的な要因と中国・米国の高成長に伴って経済成長率が高まったおかげで実現したものであり、必ずしも充分と言えない。とくに高齢化の下で膨張が必至の社会保障関係費については、抜本的な改革と収支の改善を訴えながら掛け声だけでなんら実効性のある改革がなされていない。相変わらず楽観的な出生率を前提に、まやかしの収支展望を示し、小手先の収支改善策を施してきただけである。
 「官から民へ」に関する政策については、残念ながら及第点はあげられない。

(3)結果オーライの金融システム安定化策
 小泉政権下の経済政策のもう一つの柱は、「金融システム健全化策」、いわゆる「不良債権問題」への対応であった。実績を見ると、周知のとおり大手銀行の不良債権比率は急速に低下し、99年以降注入された公的資金も大半が返済された。金融システムも政権発足当初に比べて大幅に改善した。しかし、この5年間に採られた政策を見ると、そこには一貫したポリシーが見られない。結果オーライに過ぎないのではないか。
 政権発足当初、金融担当大臣が柳沢伯夫氏の時代には、グラジュアルな不良債権処理と健全化の路線が採られ、一挙に不良債権処理を進めるべきと主張する竹中平蔵経済担当大臣との軋轢が目立った。そして2002年秋に柳沢氏が政権から退けられ、竹中大臣が金融担当大臣を兼任すると、「金融再生プログラム」が策定され、大手銀行に厳しい資産査定と貸倒引当金の積み増しがもとめられた。同時に、大口の不良債権については、産業再生機構の下で事業再生(事業と債務のリストラ)が進められることになった。いわば、「適切な引当て」をてこに不良債権を銀行から切り離し、これを政府主導で処理していこうという「あぶり出し戦略」である。「貸倒引当金を適切なレベルに引き上げる」「経済の根幹にかかわる再生可能な企業は政府の資金を使ってでも支援する」という考え方には、筆者も賛成である。そうした観点からは、金融再生プログラムは筋の通った政策である。
 問題は、それ以降の気の抜けたような金融健全化策である。2003年5月には資本不足が明らかになった「りそな銀行」に巨額の公的資金を注入し、実質国有化した。また相対的に体力の劣る地域金融機関にはリレーションシップバンキングを推奨し、破綻懸念に至らないように最大限の配慮を続けてきている。筆者も、金融システムの保全の為には“too big to fail政策”はやむをえないと思うが、小規模金融機関まで保護することは支持できない。現実に、モラルハザードがすでに横行していると感ずる。ペイオフはすでに解禁されているが、これだけの金融システム衰退の中で実際には実施されたことが無い。これは異常であり、出来れば小さいペイオフが何件か実施されていた方が、金融システム全体の健全化にとっては好ましかったのではないか。

        ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 このように小泉政権の経済・金融改革を総括すると、「実効性が無い」「一貫性が無い」といった表現にならざるを得ない。小泉政権以前の歴代政権よりは改革は進展したかもしれないが、少なくとも小泉首相や竹中大臣が誇るほど改革は進んでいない。昨秋、民主党の前原前代表は「経済格差」という言葉を掲げて小泉改革を批判しようとしたが、これは戦略ミスである。格差の是非はともかく、格差を小泉改革の結果とするのであれば、それは小泉改革の成果を認めたことになる。小泉改革が実効性の無いものであったのなら、格差も小泉改革のせいではないのである。小沢代表も「格差」を問題にしようとしているが、その際には「小泉改革の成果とは関係ないが・・・」と一言付け加えねばなるまい。(了)


★2006年8月15日『国際収支からみる日本経済の老化現象』 (省略)
★2006年7月10日『骨太方針に見る小泉改革の虚構』 (省略) 

★2006年5月17日『良い貸金業と悪い貸金業の分水嶺』
 (省略) 
(1)消費者金融の金利の上限
 貸金業の貸出金利の上限を引き下げる議論が盛んである。発端は、一部の消費者金融業者の社会常識を逸脱した債権取立てや貸し込みが社会問題化したことであった。
 よく知られるとおり、貸金業者の貸出金利にはもともと歪みがあった。罰則の無い「利息制限法」における金利の上限が15〜20%であるの対し、罰則のある「出資法」における上限金利が29.2%に設定されており、貸金業の多くがこの両金利の中間のグレーゾーンに貸出金利を設定している。こうした歪みを是正し、これら2つの法律による上限金利を揃えるのは当然の措置である。
 どうやら、出資法の上限金利を15〜20%に下げることで決着がつきそうである。現状の30%近い高金利は債務の累増や多重債務を招いており、2つの上限金利を揃えるのなら低い金利に揃えるべきだというのが大方の考え方である。
 では、「金利の上限」はどこまで下げるべきなのであろうか。適正な上限金利の水準に関しては、なかなか説得的な答を得られない。それは「良い貸金業」と「悪い貸金業」を分けるポイントがどこかという問にも通ずる。

(2)金貸しの存在価値
 古来、金貸しは嫌われ者である。ベニスの商人のシャイロック、江戸時代の両替商の例を引くまでも無く、金貸しは一般大衆から常に嫌われてきた。しかし、近代社会において、金貸しが不要だと考える識者はほとんどいないであろう。資金余剰主体のカネを資金不足主体に流す資金仲介がなければ、資源の最適配分は図れない。とくに、企業や政府は、収益や税収が生まれる前に先行投資する必要があり、通常は資金不足である。その不足を誰かが埋めない限り活動が成りたたない。資金不足を証券発行で埋めることも可能であるが、情報の非対称性の大きい分野においては貸出による間接金融が力を発揮する。銀行やノンバンクなどの貸出は、こうした側面から社会的な存在意義を持つ。
 その際、貸し手は調達金利にプレミアムを上乗せして貸出金利を設定しないと業として成り立たない。現状の邦銀の企業向け貸出や住宅ローンは、過当競争の状況にあり金利は低すぎる。もう少し貸出金利は上昇する必要がある。一方で、消費者金融会社や商工ローンの金利は、どうやら高すぎる。では、銀行と消費者金融の貸出は、いったいどこが違うのであろうか。

