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6.母子島遊水池(2004.09.25)
「はこじま」遊水池に行った.もとあった5集落が集団移転して遊水池内に居住している特徴を有する地域である.. ・昭和61年の大水害まで,戦後おおよそ7年に1回の被災を受けていた. ・2川が合流する「三角州」に位置する母子島は,一度水をかぶると水が抜けずに,災害が長期化した点は,小貝川の右左岸の集落と異なる特性を有する. ・昭和61年の水害では母子島一帯が水につかり,水田部では水深3mに及んだところもあったが,昔からの経験から被災者は無かった. ・被災復旧にあたり,他地域への移転も考えられたが,周辺の土地利用は,水田,畑となっており,水害のため他地域に居住した場合でも新たな耕作地の確保は困難であった.また,長年住み慣れた土地への愛着,生活圏変更への抵抗感,早急な対応への要望から,最終的には集団移転が実施. ・集団移転した旭が丘の標高は,堤防高と同一で,浸水の危険性はない. ・集団移転にあたって,下水道等の整備要望が目立ったものであった. 住民がどのようなことを考え,嘱望していたのか?実際にヒアリングを行い,人が川との折り合いを旨く行えるような,そんな要因や仕組みを検討したい. |
5.旭山動物園(2004.09.25)
クローズアップ現代(9/23)に旭山動物園が取り上げられた.現在,日本で一番入園者数の多い,ホットな動物園だ.平成8年に30万人であった入園者数が,昨年は80万人,約3倍弱である. 施設はほとんどマイナーチェンジ,園長のリーダーシップによって「展示」が工夫された,との論調であった.これだけでは無いだろうが,「動物という」素材の演出によって,すくなくともこれだけ動物のおもしろさ,すごさを見れることができるのか?興味が惹かれた.「飼育係」が「飼育展示係」になった! もともとは園長さんの「動物のすごいところを見てもらいたい」という自発的な取り組み,サルの飼育展示係がいった「大変ですけで,やりがいがあります」というコメントが印象的だった.個人個人の前向きな取り組みが,「旭山動物園」として大きな力・魅力を生んでいる. |
4.まちづくり(2004.09.25)
「古河が,いくつのかの雑誌に掲載されています」,と古河歴史博物館の館長さんからご連絡を頂いた.日経マスターズ(No.25),散歩の達人(2004,10),JTB小さな町小さな旅関東版,石垣(日本商工会議所,2004,7),その他読売新聞の茨城版に文学館が,永井路子先生の記事は無数にある.うれしい限りだが,もっと古河のことを知ってもらいたい,来訪した人がリピーターになるように何かできないか?と感じる. やっぱりお土産とお食事どころ,それから観光の中心となるセンターがあると,もっと効果的にできるのでは?と思う.もう少し観光客が長時間滞在,ぶらつくことのできる施設が必要で,他の賑やかな町では,これらが充実している.大学でできることは何だろう? 余談 |
3.交通調査(2004.09.25)
この夏,ある交通調査を引き受けた.非常に小規模であるが,サンプル数約100名,自らのモビリティや今後の動向について自発的に行ったアンケート調査の解析を依頼されたものだった.自らプログラムを回して分析を行い,かなりしんどいものだった. 「交通調査は,分析が目的ではなく,その先の計画の立案までが調査だ.」と言われたことがある.さらに,しっかりとした目標が無ければ「猿の電卓(算出された答えに,「意味」がない)」になってしまう.そんなことを改めて考えさせられた. 住民1人あたりのコストを考えると約1000円.それだけの「期待」に対して,できる限り答えたい,そう思った. |
2.木曽路(2)−分水嶺(2004.09.09)
「奈良井1000軒」と呼ばれた奈良井宿を初めて訪問.伊那谷から木曽谷へ渡る神坂峠(標高1570m)がよほど厳しいのか?東山道から街道が変更となった中山道,その狭き切り立った木曽谷の往来が往事を忍ばせる.木曽11宿の中で,奈良井宿がなぜ最大であったのか?現地,鳥居峠(標高1197m)を見て理解できた. 鳥居峠は,太平洋に注ぐ木曽川と日本海に注ぐ奈良井川・梓川・信濃川の分水嶺にあたる.岐阜県・高山に北上する際に通過する宮峠(標高782m)の様である.かつて,川の流域で文化圏を再創造するといった考えを見たが,少なくとも木曽谷では「中仙道」としての一体感がはるかに上回る,そんな印象を持つ. 余談 |
1.木曽路(1)−妻籠宿(2004.09.08)
妻籠を約10年ぶり訪れた.前回は日帰りだったため,今回は夜を体験しようと民宿に泊まった.当初受けた感想は下記の3点.
・「生活空間を見せている」とのコンセプトは,川越等に通じるものがある. なぜ,大きく変わらなかったのか?また,これまでのまちづくりの理念と経済・生活との関わりについて以下のように推測できる. ・明治時代(1868)になり参勤交代の廃止がされ,交通形態は大きく変化(島崎藤村,夜明け前等の記述から).さらに,明治25年(1892):国道19号が木曽川左岸に開通,明治44年(1911):中央西線全通により幹線網から取り残される. このような活動により,昭和51年に重要伝統的建造物群保存地区に指定され,現在に至っている.今後,顕在化する問題として下記のものが考えられる. ・組織の高齢化:リーダーシップを取ってきた人々が高齢化.次なるグループの育成とこれまでのまちづくり理念の継承が問題. 久しぶりの訪問であったが,宿場の原点を見直す(かつての宿場町を経験する)との観点からは,非常に有益であった. 参考文献:南木曾町博物館:南木曾の歴史,南木曾町教育委員会:長野県宝妻籠宿脇本陣林家住宅調査報告書 |