(3)返済を前提とするか否かが良し悪しの分かれ目
 貸金業の良し悪しを分ける分水嶺は、返済を期待して融資するかどうかにあるのではなかろうか。
 最初から返済を前提としない貸出は許容されない。一部の消費者金融業者のように、返済が滞ると、他の金融業者から借り入れさせて返済を迫るような行為は、人道に反するだけ無く、不良貸出の付回しに過ぎない。以前に問題になった、第三者の根保証を要求し、借り手ではなく保証人による弁済をあてにする融資も、言語道断である。いずれも、マクロ経済上の存在価値をなんら持たない。同様に、バブル期の銀行は、返済能力に疑問があっても不動産担保が十分であれば貸出を行うことがあった。これも道を外れている。
 要するに、貸金業は、返済能力のある借り手のみを顧客として、元利金の返済負担が過剰にならないことを条件に融資すべきなのである。返済能力に支障をきたす高金利や貸し込みは、決して許されない。このような整理をすれば、貸出金利の上限と融資額の上限についてももっと論理的な客観的な議論が出来るのではなかろうか。通常の個人の家計収支を勘案すると、大手銀行が銀行本体や関連会社にて提供してきたカードローン金利(16%前後)程度が貸出金利の上限、そして借り手の年収の4分の1程度が融資額の上限として妥当なように思われる。
 上記を踏まえれば、「上限金利を下げればヤミ金融に流れる」といった意見も本質を欠くものであることわかるであろう。「ヤミ金融に流れるような借り手」には、そもそも誰も融資をすべきではない。上限金利を引き下げると同時に、「ヤミ金融」を徹底的に摘発して処罰することが重要である。(了)


★2006年5月5日『ASEAN+3会合:アジア金融協力への力強いアクションと挫折感』 (省略) 
★2006年3月26日『地価上昇はポスト・バブルの終結の証し』  (省略)
★2006年2月25日『エコノミストの強気見通しが揃えば景気は要警戒  (省略)


★2006年2月4日『GNP最重視はグローバル社会に逆行するご都合主義』
(1)「GDPよりGNPを」という古典的な議論
 政府(内閣府)や経済財政諮問会議において「GDP(国内総生産、Gross Domestic Product)だけでなくGNP(国民総生産、Gross National Product)も重視しよう」という風潮が高まっているらしい。GNPとはずいぶん懐かしい言葉である。筆者がエコノミスト駆け出しの頃は、国民経済の規模や成長力を図る際の最重要指標はGNPであった。しかし、国際的にはGDPを重視する傾向があるため、1993年からはGDPを最重要指標に変更した。その後GNPは、GNI(国民総所得、Gross National Income)と名前を変えて SNA(国民経済計算)の片隅に葬られ、ここ10年程はほとんど言及される事の無かった指標である。
 GDPは国内で生産した財・サービスの付加価値の総計であるのに対し、GNPは国民(日本人、日本企業など)が生産した付加価値の合計である。GDPに海外からの純所得(国際収支の所得収支:対外投資収益―海外部門の対内投資収益)を加えたものがGNPとなる。
 具体的には、日本企業の海外現地法人の利益(出稼ぎ労働)の国内への還流や日本企業・日本人の対外資産から生まれる利子・配当などは、GDPには含まれないがGNP(の輸出等)には含まれる。逆に外国(外資)企業が日本での活動で生み出した収益や対日投資による収益は、GDPには含まれるがGNPからは(輸入等という形で)控除される。

(2)GNPはGDPより約2.5%大きい
 2004年度の日本の名目GDPは496兆円であり、名目GNP(国民総所得:三面等価の考え方からGNP=GNI)は506兆円である。両者の差は約10兆円(約2%)である。2005年7〜9月期においては、GDP(年ベース換算)が502兆円、GNPが515兆円であり、両者の差は12.6兆円(約2.5%)に拡大している。12.6兆円の差は、海外からの所得受取り=17.8兆円と海外への所得支払い=5.3兆円の差から生じている。
 この差は、日本が保有する巨額の対外純資産に起因する。2004年末の日本の対外資産・負債残高を見ると、対外資産残高が434兆円であるのに対し、対外負債残高は248兆円であり、両者の差である対外純資産残高は186兆円にのぼる。さらに日本よりも海外の方が金利も経済成長率も高い為、対外資産は負債よりも高い収益率となる。これが、国際収支上の所得収支の黒字(2004年度は9兆6441億円)を産み、GNPとGDPの差となるのである。
 より具体的には、最近の外貨建て投資信託や外貨預金の急増やエマージング諸国での日本企業の収益拡大が両者の差の急成長をもたらしているようだ。
 GDPをGNPに読み替えると、日本の経済規模は2〜2.5%拡大する事になる。高度成長期であればこの程度の差はたいしたことが無いが、現在はこの2.5%は相応の意味を持つ。例えば、年金収支の将来計算をする際にもGNPを用いれば楽観的なシナリオを描きうる。医療費の総額を名目GDP対比で抑制しようとする議論があるが、これもGNPを用いると医療費の抑制を緩やかにすることが出来る。また、GDPで量った日本の経済規模は世界第2位だが、後ろを振り返ると中国が猛スピードで追いかけてきている。将来的には、この数%の数字の差が順位に関係してくる可能性もある。

(3)グローバル化のもとではやはりGDPが重要
 しかし、数字が大きいからといってGNPに飛びつくのはいかがなものか。そもそも何故1993年にGDP重視に乗り換えたのか。その理由は、単に世界標準に合わせたというだけでなく、GDPの方が経済的な意義が高いからである。
 そもそも経済は、その国(地域)で雇用を産み、その国(地域)に所得をもたらす為に成長が求められる。その時に重要となるのは、その国(地域)での経済活動の活発さであり、これはGNPよりもGDPを反映するのは明らかであろう。例えば、日本企業の海外活動は、日本に配当収入をもたらすことはあるが、日本に雇用や税収をもたらさない。逆に、外資系企業による日本国内での活動は、配当の海外流出はもたらすが、しっかりと国内で雇用や税収を産んでいる。(外国企業の日本進出による経済拡大効果を過大評価したり、これに頼ったりする事は問題だが、外資参入を嫌う理由も無い。詳細は、拙著『金融開国』平凡社新書、2000年参照。)
 すなわち、日本という国土に暮らす居住者(resident)の生活レベルの向上とこの社会の繁栄を望むのであれば、やはり重視すべきはGDPなのである。国籍(nationality)をベースとするGNP・GNIにこだわる姿勢は、鎖国下の発想であり、グローバル化を前提とすると時代遅れといわざるを得ない。
 経済規模を見せ掛けだけ大きくしたいというご都合主義の背景には、深刻な反グローバリズムが染み付いているのであろう。

(4)日産自動車は日本企業か
 経済統計における「日本」の取扱いに関して、もう一つ気になる事がある。例えば、日産自動車の生産活動が未だに日本企業の生産活動にカウントされる事である。周知のとおり、1999年、仏ルノーが日産自動車に資本参加し、ルノーの出資比率は40%以上にのぼる。日産自動車の子会社の日産ディーゼル工業もルノー傘下である。この買収は、「10%以上の株式を所有・株式等の3分の1以上を保有」という直接投資の定義をらくらくクリアし、99年の対内直接投資に計上されている。すなわち、日産自動車は今やフランス企業の一部なのである。(社長がフランス人かどうかは本論とは関係ない。)
 さらに、三菱自動車にもダイムラー・クライスラー(米・独)が資本参加しており(2000年、持ち株比率34.0%)、いすゞ自動車、スズキ、富士重工業もGMの傘下にある。今や自動車製造業において純粋な日本企業と呼べるのはトヨタとホンダぐらいである。それにもかかわらず、「日系自動車メーカーの米国での生産台数は・・・」「中国での生産体制は・・・」といった報道では、日産自動車も三菱自動車も日系企業としてカウントされている。
 GNPを重視しようとする発想には「国籍主義」があるが、これは企業においては「資本の出所」による分類となる。株主の半分以上が外国人であるキャノンやソニーなどをどう扱うかは議論が分かれるが、3分の1以上の出資比率を持つ筆頭株主が外国企業である日産自動車や三菱自動車はどうみても日本企業ではない。当然、GNPの概念からははじかれる存在であるべきである。
 これだけグローバルな資本移動が激しくなった現代社会においては、国籍主義はもはや成り立たない。「GNP復活を!」などという馬鹿げた議論をする前に、外資企業の誘致や外国人観光客の拡大を図って、GDPを少しでも増やす事に専念した方が有意義であろう。(了)

★2006年1月12日『日本銀行のゼロ金利解除はそれほど重要な問題か』

(1)ゼロ金利解除をめぐる議論が花盛り
 新聞紙上では、「量的金融緩和がいつ終わるか」「ゼロ金利はいつ解除されるか」の議論が花盛りである。福井日銀総裁が、量的金融緩和に前向きな発言をして以来、政府・与党からはこれを牽制する発言が相次いでいる。議論は、中央銀行の(政府・政治からの)独立性に関する議論にも発展している。量的緩和・ゼロ金利解除反対論の論拠は、「景気拡大の芽を摘みかねない」「デフレは解消されていない」というものである。論点は、消費者物価のインフレバイアスやGDPデフレーターの性格といったマニアックなレベルに陥っている。
 しかし、一歩退いて考えると、量的金融緩和の解除やゼロ金利政策の解除が、産業活動や国民生活にそれほど大きな影響を及ぼすようには思えない。筆者も何度も金融政策の行方についてコメントしてきたが、昨今のメディアは少々騒ぎすぎではないかという感を持つ。 

(2)量的金融緩和の終了は恐れるに足らず
 まず、先行するであろう「量的金融緩和政策の終了」がたいした問題ではないことは明らかであろう。2001年以降の量的金融緩和政策が実体経済に明確な影響を及ぼさなかったことは、数年前まで威勢の良かった量的緩和論者(リフレ論者)もさすがに認めるところであろう。筆者が1999年当時から指摘し続けてきたとおり、銀行の準備預金(ベースマネー)増加が、マネーサプライ増加に結びつく経路が遮断されている以上その効果は望むべくもないことは、現実が証明してくれた。リフレ論者は「日銀(とくに速水前総裁)が後ろ向きのコミットメントを繰り返したことが量的金融緩和の効果を殺した」という屁理屈を続けているが、これは「偽者の薬を投与しつつ、患者が効くと信じないから効かないのだと居直るやぶ医者」と同類である。
 効かない薬なのであれば投与をやめても問題はない。量的金融緩和も効果が無かったのであるから、終了してもさして問題にはならない。
 もちろん量的金融緩和も、@銀行システムの安定化、A国債金利の低位安定、には寄与した。しかし、銀行経営も少なくとも大手行は健全化し、もはや過剰な流動性を保持しておきたいインセンティブは乏しい。量的金融緩和をやめれば、(日銀の買いオペ縮減などにより)国債金利は上昇するであろうが、これは巨額の財政赤字を抱える国の宿命として我慢するしかない。苦しいからといっていつまでも麻薬に頼るわけにはいかないのである。 

(3)ゼロ金利解除もたいした問題ではない
 次の段階で予想される「ゼロ金利の解除」は、確かに実体経済に影響を与えるであろうが、その程度は限られているであろう。利上げといってもおそらく0.25%程度であり、この程度の金利上昇だけで企業業績が大幅に揺らぐことは考えられない。また、ゼロ金利の解除は、その前後に物価上昇率のプラス浮上を伴うはずであり、過去の局面に比べて実質金利が上がることはありえない。為替レートへの影響を懸念する向きもあるが、昨年の円安ドル高局面が本年から円高・ドル安に転じた過程を見ると、日米金利差はもはや為替レートの最大関心事ではなくなっているようにも感じられる。
 ちなみに、米国のFRBは景気過熱感が不鮮明な中で昨年6月以来3%以上FF金利を引き上げてきている。金利の乱高下を歓迎するわけではないが、0.25%程度の金利変更で大騒ぎするのはやや異常ではある。
 市場関係者からの謗りを覚悟で記せば、昨今の日本銀行の政策をめぐる議論は、やや大げさに採り上げられすぎではなかろうか。少なくとも産業界・国民がこぞって心配するほどのことではない。 

(4)日本銀行にフリーハンドを与える意義は大きい
 「羹に懲りて膾を吹く」風潮、すなわち日銀に超金融緩和を求め続ける姿勢は、明らかに日銀の手足を縛っている。ドイツや米国、英国などで、長期の論争の経た上で中央銀行に独立性を付与してきた背景には、「中央銀行がある程度自由に動けないと、長期的には経済は弱体化する」という苦い経験がある。中央銀行の独立性とパワーは、常に国民が支持し続けなければいけない。具体的には、安易に「政府と中央銀行のアコード」といった語を振りかざし中央銀行の政策に介入するような政治家・政党には、国民が選挙で制裁を加えるべきであろう。(ちなみに、歴史的には政府とのアコードは、インフレ退治の為の金融引き締めの際に重視されたのであって、中央銀行に金融緩和を強要する為に用いた考え方ではない。)
 今のままでは日本銀行は、なんら政策手段を持たない。量的金融緩和、時間軸効果といった特殊な政策により、自ら首を絞めた感もあるが、だからといって「日銀は死んでいて良い」ということにはならない。日本銀行が再びパワーを持つには、金利がある程度の高い水準に戻るしかない。可能ならば1〜2%の金利を確保したい所である。
 総括すれば、消費者物価上昇率がプラスに戻ればゼロ金利を解除するのが自然であろう。そして無理のない範囲で物価上昇に応じて金利を1%以上に引き上げられれば、次の景気後退期の利下げ余地を確保することが出来る。
 金融政策は、もう少し日本銀行に任せ、達観していれば良いのではなかろうか。(了)

★2005年12月7日『G7声明の行間を読むと、日銀の量的緩和解除の難しさが浮かび上がる』  (省略)
★2005年11月12日『インフレファイター登場は金利下げ要因か?』  (省略)


★2005年11月1日『「増税は歳出削減が終わってから」は正しいか?』
(1)増税案vs増税反対論
 財政再建に向けての議論が活発になってきた。小泉政権も残り1年を切り、政権発足当初からの懸案である一番の難題にようやく本腰を入れ始めたと言う事であろう。当然のごとく増税論議が沸き起こる。消費税率の引き上げ、所得税の定率減税の廃止、など増税メニューが連日新聞を賑わせる。
 そうした中、納税者(国民)からは、当然のように増税反対の合唱が沸き起こる。その増税反対論の中で必ず語られるのが、「増税の前にまず徹底した歳出削減を」という主張である。新聞の社説などには、必ずこのフレーズが登場する。しかし、果たしてこれは正しい考え方なのであろうか。

(2)財政再建は急務
 財政再建は急務である。平成17年度末(2005年度末)の国債の発行残高は538兆円、国+地方の債務残高は774兆円(GDP 比150%超)にのぼる。むろん先進国中で、圧倒的に大きい。これほどの巨額の財政赤字の中で金利(国債利回り)は依然として低水準にへばりついている。これは、ゼロ金利政策がしばらく続くことへの期待が根強い事と、国内民間部門に巨額の貯蓄余剰があるからである。家計ばかりか企業部門も巨額の貯蓄超過を計上しており、その潤沢な貯蓄超過の中で、膨大な国債が吸収されているのである。 
 しかし、そうした桃源郷も長続きはしない。現在、60歳直前の団塊の世代が退職年齢を迎え、数年後には家計の貯蓄率は急低下するであろう。企業部門も、設備投資が復活し、異常であった資金余剰も解消していくであろう。この結果、近い将来日本経済は経常収支の赤字国(資本輸入国)に転落するとの見方さえある。その時、巨額の政府債務は、金利急騰という形で日本経済に一徹を加えるであろう。
 財政再建は、なるべく早く始めねばならない。

(3)増税の方がデフレ効果は小さい
 問題は、財政再建の手立てである。何故か政府は「70%を歳出削減で、30%は増税で赤字を減らすのが経済成長には好ましい」と考えているようだが、その根拠は必ずしも明確で無い。ここで確認しておきたいのは、通常の経済モデルにおいては、同じ金額の赤字削減を図るには、「歳出削減」よりも「増税」の方が経済へのデフレ効果は小さいということである。これは、公共投資と減税の乗数の違いに起因している。減税の場合、家計や企業の貯蓄がバッファーとして働く為、理論的に支出増に比べて乗数は小さくなる。昔に比べていくら公共投資の乗数が低下したと言っても、1以上はあるであろう。すなわち、1兆円の公共投資をすれば1兆円以上名目GDPが増える。しかし、減税の乗数が1を上回る事はありえないであろう。増税と支出減の経済抑制効果はその逆である。
 もちろん、サプライサイドに立てば、歳出削減(すなわち竹中平蔵大臣お好みの「小さい政府」)を実現すれば、これが長期的な経済成長に資することも間違いではなかろう。しかし、通常、増税反対論が心配するのは、そうした長期的な成長力ではなく短期の景気である。そうであれば、「歳出削減よりは増税の方がましだ」という結論に至るはずである。

(4)政府の無駄排除は「百年河清」
 冒頭に記した、「増税は歳出削減が終わってから」という主張には、別の観点もあろう。すなわち、政府セクターのおびただしい無駄を見れば、「これらを掃除してから国民に負担を強いるのが筋である」という公平性の観点である。確かに、ダム・道路建設、医療保険支払い、ODAなど無駄は数限りない。公務員数も減らす余地は少なくない。特別会計や特殊法人にも、不要なものは多い。これらにまず手をつけるべき、というのは妥当な国民感情である。
 しかし、政府セクターには、古今東西を問わず無駄はつきものである。市場で評価できない仕事なのだから、無駄を計るのも難しい。そうした事を考えると、政府の無駄がなくなるのを待つのは、まさに「百年河清」ではなかろうか。おそらくいつまでたっても、行政改革は終わらないであろう。
 政府の無駄がなくなるのを待っていては、財政は破綻し、高金利がやってくる。ここは政府の無駄をにらみつつも、増税をせざるを得ないのではないか。
 政府の無駄は、もちろん排除し続けなければいけない。そのためには、市場化テストやオンブズマンといった仕組みを定着させねばならない。国会での徹底的な追求も不可欠である。しかし、同時に増税もやむをえない。大衆やマスメディアのバッシングを覚悟で言いたい。「増税」も必要である。 (了)

★2005年9月29日『地球規模の投資ブーム、再び?』  (省略)
★2005年8月12日『人民元のバスケット・リンク制移行はドル体制の葬送曲』
  (省略)
★2005年7月17日 『郵政民営化による税収増は国民の利益?』  (省略)

★2005年6月22日『大増税は仕方ないが「公平」「簡素」「中立」をお忘れなく』
   (給与所得概算控除の意義、自営業者との負担均等化効果を再認識すべき)

(1)増税は避けて通れない
 増税は、いかなる種類であっても誰かの負担増をもたらす。従って、万人が納得する増税など有りえない。したり顔の評論家はすぐに「国民の納得する議論が必要」というが、そんなことは元々無理である。政府税制調査会が6月21日に発表した「個人所得課税に関する論点整理」も、増税色が強い事から案の定、各方面から集中砲火を浴びている。
 しかし、巨額に膨れ上がった政府債務をみれば、増税が不可欠なことは論を待たない。景気対策により経済成長や物価を嵩上げすれば財政赤字を解消しうると主張する論者もいるが、それがイカサマであることは簡単な計算をすれば明らかである(詳細は拙著『反常識の日本経済再生論』日本評論社参照)。
 また、「増税でなく歳出削減によって財政赤字削減を図るべき」という論も根強いが、これも非現実的である。もちろん歳出はとことん切り詰めねばならないが、これまでの行政改革によって歳出削減の余地が少なくなってきていることも事実である。また高齢化に伴う社会保障給付の増加は避けられず、治安維持・国際貢献の為の支出増も必要であろう。日本の政府の規模は、国際的に見て小さいほうである。こうした点を考慮すると、歳出はこれ以上削減しにくく、税収増による赤字削減に頼らざるを得ない。
 財政制度審議会や21世紀ビジョンは、現政権の公式目標である「2010年代初頭でのプライマリーバランス黒字化」を達成するには、歳出削減と増税の合わせ技が必要と言っているが、この主張は基本的に正しい。後世代への負担先送りを少しでも和らげるには、やはり増税は避けて通れない。

(2)所得課税増税メニュー:給与所得控除縮小以外は妥当
 問題は、どこでどうやって税収増を図るかである。今回の政府税調の報告書は、所得課税(所得税、住民税)のみに焦点をあてた論点整理である。これには後述するように「何故消費税ではなく所得課税なのか」という疑義が沸くが、最大の税目である所得税における歪みが看過できない以上、これを整備する事はやはり大事である。
 指摘された所得課税見直しの方向性も、概ね賛成である。
 まず定率減税廃止は、なるべく早く実現すべきである。この定率減税は小渕政権において、金融危機時の景気対策として導入された代物である。この減税の際には、これが「一時的なものかどうか」が大議論になり、結局「恒久的減税」という玉虫色の表現とともに導入された。その中身を見ると、税額控除により「税をごっそりおまけする」という、分かりやすいが税体系をぶち壊すような荒っぽい措置である。経済状況は、この減税の導入時とは比べ物にならないほど良い。恒久的かどうかは問わず、こうしたトンでもない制度はさっさと廃止したほうが良い。すでに2005年度に半減し、焦点は2006年度に全廃するかどうかにかかっているが、筆者は廃止をためらう理由は見当たらないと思うのだがどうであろうか。
 また、不動産所得の括りも、これがワンルームマンション財テク等の温床となっている現状を考えれば、廃止が妥当であろう。退職金課税の強化も、雇用形態の多様化、終身雇用の崩壊を考えれば当然であろう。経済社会全体を見れば、むしろ労働の流動化を促進すべきであり、その観点からは退職金課税は思い切って強化してよい。
 しかし、最も注目を集めている給与所得控除の縮小には、そのやり方に疑問がある。

(3)改めて公平、中立、簡素を徹底せよ
 税制は公平、簡素、中立でなければいけない。小泉政権成立直後に、経済財政諮問会議の一部から「中立よりも成長が重要」という意味不明の論が展開されたが、やはり公平・簡素・中立が普遍的な原則である。サッチャー税制もレーガン税制も、この原則を徹底して成功した。そうした観点では、不公平・複雑さ・恣意性の塊である「控除」を徹底的に排除するのは税制改革の鉄則である。ループホールを徹底的に埋めないと、課税ベースは拡がらない。
 給与所得控除は金額が大きいだけに、諸控除縮小(すなわち増税)の対象としてはずせないのは理解できる。給与所得控除も縮小すべきであろう。しかし自営業者との公平性には充分配慮して欲しい。そもそも給与所得控除は、自営業者との不公平感を是正するために設けられた制度である。クロヨンと揶揄された不公平性は未だに健在である。給与所得控除を縮小するなら、自営業者の諸控除をそれ以上に縮小するのが筋である。出来れば同時に税率の引き下げもセットにすれば、公平性・簡素さをさらに高める事が出来る。
 政府税調は、「給与所得控除における勤務費用の概算控除」を縮小する一方で、「確定申告の利用」(負担調整のための特別控除)を促す方針のようだが、これは最悪である。給与所得の経費控除の申告のためには、様々な領収書を掻き集めねばならなくなる。筆者もささやかな副収入があるため、毎年確定申告をしている。納税意識を高める為に全員が確定申告をする方向に促す事は結構だが、領収書を集めて経費計上する方式の煩雑さを考えると気が遠くなる。そんなことをすれば、税のループホール・不正が蔓延する。簡素さとは逆行である。また、給与所得者の労働生産性の低下にもつながりかねない。語学研修などの特定業種を優遇する結果にもなり、中立性にも反する。
 政府としては給与所得者に確定申告をあきらめさせ、結果的に大規模な増税に導くことが狙いなのかもしれない。結局、割を食うのは、忙しくて領収書を集めて税務署の顔色を伺う余裕など無いサラリーマンなのである。給与所得控除は、「簡素」の観点からは悪くない制度である。縮小は仕方ないが、決して経費の個別申告に摩り替えたりはしないで欲しい。

(4)政府税調は、頑固に消費税シフトを求めるべき
 「簡素」「(水平的)公平性」「中立性」の追求の為には、やはり所得税より消費税に傾斜するのが正道である。こうした直間比率の見直しは、政府税調が長年唱えてきた主張である。しかし最近政府税調は、消費税シフトを求めていない。
 石弘光会長は、「消費税と所得税のどちらを増税するかは政治家が選ぶ問題である」と発言したらしい(日本経済新聞、2005年6月22日朝刊による)。石会長としては、「消費税への傾斜(直間比率の見直し)についてはもう言い飽きた」「小泉首相が消費税引き上げ路線を封印している為、仕方が無いので所得税増税路線に焦点を絞った」という意識なのであろう。しかし、それでは学術的な検討を行ったうえで正論を述べることを旨とする政府税調の名がすたるのではないか。消費税への傾斜は、税理論の観点からみて妥当な方向性である。財政事情を考えると、その意義はきわめて重要である。そうした正論を提示せず、消費税に関する決断を政治に委ねるのは無責任であろう。
 政府税調には、妙に政治的な配慮に労力を裂かず、愚直に美しい理想の税体系を懲りずに論じ続けてほしい。(了)


★2005年6月5日 『日銀の福井総裁、一体誰に遠慮しているのですか?』  (省略)
★2005年5月6日 『JR西日本の脱線事故から民営公共企業のあり方を考える』 (省略)
★2005年4月9日『ライブドアのニッポン放送買収劇が突きつける課題』 (省略)

★2005年3月10日『政府系金融機関:民営化・統合ではなく縮小・廃止を』
(1)久しぶりに出口議論
 2月末の経済財政諮問会議において、久しぶりに公的金融の「出口論」が復活した。政府系金融機関の統廃合の議論である。小泉首相は、2001年に政権を握った直後から、この政府系金融の改革を郵政事業民営化とともに一挙に進めようとした。しかし、景気が悪化し中小企業の資金繰りが厳しくなったこと、郵政事業民営化の議論が空中分解したこと、りそな銀行が苦境に陥るなど金融システムが動揺し始めた事などから、この出口論も棚上げとなった。
 状況が変化したのは、昨秋である。昨年9月の中間決算を見る限り、少なくとも大手行については不良債権問題にようやく目処がついた。昨年9月10日には、「郵政民営化の基本方針」が閣議決定され、前途多難とはいえ今後の郵政改革の議論の骨格が一応定まった。景気も踊り場とはいえ、2002年当時よりは明らかに良い。こうした環境変化を下に、「出口論」が再浮上したのである。
 平成14年12月の経済財政諮問会議では、政府系金融の改革を平成17〜19年度に進め、平成20年度からは新体制で臨むと確認されている。今年中には「出口論」を処理しないと間に合わないという事情もある。

(2)出口改革の3つの意義
 何故、政府系金融機関を統廃合しなければいけないか。狙いは3つある。
 一つは、「民業の圧迫」を是正する事である。政府系金融機関が低金利で中小企業や個人に貸し付けると、銀行も貸出金利を下げざるを得ない。これが銀行の収益を悪化させ、銀行システムの強化を阻む。そればかりか、銀行の貸出採算が悪化し、これは中小企業向け貸出抑制の原因となる。筆者は、政府系金融機関の中小企業に対する低利融資は、中小企業金融の円滑化をかえって阻害しているのではないかとすら思う(詳細は拙著「無理な中小企業向け貸出拡大策は逆効果」『経済セミナー』2004年9月号ご参照)。
 もう一つは、効率の悪い公的な資金の流れを縮小させることである。「入口」の郵便貯金・簡保が吸い上げた民間資金の多くは、最終的には「出口」の政府系金融機関を通じて民間に還流する。その入口・出口でそれぞれ市場原理の働かない(リスクを反映しない)金利設定がなされるなら、そこに必ず国民負担が生じる。財政投融資の改革によって政府が直接逆ザヤを補填する術は縮小したが、実態的には公的資金による利子補給は続いている。また国民生活金融公庫のように過大なリスクを負いつつ融資業務を行っている機関は、民間ベースに引きなおすと膨大な不良債権を抱えていると言われる。これも潜在的な国民負担である。
 もう一つチェックしなければいけない点は、政府系金融機関が支えている中小企業(あるいは不振な大企業)は、本当に支える価値があるかどうかである。地元の産業を支える、あるいは特殊な技術を持つ中小企業なら、救済する価値はあるであろう。しかし、もし救う価値がないのであれば、救済のための公的融資は資源の最適配分を歪めるだけである。
 また仮に救うべきであるとしても、金融面で支えるのが妥当かどうかにも議論の余地がある。中小企業金融公庫の水口総裁などは、「中小企業育成は民間では採算に合わない」として公庫の存在意義を主張しているようだ。そうだとしても、「採算の採れない融資を何故続けるのか」については説得的な、明確な理由が必要である。理由が「中小企業だから」「気の毒だから」というだけなれば、救済は容認できない。

(3)政府系金融機関統廃合論の矮小化の懸念
 政府系金融機関の統廃合論は、これから本格化する。始まってもいないのに結論を先読みするのは小泉政権に対して失礼ではあるが、道路公団や郵政事業の民営化論の混迷を見た後では、一抹の不安を覚える。合併(統合)と民営化でお茶を濁されるのではないかという不安である。
 上記の統廃合の狙いを考えれば明らかだが、必要なのは公的金融の縮小であり、合併ではない。また水口総裁の言うとおり「民間では出来ない不採算事業」をやるのであれば、もともと民営化にはなじまない。不採算事業を無理に民営化しようとすると、道路公団・郵政と同様、土産をたくさん持たせる必要が生じる。それではなんら意味がない。国費がかさんで、かつ収益力抜群の新しい金融機関が誕生し、民業をさらに圧迫するだけである。
 公的金融の出口機関は郵便局ほど一般になじみがない。しかし民業の圧迫度や中小企業金融におけるプレゼンスの面では、郵政改革よりも重要かもしれない。是非、道路公団、郵政での失敗を生かして、きちんと「縮小・廃止」して欲しいものである。 (了) 



★2005年2月10日『死に体のG7会合を葬り、新G5を結成すべき』 (省略)
★2005年1月6日(謹賀新年) 『ペイオフ全面解禁 という言い方から改めよう』
 (省略)
★2004年12月20日『アジア通貨債基金(ABF2)設立はポスト・ドル体制下での重要なアクション』 (省略)
★2004年12月9日『GDP統計大改定が政策方法論議にまで発展』
 (省略)
★2004年11月12日 『ドル暴落懸念: ブッシュ再選と人民元自由化が引き金?』(省略)
★2004年9月25日 『融資マンの誇りがクレジット・スコアリング普及を阻む?』 (省略)
★2004年8月28日 『理念なき小泉財政は
built-in unstabilizer?』 (省略)
★2004年8月21日 『製造業、国内回帰すれど、雇用創出は望み薄』 (省略)
★2004年7月15日 『米国利上げの風が吹くと、円高急進?』 (省略)
★2004年7月3日 『ただ事ではない、家計の資金不足転落』 
(省略)
★2004年5月31日 『金融機能強化法案/本当に要るの?』 (省略)


★2004年4月22日 『郵政事業/目指すべきは民営化ではなく事業縮小』
(1)本質を忘れた議論に
 郵政民営化を巡る議論が、本質を見失い迷走している。国民の利便性の為に、いかに郵便局の窓口ネットワークを維持するかといった議論が、声高に語られている。こうした議論のねじれは、道路公団民営化を巡るドタバタ劇にも見られた。どうも民営化論議では、その本質が置き去りされがちなようだ。 
 では「民営化」の本質とは何か。存続価値があり、民間でも行いうるが何らかの事情で公的部門が運営している事業を、売却して民間に運営を任すのが、本来の民営化である。その目的は、他の民間企業との競争を通じて効率性を高めることに他ならない。そして、政府が助成しなくても独立採算で事業運営できることが、民営化の最低条件になる。
 採算が採れない公共性の高い事業は、税金を投入しつつ政府が運営すべきであり、民営化などしてはいけない。また、存続価値の乏しい事業は、民営化ではなく廃止・縮小すべきである。 
 過去を振り返ると、電電公社や日本航空などは、まさに民営化するに相応しい事業であった。国鉄も、過去の債務から切り離せば収益を確保できる目処があった為、民営化の対象となった。それに比べ郵政三事業(及び道路公団)は、いずれも民営化になじまない。

(2)簡保・郵貯は廃止、郵便は国営が妥当
 まず簡易保険と郵便貯金は、民間金融機関でほぼ完全に補完しうる業務であり、存続意義が乏しい。むしろオーバーバンキング、生命保険会社の過当競争の中で、民業を圧迫しているのは明らかであり、廃止が適当である。
 確かに、山間僻地でのサービスは民間にはできない。しかしこれとて、民間金融機関に公的助成を与えてやらせたり、山奥の郵便局では民間金融機関の商品取次ぎ・代行を行う、といったことで対応可能である。
 一方、郵便事業はライフラインであり、不可欠な公共事業である。しかし、採算が採り難く民間ではカバーできない。これは、政府が税金を使いながら運営し続けるべき事業であろう。民営化の最先進国であるイギリスですら、郵便の集配は国営のRoyal Mailが行っている。 
 ただし、郵便事業の効率化のために、民間のコンビニなどに郵便受付業務をアウトソーシングする事は検討すべきである。イギリスでも、民間の小売店などに郵便受付業務を委託するPost Office Countersという形態がある。しかし日本では、郵便局が多角化しコンビニまがいの商売を行う事も検討されているようである。全く本末転倒である。
 行政効率向上のためには、郵便局は多角化するのではなく、自らが事業を縮小しなければいけない。

(3)3つの幻想が話をおかしくする
 しかし、現在の郵政民営化の議論では、こうした本質論は忘れ去られている。既存の郵便局(郵政公社)の存在を肯定し、これを民営化という魔法の杖で輝かせようともくろんでいるかのようである。そこには三つの幻想がある。
 第1は、民営化すれば郵政事業の採算が採れるとの幻想である。民間金融機関がこれほど採算に苦労しているのに、新参者の郵貯や簡保が、採算が取れるわけがない。もちろん、もちろん、預金保険料や法人税を軽減するといった優遇措置を採れば採算を採れるかもしれないが、補助金漬けにしなければ採算が採れないようなら、そもそも民営化などすべきでない。
 第2は、郵貯・簡保資金がなくなると国債消化に支障をきたすという馬鹿げたおどしである。国全体のマネーフローを考えれば、郵貯・簡保に流れていた資金を国債や政府機関債に採り込めれば、政府は調達になんら困らない。そもそも定額貯金は、10年物国債とかなり似た金融商品である。人気が高まりつつある個人国債を定着させることで、郵貯資金を取り込むことが可能であろう。郵便局は、貯金業務をやめて個人国債を大いに販売すればよい。
 そもそも、郵貯・簡保という政府機関を間にはさんで公共債に投資させる、という重層構造をとる必要はない。例えば郵貯に似たイギリスのNational Savingsは、あくまで国債を補完する代替的な資金調達手段に過ぎない。
 第3は、郵貯ネットワークの貴重さという幻想である。インターネットバンキングやテレフォンバンキング、大手銀行間・地方銀行間のATMの相互開放、コンビニでのATMといった最近の動きを考えると、郵貯が得がたい国民的インフラであるというのは、かなり誇張された見方であるように思う。
 また、雇用対策としての郵貯ネットワーク維持という発想もおかしい。政府セクターの直接雇用によるニューディール政策を実施したいのなら、介護や治安維持、環境整備など、郵貯や簡保業務よりも社会的な要請が強い公共事業をやるべきであろう。

 郵便局の規模・事業の維持が最優先されるのは、もちろん政治的な要請によるものである。郵便局が集票マシンとなり、郵貯・簡保資金が政府機関を支えているため、政界・官界ともに、現在の郵政体制を崩したくないのである。それだけに、正論は民間から発せられなければならない。郵政事業は「民営化」ではなく、「事業縮小」すべきである。
 小泉首相の持論を鵜呑みにせず、まず「民営化の意義」から考え直さねばならない。 (了)



★2004年4月1日 『中国を悩ますトリレンマ/解消の特効薬は変動相場制移行』 (省略)

★2004年3月8日 『日本にとってもケリー民主党政権の方が好ましい (省略)
★2004年2月27日 『インフレ率目標も、財政出動も無く、7%成長が実現 (省略) 
★2004年2月5日 『空しい為替介入・日銀の国債保有のつけは、また国民に』  (省略)
★2004年1月1日 『新年の経済のリスク/デフレ解消の副作用』   (省略) 
★2003年12月26日 『迷走する金融行政』  (省略)
★2003年11月2日 『年金改革の為に若年の就労機会を奪うな』(省略)
★2003年10月5日 『消費性向を高めに保つ政策こそ重要』(省略)
★2003年9月10日 『麻薬漬けから脱せられなくなる日銀』(省略)
★2003年8月1日『政府系金融機関の不良債権、使い残しをどう考える?』(省略)


★2003年7月26日『郵政公社よ、何故そんなに頑張るのか』
(1)「郵便局で投資信託販売」の狙い
 2004年4月から、郵便局で投資信託が買えるようになるらしい。まず、都市部で投信販売をはじめ、順次広げるらしい。郵政事業は、効率性を高める為にこの4月から「公社」となった。会社となった以上、ある程度利益をあげなければいけない。片や、日本の金融構造は、過度の間接金融(預金・貸出の資金の流れ)依存を是正し、英米型の直接金融中心の構造に変革していかねばならない。投資信託は、そうした直接金融(証券市場)育成の為の最も重要な切り札である。
 この2つの点を考えると、郵政公社の投資信託販売は頷ける。なにしろ、全国津々浦々に拠点を持ち、庶民から根強い人気を持つ郵便局が投信販売に乗り出せば、これは個人の貯蓄行動に大きな影響を与えるであろう。多くの人が、このニュースに接して「便利になるぞ」と思ったに違いない。

(2)大切な「民業圧迫是正」の視点
 しかし、実はこの構想は大きな問題をはらんでいる。「何故、郵便局を公社化したのか」「小泉首相は、何故郵政事業の民営化にこだわるのか」。その理由は、単に郵政事業を効率化することだけではない。郵便貯金や簡易保険を通じて集めた資金が、政府系金融機関や道路公団などの特殊法人に流れ、こうした巨大な公的資金の流れが、日本経済の活力を殺ぎ少なからぬ損失を生み出していることも大切な理由である。また、こうした公的なマネーフローが、民間金融機関の収益を圧迫し、金融システムをいつまでも不安定にする元凶となっている。
 郵政公社の改革を議論する際には、公社の収益性だけでなく、「公的金融を縮小させる」という目的を忘れてはいけない。郵便貯金を(分割)民営化しようとするのは、郵便局を立派な金融機関に育てることが目的ではなく、民間を邪魔しないようにおとなしくしてもらう為である。投資信託は、今後の日本の銀行や証券会社にとって、残された貴重な有望ビジネスである。ここにまで公社が参入すれば、日本の金融機関は何を糧に生きてゆけばよいのか。
 「民間の手が届かない山間僻地での金融サービスは、郵便局しか担えない」という反論もあろう。しかし、仮にそうだとしても投資信託を郵便局で売る理由にはならない。投資信託など、今や電話一本でいつでも設定・解約できる時代である。決済サービスと運用サービスでは、窓口(拠点ネットワーク)の重要性は決定的に異なるのである。まして、都市部の郵便局だけで販売を始める理由は、全くない。

(3)改めて「民営化」の意義を問い直そう
 どうも、公社化、民営化の議論は、本来の目的が忘れられがちである。その傾向は、郵便局だけでなく道路公団民営化(2002年12月9日付本コラム参照)や特殊法人改革にも共通して見られる。政府から事業を切り離し、民間に任せるのは、政府の事業はどうしても自己増殖し歯止めが利かなくなるからである。公社化したとたんに、業務拡大に走るのは本末転倒である。
 郵政公社の業務を考える際には、その収益性もさることながら、「業務内容が公的セクターの範囲を逸脱していないか」「民間を圧迫していないか」を同時に厳しく問う癖をつけねばならない。(了)


★2003年7月8日『理念無き日本の対アジア経済戦略』
(省略)

★2003年6月16日『耳を疑う石原 東京都知事の新銀行設立構想』
(1)石原都知事の野心的な(?)構想
 5月23日、東京都の石原慎太郎が、「新銀行」の構想を発表した。このニュースは、多くの人に驚きを与えた。さらに驚いたのは、この構想がメディアや大衆から好意的に迎えられたことである。筆者はこの構想に首を傾げる。否、危なさを感じる。「新銀行はうまく行くはずがない」「何ら意味を持たない」と考えるからである。
  「東京都営銀行(仮名)」は、東京都が50%以上出資する初めての地方自治体系銀行となる。どうやら、民間銀行の貸し渋り、貸しはがしにあえぐ東京の中小企業を救う事が最大の目的らしい。ICカードやATMを駆使して、個人預金を効率的に調達し、中小企業に無担保で貸すらしい。まさに野心的な構想である。稀有なアイデアマンの石原都知事ならではの奇抜な発想である。

(2)銀行業は儲かる仕事か?
  しかし、すべての邦銀が低収益構造に喘いでいる中で、どうして都が運営する銀行だけがそんなにうまく行くのか。もし儲かるのであれば、これほどの資産大国である日本に、こぞって外資系銀行が参入してきているはずである。しかし、証券会社や保険会社、あるいは投資銀行分野での外資参入は盛んだが、商業銀行分野への外資参入はほとんど無い。シティバンクが個人金融分野で地道に勢力を伸ばしているが、そのシティバンクとて、中小企業向けの融資には全く手を染めていない。
 銀行の融資が拡大しないのは、ひとえに利鞘の低さが原因である。貸し渋り、貸しはがしに対する批判が根強いが、0.5%程度の利鞘(総資金利鞘)のもとで、リスクの高い中小企業に融資ができるはずが無い。利鞘からデフォルト率を差し引けば、おそらくマイナス、すなわち採算割れとなっているのではないか。いくら石原都知事がスーパーマンでも、都営銀行だけが採算を採れる筈が無い。

(3)損失は都税で負担するのか?
 こうした状況の中では、「東京都営銀行」は数年で赤字の塊となる。その時、マジョリティの出資者である東京都が損失を穴埋めしないで済むであろうか。
あるいは、債務超過に至り破綻する羽目になったとき、その損失は誰が蒙るのか。日本全体ではペイオフを凍結しておいて、東京都営銀行だけは預金者に損失を求める気であろうか。やはり都税で埋めるしかなくなるであろう。

 そもそも銀行の利鞘がこれほど低いのは、銀行が供給過剰(オーバーバンキング)だからである。すなわち、預金量や融資量が多すぎて、過当競争になっているのである。この過当競争を是正するには、銀行が業容を縮小し、公的金融機関(郵便貯金と政府系金融機関)も縮小あるいは廃止してもらわねばならない。そんな中で、もう一つ政府系金融機関を作るというのは、全くマクロ経済の状況を理解していない発想である。
 東京都民は、そんな危険な、馬鹿げた道楽を都知事に許してはいけない。「カジノ構想」と同様、
 今回も都知事の話題作りの道具に留まり、後に撤回するのであればまだ始末が良い。しかし、もしも都知事が本気に銀行を作りたいのであれば、都民はこれを必死で止めねばなるまい。 (了)


★2003年6月8日『函館どつく、何の為に税金で救うのか』(省略)
★2003年3月10日『株価対策:減損会計の導入延期以外は無意味』(省略)
★2002年12月9日『道路も企業もタダでは処理できない』
 道路公団民営化推進会議が、最終報告を提出した。推進委員会の委員(「7人の侍」)の間の確執と新規建設の是非、新会社の組織ばかりが報道されたが、一つ根本的な論点が忘れ去られている。すべての高速道路を民営化するという方針の妥当性である。

(1)道路公団のすべての民営化は無理
 紛糾を繰り返した推進会議にも、一つ大きな成果があった。道路公団の財務状況のひどさが初めて明らかになったことである。公団全体で40兆円もの債務があり、最も優良だと見られていた日本道路公団でさえ債務超過に陥っていることが明らかになった。
 本来なら、この粉飾会計が明らかになった時点で「民営化委員会」は仕切り直しすべきであった。債務超過を抱えた企業体をそのまま民営化し、上場させるなど所詮無理だからである。ところが民営化推進会議は、「国民負担無し」「料金値下げ」「全部の民営化」という看板を下ろさずに議論を続けた。その矛盾を抱えながら突っ走ったことが、後に上下分離方式や新規建設に関する議論を紛糾させたのである。

(2)産業再生機構も同根
 道路公団を民営に売りたければ、先に誰かが過剰債務を埋めなければいけない。この構図は、銀行の不良債権処理を想起させる。産業再生機構の過剰債務処理も、道路公団民営化と同様、空中分解するのではとの不安に襲われる。
 産業再生機構は、そのスキームが固まっていない段階で決め付けるのは失礼だが、どうも機能するように思えない。小泉首相や竹中大臣は、これまでの発言から察するに、機構が債権を買取り処理する過程で、国民負担が生じることを許さないと思われるからである。
 その結果どうなるか。おそらく産業再生機構の債権購入価格は実質簿価などの高めの価格ではなく「時価」となろうし、2次損失が発生した場合には資産売却行に負担を求めるであろう。そして、購入した資産は再生にこだわるあまり機構内に塩漬けとなる公算が大きい。「国民負担回避」の呪縛が原因である。

(3)国民負担不可避との認識が出発点
 企業の過剰債務の原因は、長期不況、資産デフレと放漫経営である。この過剰債務処理の損失を銀行がかぶれば、銀行の自己資本が圧迫され、そのつけは預金者か国民が払うことになる。仮に産業再生機構で処理すれば、そこで生じた損失は納税者がかぶる。
 同様に、道路公団の過剰債務も、プール制の下での不採算路線建設という放漫経営の結果である。そのつけは納税者がかぶるしかない。
 つまり、いくら民営化や再生という美辞麗句を並べても、過剰債務が消えるわけではなく、そのつけは結局国民が払わされる。これをいくら覆い隠しても、数年後に問題が露呈するだけである。構造改革を進めたいのであれば、あらためて「国民負担やむなし」と宣言するところから始めなければならない。(了)